第51話:迷子のクロ
「悪く思わないでくれ。ここは通さない決まりでね……まぁ、迷うのも旅の醍醐味だろ?」
エーギルの『森の加護』を封じられてしまった。
それはつまり、この森に閉じ込められたも同然だった。
「エルフの加護を封じるなんて、お前は一体……」
エーギルは困惑に揺れる目でギムレットを睨む。
迷いの森の番人を名乗る、得体の知れない人ならざるもの。
どう動くべきか、ヨナもクロも測りかねていた。
その反応がよほど愉快なのか、ギムレットは他人事のようにくっくっと喉を鳴らす。
やがて堪えきれなくなったのか、肩を揺らして笑い始める。
彼の笑い声が森じゅうに反響する。
木々が彼の笑い声を真似ているようで、どこか虚ろで不気味な響きかただった。
ひとしきり笑ったあと、ギムレットはエーギル達をゆっくり一瞥して、パイプに口付けた。
吐き出された紫煙に紛れるように帽子の影が落ち、灰色の瞳が昏く沈んだ。
「……まぁ楽しんでいってよ、勇者さんたち」
そう言い残すと、ギムレットは森の闇へ溶けていった。
やっと我に帰ったクロがようやく口を開く。
「おい、これどうするんだ……ヨナ!」
クロが後ずさると、ドンと何かにぶつかった。
ヨナかと思って振り返ると、それは木だった。
「──え?」
足元でかさりと落ち葉が擦れる音がした。
クロは驚愕した。
すぐそばにいたはずの、エーギルとヨナの姿がない。
さっきまで霧が晴れた広場にいたはずなのに、いつのまにか、濃霧に囲まれていた。
地肌が見えていた地面は、いつのまにか、落ち葉の絨毯に変わっていた。
「はぁ!?嘘だろ!?」
濃霧の中、いくら歩き回っても人の気配はどこにもない。
見渡す限り、真っ白な霧と木しかない。
(まさか全部、あのギムレットとかいう奴が見せた幻なのか?)
クロのその考えを否定するように、すぐ近くに焚き火の跡があった。
それが、先ほどの出来事が幻でないことを証明していた。
なんとなくではあるが、エーギルがある程度近くにいることはわかる。
それはあくまでも感覚的なもので、どこにいるかまではわからなかった。
相変わらず周辺に人の気配は全くない。
一瞬で完全にはぐれてしまったことを実感して、不安で頭が痺れたようになる。
「迷いの森、やべえな……」
クロは力なくその場にしゃがみ込んだ。
もはやどうしたらいいかわからない。
とりあえず空を見上げてみるが、真っ白だ。枝の隙間を埋め尽くす濃霧。
分厚い雲に囲まれているような、重苦しい閉塞感だ。息をするだけで、気が滅入りそうだった。
ドラゴン姿に戻って空から森を焼き尽くしてやろうかと思ったが、やめた。
(少なくとも、この森には意思のようなものがある。俺たちを迷わせるという明確な意思が)
こういう場所にいる場合、下手に破壊しないほうがいい。
前世読み漁りまくった、ファンタジー小説のお約束どおりなら。
(仕方がないな。夜になる前に休めるところを探さないと)
(食いもんは……まあ最悪、木を食えばいいか)
小腹が空いたので試食がてら、そこら辺の枝を手折って齧ってみる。
(食べられなくはない……が、味がしないな。紙を食う方がマシだ)
噛めば噛むほど増していく虚無感に、クロのテンションが落ちていく。
いくら咀嚼しても、美味しくなるアレンジや料理方法が思い浮かばない。
クロは食べかけの枝を放り捨てた。枝は霧の中へ消えていった。
クロはその気になれば、石でも土でも──形あるものなら、とにかく何でも食べられる。
エーギルによれば、他のドラゴンにはない特異体質らしい。
そういう意味では餓死する心配がないのはいいが、やっぱり美味しいものは食べたい。
クロの食べ物は全部エーギルが持っているので、早く彼と合流したいところだ。
エーギルの収納魔法には、容量いっぱいまでクロの食料とおやつと希望が詰まっている。
(エーギルと合流したとき、まず何を食べさせてもらおうか……)
クロは霧の中をあてもなく歩きだした。
食べ物のためなら少しは頑張れるのが、クロだった。
(──そうだな、果物か?いや肉か?ううむ、パンも捨てがたいぞ。……そういえば料理のストックもあったな。森の中で食べるならサンドイッチがいいな。クロワッサンもいい。くそっ迷う……いっそ、全部出してもらうのもありだが、それだとありがたみが半減する)
気晴らしに考えるつもりが、いつのまにか真剣に考えてしまっていた。
クロの頭の中でサンドイッチとハンバーグの一騎打ちになったところで、かすかな匂いが鼻腔をくすぐった。
「……んん?」
その匂いは、はるか遠くから漂っているようで、相当注意しないと気づけないほど薄い。
それゆえに何の匂いか、まだ判断はできない。
しかし、それは間違いなくクロの食欲を刺激するものだった。
クロはこの森に来て初めて、胸が高鳴るのを感じた。
犬のように貪欲に鼻をあちこちに動かして嗅ぎ回ってみる。
ため息のようにかすかな風がクロの鼻頭を優しく撫でた。
どうやらその匂いは風に乗ってきているようだった。
「こっちか!!」
匂いがする方角がわかった瞬間、匂いの輪郭がはっきりした。
その匂いはうっすらと熱を持っていた。
何かを焼いている、甘く香ばしい匂い──間違いなく食べ物の匂いだ。
そうわかると、自然と駆け足になった。
進むたびに、徐々にその輪郭が明らかになっていく。
ああなんて、香ばしく、素朴で、あたたかい匂い。これは間違いない。
クロは思わず頬が緩むのを感じた。
ほんのりとバターの甘い匂いも混じっている。なんて素敵な匂いだろう。
何を作っているのかわかった。間違いなくパンを焼いている!
