島国の街、モードディッシュにて
「ねえヒルマ、やっぱりモードディッシュのお料理も美味しいのかしら?」
朝、身支度を整えながらそんなことを問う。
「そうですね。ハシュートの食事も美味ではありましたが、それとはまた違う種類の料理を食すことが出来ますよ」
「屋台とかもあるのかしら?」
「観光地ですからね。メインストリートに幾つか並んでいたと思います」
「そっかあ、楽しみだね」
銀の髪に櫛を入れてくれるヒルマを振り返ってにこりと笑う。
以前は全くといって良い程屋台料理を上手く食べれなかったけれど、それなりに宿屋のご飯を食べたからわたしはカトラリーを使わない食事にも慣れてきた。
パンは齧るもの。スープはパンを浸すもの。手で食べれるものは手で掴むもの。
最初は全てのものにカトラリーを使わないということに不安はあったものの、ヒルマから庶民が食事作法が綺麗だと怪しまれる、という話を聞いてからは、周りに人がいるところではなるべくカトラリーを使わないように気を付けている。
「…………少し、顔が明るくなられましたね」
髪を梳り終えたヒルマがわたしの前に屈み、少し前まで腫れていた頬に手を添えた。
「そう、かしら?」
「はい、少し昔に戻られたような」
じっと、その翠緑の目で、わたしに微笑み掛けるヒルマ。
「頬の傷も、綺麗に治って良かったです」
「大袈裟よ」
頬を撫でるその手を捕まえて苦笑する。
「本当に、良かったですよ。まだ、お嬢様はそんな風に笑うことが出来ますから」
「何よ、ヒルマ」
ふわふわと笑うヒルマがおかしくて、目尻が下がって行くのがわかる。
「どうしたというの、ヒルマ?」
「ふふふ、なんでもありませんよ」
いいこ、いいこ、と、何故か頭を撫でてくれるヒルマの手がくすぐったくて笑えば、彼女も釣られて笑ってくれる。
「行きましょうか」
「ええ」
立ち上がり、わたしの手を引いてくれるヒルマ。部屋のドアを開けて外に出れば、丁度カールと会った。
「カール、おはよう」
「ああ、おはよう」
「まだ、体調が悪い?」
わたしに気が付いて挨拶は返してくれたものの、カールの翡翠をした目の下には、くっきりと黒いクマが残っている。
船旅の時も顔色は優れなかったけれど、今日はそのときよりも酷い。
「あー……、まあ、そうだな」
歯切れ悪く肯定すれば、ふいっと視線は逸らされる。
「宿で休んでる?」
一応、今日は観光でもしようかという話だった。でも、カールの体調が優れないのであれば日を改めよう。
そう思って問い掛ければ、カールは首を振った。
「いや、宿にいてもな。ミーナに着いていくよ」
「無理しなくていいのよ?」
「問題ない」
顔は青ざめていて、目の下には特大のクマを作っているのに、問題ないと吐くカール。
「大丈夫だよ、ミーナ様」
とんとわたしの肩を叩くのは何故か後ろから現れたディルク。
「僕がカールに着いて行くし、ダメそうなら宿に戻ってくるからさ」
「でも……」
モードディッシュに滞在する日数はけして少ないと言うような日数ではない。最低でも二週間、返事がなければ一月は滞在するかもしれない場所だ。
それなら、わざわざ体調の悪いカールを押してまで観光に行かなくても良いのだと思うのだけれど。
「大丈夫だからさ」
にこりと笑うディルクと、困ったように微笑んでいるヒルマ。依然体調は悪そうだけど観光に行きたいというカール。
「わかった」
そこまで言うのなら、と折れるのはわたし。
「ベルホルトとファティは……」
「あ、早朝、少し用があるから先に行っててくれと言付かりました」
「あ、そうなの」
この場にいない二人と合流しようと思ったものの、ヒルマが先に言葉を重ねる。
「それじゃあ、行こう?」
ディルクの言葉に頷く。ということでひとまず、この四人で観光することとなった。
「待って。何この串焼き。すごく食べにくい」
「ヘタクソ」
「うるさいなあ」
メインストリートへと出て来て、立ち並ぶ屋台で料理を買い込んだ。それなりに人通りのある中央広場のベンチにて腰掛け、見慣れた景色を繰り広げる二人。
「どうして食べようとしたところが回転するの?」
「ヘタクソだから」
