第49話:薬師になれなかった勇者
「お昼に行く前に、調合室に寄ってもいいかい?クロの薬を作りたい」
ギルドの解体場の扉を閉めながら、エーギルは言った。
「そういえばそうだったな。もちろんいいぞ!」
クロがネヘブ戦で負った傷はまだ癒えておらず、動くたびに痛んでいた。
正直赤鱗を運ぶのもきつかったが、クロは顔に出さなかった。
「まかせて!傷が一瞬で治る最高の薬を作ってあげるよ」
調合室とは、ギルド内にある施設の一つだ。
調合に必要な道具や設備が一式揃っており、材料さえ持ち込めば誰でも調合できる。
すでに廊下には見物人が集まっていた。
「門外不出といわれるエルフの調薬をこの目で見られるとは!」
「いったいどんな調合をするのかしら!」
エーギルは見物人たちを気にする様子も見せず、作業台の前に立った。
空間魔法から、薬の調合に必要な材料を一式取り出していく。
それを見た見物人たちが悲鳴をあげる。
どれも店では鍵付きの箱に収められるような、希少かつ高価な薬草ばかりだ。
エーギルはそれらを市場で買った野菜でも扱うような気安さで、次々と刻んでいく。
「あんな大量に……!私たちではとても手が出せないわ」
「いやいや、まずあれをどこで手に入れたんじゃ?新鮮すぎる」
「勇者様の空間魔法は時間を止める性質もあるのかもしれない」
見物人が騒ぐたびに、クロは妙な優越感を覚えていた。
「俺は勇者の従魔で、しかも偉大なドラゴンだからな……ふふん、当然だ」
「ハッ、その顔いつまで持つかねェ?」
「ヨナ!?」
壁際で見学していたクロの隣にやってきたのは、ヨナだった。
「見学は許可してねェぞ。見せもんじゃねェ、おら散れ散れ」
ヨナは見物人たちを一人残らず追い払う。
「グロッタとの話は終わったのかい?」
エーギルは刻んだ薬草を鍋に投入しながら尋ねた。
「ああ。最近は色々物騒なんでな、ハリムはデリッツダムで保護することになった」
「そうか、良かった。それを聞いて安心したよ」
エーギルが鍋をかき混ぜるたびに、光が溶け込み、薬草は形を失い、とろりとした液体へ変わっていく。
それが透明に変わったタイミングで、エーギルは袋からキューブ状の何かを取り出し、3粒投下する。
初めて見る薬の調合風景に、クロは目が離せない。
「その四角いのはなんだ?」
「すり潰したドラゴンの角さ。一口食べてみるかい、クロ?」
エーギルはどこか楽しそうだ。クロのために腕を振るえるのが嬉しいのだろう。
「いや、遠慮しておく。……それにしてもすごい色だな」
ドラゴンの角が溶け込んだ薬液は深い瑠璃色を経て、目の覚めるような蛍光イエローへ変わる。
シナモンと黒糖が混ざったような香りが漂うが、なぜか驚くほど食欲は全くそそられない。
「普通はこうならねェ。ギルの調合スキルは最高レベルの特級だ」
「さすがエルフ……」
「エルフだからというより、色々と規格外なんだよ」
「どういうことだ?」
「飲めばわかる」
真顔で答えるヨナの様子に、クロは初めて不安になった。
「できたよー!」
「もう終わったのか!?しかもこれだけか?」
差し出されたのは、スプーン一杯の琥珀色の液体だった。
「あれの上澄みがこれなんだ。ほら、あーんして」
「ふうん……めちゃくちゃ苦いとかじゃないだろうな?」
クロはしげしげと薬を眺める。いくら嗅いでも、不思議──不気味なほど無臭だ。
生まれて初めて飲む薬なので、クロはどうしても警戒せずにはいられない。
「大丈夫!これは甘くて飲みやすいよ」
ぐっと親指を立てながら、自信満々に笑顔で答えるエーギル。
「それなら大丈夫だな!いただきます」
スプーンを口に入れた瞬間、暴力的なまでに強烈な甘さが炸裂した。
あまりの甘さに目の前が白くなる。
これほど命の危機を明確に感じたのは、今回が初めてかもしれない。
(これは、やばい)
本能が薬の存在を拒絶する中、エーギルの笑顔が瞼の裏に浮かぶ。
クロは薬を無理やり飲み込んだ。
もったりと重く、喉を焼くような甘みが食道を通る。
波風が抜けるように、鳥肌がぞわぞわと立つ。
「ぐぇっ………………!!」
クロは膝から崩れ落ちた。手が震え、意識が遠のく。
尻尾がビクンビクンとのたうち回るように痙攣する。
鱗が浮いて逆立っていた。
(甘すぎるとかもうそういうレベルじゃねえ!なんだこれは!?!?)
