直轄地のお茶会3
「……ミーナ、ごめんよ」
突然気を失い、目覚めてはお二方はもういないと愁嘆されていたお嬢様は、ベッドで眠っている。
眦の赤い、腫れた目。
額に張り付いてしまった髪を優しく流す旦那様が声を落とす。
「やはり、無理をさせてしまっていたんだな」
お嬢様が何故眠っているのかを伝えていないが故に、旦那様は過労で倒れられたと判断されたところへ首を振った。
「旦那様……」
先程の出来事、きっとお嬢様は記憶を取り戻したのだと端的にお伝えすれば、旦那様は当然目を瞠った。
「そうか……」
そして沈黙ののち、深い息を吐きもう一度お嬢様の頬を撫でる。
「陛下のことは気にしなくていいんだよミーナ。今はゆっくり、休んでいてくれ」
寝苦しそうに眉間へ皺を寄せる愛孫に優しく声を掛ければ、それに呼応するように少しだけ呼吸が整うお嬢様。
「……ヒルマ、私は一足先に屋敷に戻っているよ。もしミーナが今日中に目覚めないようであれば、そのまま寝かせておいて構わないと陛下から許可をいただいている。でもそうだな、明日も目覚めないようなら……ミーナを連れて、屋敷へ帰ってきておくれ」
「承知致しました」
浅く眠るお嬢様の痛ましそうに一度見つめ、旦那様は
部屋から去っていく。
「お嬢様……」
『いない、いないのよ』
『おかしいよ』
煤けた銀色の髪が、虚ろな紫眼が、幼く響く言葉たちが。
今もずっと、忘れられない。
『ヒルマが、おりますよ』
『うん』
だから全てを忘れてしまったことはきっと、救いなのだと思った。
『あずまやにね……行きたいの』
『あずまや?』
『行かなきゃ行けないの、ヒルマ』
『ええ、ええ。共に参りましょう』
記憶を取り戻した素振りのお嬢様は、そう呟き続けていた。
あずまや。外れた庭園。小さい。皇城の。
噛み締めるように、もう二度と忘れないとでも、いうように。
泣き疲れて眠ったお嬢様の目元に触れる。
あの頃に比べて幾分も大人になられた。
とても美しくて気高い、ご令嬢に。
「ヒルマが……ずっとおそばに、おりますからね」
何があってももう、離れることはない。
銀色の髪が青天の中で揺れて、透き通る眼が嘘偽りなく微笑むまで。
もう大丈夫だと、手を離されるまで。
その手が、新しい縁を掴むまでは。
「ヒルマ」
汗を拭うため、湯の支度をしてくれていたファティが旦那様と入れ違いでやってくる。
お嬢様が記憶を取り戻したかもしれない。
そう共有すれば、彼女の顔も悲しげに歪む。
「……今は見守るしかないですものね」
「ええ。お嬢様のお好きなものを用意して、お待ちしましょう」
翌朝には目を覚ますだろう。
そのときに、少しでもお嬢様を支えられるように出来る限りのことをしよう。
二人でそう話し、お屋敷に準備しておいて欲しいものを連絡。
お目覚めになったとき、ほんの少しでも、心が安らぐ瞬間を作れるように。
心が曇らないだろうか。
曇ったら、それを僅かでも晴らしてあげることは出来るだろうか。
不安と、本当に霞のような期待を抱えて私達はおそばに侍る。
しかしそれらは、意図も想像もしない形で裏切られることになった。
「ヒルマ、ミーナは?」
連日、日に何度かは顔を出してくださる旦那様に首を振る。
「そうか」
あの日のお茶会から早五日。
一度もお目覚めになることなく眠り続けるお嬢様は、規則正しい寝息と共に春へ引き籠もろうとしていた。
一日目を覚さなかったときは、以前もあったからと多少の心構えはあった。
しかし二日、三日と時間を重ねて行く度に募る焦燥。
幸いにしてファティが薬師の心得があり、昏睡状態の人間でも摂取出来るという食事……のような液体のようなものを少しずつ流し与えることが出来ているからまだ大丈夫とのことだけれど、このまま目覚めなければ命の危険にも繋がると話す。
「ファティ、申し訳ないが陛下に皇医を派遣していただけることになった」
「陛下が……いえ、私のことなど。有難いことでございます」