ディルクが手に持つのは、魚の尾から串を入れて頭から出した一尾の串焼き。
わたしが前にヒルマの前で行ったことと同じことを、今度はディルクがしていた。
「屋敷でお坊っちゃん暮らしなんかしてるからだよ」
「たまに仕事中抜け出して下町でつまみ食いしてるなんてこんなときくらいにしか役立たないじゃないか」
綺麗に食べ終えたカールと、未だぼろぼろと身を落としつつ食べ進めるディルク。そんな彼らの会話に、わたしは割って入った。
「カール、お仕事サボっているの?」
聞き捨てならないことを今、わたしは聞いた気がするからだ。
「…………いや?」
しまった、と言いたげな顔を一瞬だけしたカール。そんな彼を裏切る親友が横に一人。
「そうだ!聞いてよミーナ様!」
串焼きでからかわれた礼と言わんばかりにディルクが詳細を語ってくれた。
「国王補佐が、何をしているの……」
「仕事はしてるしな」
「そういうことではないのだけれど」
溜め息を吐いて二人を眺めた。
「ただでさえ僕らが二十歳にもならずして国王補佐になったのは出来レースだって後ろ指指されてるのにさあ」
ぽろりと何事もなくディルクが溢した愚痴に、わたしは改めて目の前にいる二人の来歴を思い出す。
カール・シュゼット。シュゼット侯爵家の次男で、琥珀色の髪と翡翠の眼差しをした幼馴染み。
側室生まれの次男という立場故に侯爵家のスペアとして考えられていたものの、長男よりも優秀ということが災いして本妻であるシュゼット侯爵夫人が彼を付き合いのあったわたしの生家、ダルスサラム公爵家に預けた。
養子として育てろとかそういうのではなく、ほぼ使用人と変わらない扱いで良いからと。
そんなこんなで名目上わたしの話し相手としてダルスサラム家にやって来たカール。当時七歳であった彼と五歳であったわたし達だったけど、意外に仲良くなって彼が十歳の頃にアカデミーに入るまではずっと遊んでいた。
再会したのは彼が十五のときにアカデミーを早期首席卒業後。本来十八で修了するはずの課程を三年縮め、首席で卒業したということは記憶に新しい。
まあ、そんなことをシュゼット侯爵家の長男がアカデミーにいるうちに成し遂げてしまった為、家族関係は更に悪化したと聞くが、シュゼット侯爵家の当主はカールの力量を認めて王城への推薦状を書いたというから、まだ良い方だろう。
次に、ディルク・ホスピー。ホスピー伯爵家の三男で、金色の髪と薄藍の目が特徴のカールと同い年十九才。
そもそもはディルクの母君がシュゼット侯爵の娘という繋がりからカールと知り合いで、時々遊んでいたそう。つまりは従兄弟である。
身内から冷たい扱いを受けていたカールの唯一信頼出来る友で、カールがダルスサラム家に引き取られた後はカールからこの話を聞き、ディルクとお付き合い出来るようにお父様に頼んだそう。
齢五つのわたしはそれが貴族社会の中でどういう意味を持つのか全くわかっていなかったものの、お父様はわたしにとても甘かったらしいので聞き入れてくれたそうだ。
そして彼もカールと同じく十歳の頃にアカデミーへと上がり、仲良く十五の年、しかも次席でアカデミーを卒業した。
夏期休暇も冬期休暇も手紙しかくれなかった二人が揃って帰って来たときには、その手に金と銀の優秀賞を表すバッジを持っていた。
あげる、と言われたから今でも日用品を詰め込んでいるバッグの中に入っているけれど、あのときのわたしの顔は思い出したくない。
と、そんな心境は良くて、ディルク自身はその辺の商会にでも勤めるつもりだったが、その優秀さを買われて宰相が直々にスカウトして見事王城勤めとなった。
けれど、ディルクの愚痴通り齢十五にして王城に勤め、十八で国王補佐に登り詰めた彼らを非難する声は残念ながら多い。
先代の国王補佐に二人が気に入られていたから、ただそれだけだと罵る人達を多く知っている。
けれど彼らが寝る間を当然の如く削って先代に教えを乞うていた二人を見てきたわたしは、権力の上で胡座しか掻かない人間達よりは当たり前の場所にいると思っている。
そんなことは勿論、遠回しにしか言えなかったけれど。
「ミーナ?どうした?」