世界中の甘味をかき集めて圧縮したような、地獄の甘さ。
甘すぎて、舌から喉──いや内臓までずっと甘い。
驚くべきことにクロの怪我は一瞬で全て癒えていたが、それどころではなかった。
「クロ、大丈夫かい!?顔が真っ青だ……ごめんよお……!!」
エーギルが倒れたクロを抱え上げる。
「……あー……なんだ……」
泣きそうな声でひたすら謝る幼馴染に、ヨナが珍しく言葉を選ぶ。
「お前の薬は、ドラゴンには少し強すぎるのかもしれねェな……毒みてェなもんだ」
エーギルはすっかり落ち込んでしまった。
「怪我が治ったから大丈夫だぞ!」とクロがフォローを入れたが、その顔色は悪いままだったので効果が薄かった。
(ちゃんと味見したって言ってたが、それはそれでどうなんだ……?)
「なるほど、特級か……」
具合が悪い時に見上げる天井ほど、やけに落ち着く。
クロはギルドの救護室のベッドで横になっていた。
「……黙ってて悪かった。これ齧っとけ、少しはマシになる」
ヨナが小さく耳打ちしながら、懐から一本の薬草を取り出した。
「……助かる」
その薬草は、舌が痺れるほどものすごく渋かった。
今のクロには、それがとてもありがたかった。
その日は珍しく、昼食が遅くなった。
場所はルーカスが予約を入れていた、黄金のフライパン亭だ。
「あれ?あのチンピラ達は?」
クロが初めてこの店で食事をした時に、絡んできた冒険者崩れ3人組のことだ。
あの騒動で冒険者証を剥奪され、心を入れ替えてここで働いていたはずだが、その姿が見えない。
「それがねえ……こないだから行方不明なんですよ」
おかみさんの顔はどこか暗い。
「サボってるとかじゃねェのか?」
「初めはわしらもそう思っていたんですが、3人とも家にずっと帰っていないそうでしてな……」
誰も姿を見ていないことがわかり、先日ようやく行方不明届を出したばかりだという。
「それは心配だね……」
店の中が妙に広く見えた。
◇◇◇◇◇◇
どの地図にもない、捨てられた廃村に一人の男が降り立った。
その男は黒かった。
砂上に落ちた彼の影は、異様なほどに濃かった。
黒いから昏いのではない。昏いから、黒い。
編まれた黒髪が強風にあおられて、捕らわれた蛇がもがくようにばたばたと靡く。
彼の瞳は底なしの闇だった。
どこまでも深く、黒く、昏い。
太陽でさえその闇を照らしきれず、その瞳には反射しない。
本来瞳に映り込むはずの光はすべて、重い墨に沈むように闇に呑まれていく。
光を持たないから昏いのではない。
何を呑み込んでも満たせないから、昏いのだ。
たとえば、クロが絵の具を混ぜて生まれた黒だとするなら。
この男は虚無であるがゆえの漆黒だ。
光さえ飲み込むほどの闇──そういうほかない。
男は湖畔で、落ち葉ほどの大きさのものを見つけた。
それが何かわかると、男の表情が喜びで大きく歪む。
「僥倖だ!僥倖だ!あれほど攻撃しても傷がつかず、全く手を出せなかったのに!」
まるで舞台の上で語るような声音。
拾い上げた鱗を空高く掲げ、昏い瞳は大きく見開かれる。
青みを帯びた鉄錆色の肌。
その瞳は、忘れ去られた深い古井戸の底のように昏い。
覗き込めば、二度と戻れない──そんな陰鬱さを湛えていた。