クロはうっとりとしながら、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
焼きたてのパンの香ばしさと熱さと、黄金色の焼き目と、もっちりとした生地の弾力。
想像するだけで夢見心地だ。
そこからはどこをどう歩いたかは覚えていない。
とにかく匂いがする方向へ向かって、必死で木々の間を潜り抜けてきたことしか覚えていない。
濃霧が混じった茂みを抜けると、煙突のついた家が目に入った。
煙突からはもうもうと煙が上がっていた。パンを焼いているのはこの家だろう。
「ここは……?」
辺りを見回すと、霧は薄く、ぼんやりとではあるが丘の上にある家まで見通せた。
畑と思しきものがあちこちにある。小さな農村のようだ。
クロはようやく地面が舗装された道になっていることに気づいた。
いつのまに森を抜けてしまったのだろうか?
クロがぽかんとしていると、老婆が声をかけてきた。
その後ろには小さな子供が3人いて、珍しそうにクロを見上げていた。
「おや、旅の方かい?その様子だとお連れの方とはぐれたようじゃな」
「まあそんなところだ」
「この辺りはよく旅の方が迷い込んでくる。今日は霧が濃いし、日が暮れると危険だ。ここで一晩休んでいきな」
(どう考えてもここは怪しいぞ。俺が歩いてきたのは森を抜けられるような距離ではなかったはず)
クロが逡巡していると、焼きたてのパンの香ばしい匂いを乗せたそよ風が吹いた。
彼の腹から、気の抜けた音が響いた。
その音で子供たちの警戒心が緩んだのか、老婆の後ろでくすくすと笑いあった。
そもそも、クロはこのパンの匂いに引き寄せられてここまできたのだ。
「……それじゃあお言葉に甘えて!」
クロは元気よく答えた。
それを聞いて、婆は自分の孫が遊びにきてくれたように喜んだ。
「ちょうど大豊作でな。村では食べきれんので、たくさん食べてくれると助かる」
「まかせろ!食うのは俺の得意分野だ!」
クロは前世から年上に可愛がられるタイプで、今世もそれは変わらないような気がしていた。
罠なのではという不安はもちろんあったが、自分はドラゴンなので大丈夫だろうという揺るぎない自信が圧勝した。
そう、ドラゴンが暴れれば大抵のことは解決する。エーギル達も騒ぎを聞きつけてすぐに駆けつけるだろう。
(細かいことは食べながら考えればいいしな。腹が減ってはなんとやらだ!)
いつのまにかクロは村人たちに囲まれ、なりゆきで農作物の収穫を手伝うことになった。
どの野菜も果物も色鮮やかで艶が良く、美味しそうに実っていた。
宝物のように輝くかごいっぱいの作物に、クロはご機嫌だった。
「かなり重いけど大丈夫かい?」
クロは服についた土をはたきながら、作物がぎっしり入ったカゴを軽々と持ち上げる。
「全然大丈夫だ!幸せの重みだな」
どっ、村人たちの笑い声が響いた。クロもつられて笑った。
──クロが食べたいなら、食べてもいいよ。
エーギルの声が聞こえた気がして、クロは思わず振り返った。
しかし、どこにもエーギルの姿はない。
「空耳か……?それにしては妙にはっきりと聞こえたな」
民家の扉が開く。
焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、クロの意識はあっという間にそちらへ引き戻された。