わたしがぼうっと二人を見て考えていたからか、心配そうにわたしを見る翡翠の目。今も、昔も、変わらない目。
「ねえ、カール」
「なんだ?」
そう、変わらない。今のカールのその目は、昔わたしが大切にしていたクリスタルの花瓶を割ったときと同じ目を、している。
「何を隠しているの?」
あまりにも、唐突であったと思う。
他愛のない昔話。他愛のないいつも通りの会話。だからこそ人は、そういうタイミングで気を抜くのだ。
「何の話だ?」
それでも、元国王補佐とだけあって、彼らの動揺は一瞬だった。でも、わたしは彼らの幼馴染みで、狸も蛇も狐も出てくるような世界で生きてきた。そんな一瞬を、見逃す訳がない。
「何を、隠しているの?」
言葉も、トーンも、何一つ変えない。ただ、じっと二人を見つめるだけ。ただ、それだけ。
「カール」
その名を呼んだのは、わたしとディルク。どちらが早かったか。ほぼ同じタイミングで声が重なった。
「何の話だよ」
取り繕うことは多分、諦めた。それでもカールは話そうとしない。
「お待たせしました……と、どうしました?」
じいっとカールを見つめていれば、ファティとベルホルトが広場にやって来た。
「カールが、何かを隠しているの」
視線は逸らさないまま状況を説明すれば、その一言で二人は何かを察したよう。視界の端で二人がアイコンタクトを取り、それにディルクも参戦する。
「カール。ここまで勘付かれたら、もう無理なんじゃない?」
諦めたように目を伏せ、瞬きと共にディルクは言う。さらりと風に拐われたその金髪が揺れて。カールも、目を閉じた。
「あのね、ミーナ様」
「ええ」
神妙な顔をしてディルクはわたしと視線を交わす。真剣なその目をわたしも見返して、次を待った。
「カールは、ミーナ様が好きなんだ」
一拍置いて、ディルクはそう言った。
「…………ええ、わたしも、みんなのことが好きよ?」
それがどうしたのだと眉をしかめた。
そんなことは、そんなことは、知っている。だってわざわざ王城から匿う為にわたしの行動を偽装してくれて、わたしの旅に着いてきてくれている。密かに望んでいたことを、彼らは叶えてくれた。そんな彼らがわたし達は大好きで、彼らがわたしを良く思ってくれているのも知っている。
「そうだよ。みんな、ミーナ様が好きなんだ」
だからそれがどうしたのだと、首を傾げた。
「だから、カールが隠していることは…………ミーナ様を、傷付けたいとか。そういう理由で隠している訳じゃ、ないんだ」
その言葉に驚いているのはカールの方で。
わたしと言えば、聞いてはいけないことだったのだと顔を歪めた。
「ううん。そんな顔をしないで、ミーナ様。僕らは、貴女に笑っていて欲しいだけなんだ」
ごめんなさい、と無意識に零れた言葉も、ディルクは拾って気にしないでと首を振る。
「ね、ミーナ様。だから、カールが話すまで、待ってあげて?」
知らず知らずのうちに下がってしまった目線の更に下にいるディルクに頭を縦に下げて肯定すれば、彼は良かったと笑った。
変な雰囲気になってしまったものの、ヒルマを筆頭にベルホルトとファティ達が空気を入れ換えようと動いてくれた為、観光自体は楽しく終えることが出来た。
時折流れてしまう微妙な沈黙だって、綺麗に埋めることが出来た。
そうやって少しずつ何事もなかったかのように過ごせば、あんな気まずい空気になることもない。
だから、あの話は蒸し返してはいけないのだ。
それなのに、どうしてずっと、頭をちらつく言葉があるの。
「ミーナ?」
帰り道、思考に侵されて足を止めたわたしに、少しだけ顔色の良くなったカールが振り向く。
彼越しに見える真っ赤な夕陽。琥珀色の髪が真っ赤に光って、彼の顔色を塗り潰していく。
「…………」
聞いてはいけないと訴えるわたしと、聞かなくてはダメだと警鐘を鳴らすわたしがせめぎ合って、酷くうるさい。
「どうされました、お嬢様?」
先を歩いていたヒルマ達が近付いてきても、わたしは何一つ言葉を吐くことが出来なかった。
通行の邪魔になってしまっていると、彼らを困らせてしまっていると、わかっているのに。
ただ一言。
なんでもないといういつもの言葉が、言えない。