その折、ずっとお嬢様のことを気にされていた皇帝陛下が皇医を派遣してくださると旦那様から伝え聞く。
傍を離れず看病に当たるファティへ当てつけのようにしてすまない、と頭を下げられるけれど、彼女は頭を振ってより深く腰を折った。
「……お身体に異常は見当たりませんね。衛生状況も文句なし、良く看病されていらっしゃるかと」
「目を覚さない理由は見当つかないか」
「そうですね……イリーナ様とフィデオリオ卿が亡くなられたときの記憶を思い出されたのでしょう?精神にとても大きな負荷が掛かっているのは間違いないでしょう。忘れていたということは、それだけ思い出したくなかったということ。それを一気に思い起こしたのでしょう、身体に掛かる負荷は並大抵なものではないと思います」
「つまり、お嬢様のお身体は休息を求めていらっしゃる?」
「ええ。ただそれにしては、随分長くお眠りになられている」
そう診断する皇医。帝国で最も腕のある医師でさえ何も手立てがないと知り、皆で途方にくれていたとき。
「あずまや」
「え?」
「あずまや、連れて行って。このままじゃ、お嬢様は起きられない」
突如として、その少女は現れた。
護衛が警戒し武器を突き付けても、飄々と受け流すその子は首を擡げる。
「お嬢様、死んじゃってもいいなら、別に連れて行かなくてもいい」
わたし、言ったから。
そう残し、瞬きの合間に消えた影。
「あずまや……?」
一体何処の、と言いたげな旦那様達を視界の隅に置きながら、私の頭にはいくつもの選択肢が駆け巡る。
伝えても良いのだろうか。
皇城より外れた場所にあるという小さな庭園。その東屋へ、お嬢様が行きたいと繰り返していたこと。
しかし素性も知れないあの子を信じ、今なお眠るお嬢様へもっと負担が掛かってしまったら。
でも、そうせずとも、お嬢様がこのまま目を覚されなかったら。
「……ヒルマ?」
握り過ぎて白くなる指先にファティ゙が触れ、少しだけ緊張が解れる。
「皇城の外れた場所に、小さな庭園はあったりする?」
そして不意に、言葉が漏れた。
「……ええ、あるわ」
思い当たるところが、と。彼女は続ける。
「前皇后の……お庭のことじゃないかしら」
「ティファ后の庭園?それは……」
ファティと旦那様、皇医の顔が一気に曇る。
ティファ后。
ティファ・ラッツェル=プライオ公爵令嬢。
プライオ公国のご令嬢で、現皇帝陛下最初の婚約者だったかの方。
謀反の疑、不可解な死。
多くの謎に包まれたったの一年程しか皇后の座に就いていなかった彼女を知る存在はそもそも少ないが、知っている人間からするとあまり気を良くする名前ではない。
「昔、一度だけ……ティファ后にお茶会へ誘っていただいたことがあるの。そこはティファ后が密かに陛下に用意していただいていた場所らしくて、長く皇城出入りしていた私も知らない場所だったけれど、ヒルマが探している場所には良く合致していると思う」
そう話してくれたファティに、私も伝える。何故そこを知っているのか、どうして行きたいかを。
「そうか、ミーナが……」
一斉に黙り込む。
行きたいと願ったお嬢様は目を覚ます気配はなく、かといって急に現れては消えた少女の言葉を信用しきるのも難しい。
ただ、このまま待っていてお嬢様が目を覚ますかもわからない。
もし、お目覚めにならなかったら。
「……行ってみても、よろしいのでは?」
皆揃って口を閉ざしていたとき、皇医が零す。
「無責任、と思われるかもしれませんが、現状お嬢様を目覚めさせる手立てはありません。このまま何もせずにただ見守るよりは、少しでも情報がある方へ傾けていく方が良いのではないかと思うのです。そして恐らく、それを決断するのであれば早ければ早い方がいい」
お嬢様が倒れてから五日。明らかに細くなってしまった手首と、艶を失いつつある頬。それらが意味することを充分に理解しているからこそ、皇医は告げる。
「……行きましょう」
拳を握り、意を決して私は口を開いた。
そして受け入れられた提案に急いで支度を始め、私達は帝都へと走るのだった。




