心と準備2
おやすみなさいませと閉じられた扉に閉め切られたカーテン、落とされた蝋燭に溜め息を吐きつつそのままベッドに寝そべる。
どうせ眠れないからと読書をしようにも少々暗がりが過ぎるし、蝋燭を点けようものなら間違いなくその痕跡を見たヒルマ達を心配させてしまうだろうし、カーテンを開けては外で庭園の手入れをする使用人達に見つかる恐れがある。
故に、眠るか散乱する思考に触れるしか選択肢はなくて、わたしは深夜からずっと纏まらない感情を整理するために再度耽る。
「……さっきのは、確認よね」
手始めに思い起こすのは先程食堂でディルクに言われたこと。
「本当にわたしが社交界へ戻ることを望んでいるかどうか、の」
解散前には和らいだとはいえ、普段より幾分も棘の多かった彼の複数の言動はどうにも引っ掛かるから、必然的にそれを解決する答えはそこに行き着く。
基本的にディルクは人をからかうことは好きだけれど、その高い観察力から決して越えてはいけない線引きは絶対に越えないし、冗談では済まないような傷付ける言動なんかも取ったりしない。
即ちその気遣いは、本当はわたし自身旅を続けたいと考えていることにみんなが気付いていることの裏付け。
しかしそうしたいと言い出さないから見守って、ああして揺さぶりを掛けることで本当にこのままで良いのかと確認してくれているのだろう。
わたしだって戻らなくて良いというのならば、それを呑み込むことが出来たのならば、いつまでだってみんなの時間が許す限り旅を続けていたいと言えた。
ああ、そうだ。
お爺様に身元を証明していただけたら、この帝国以外の大陸にも行ってみたかったなんてことも考えていたのだと目を閉じる。
一年中雪が降り続くというもっと北の大陸にも、反して常夏が長いという南の大陸にも、沢山の砂が集まる砂漠という場所にも。
「……」
ふと思い立って天蓋を捲り、ベッドから抜け出してまだ整理されていない旅の荷物が置いてある端、そこから細々と大切なものが入っているカバンを見つけて開く。
取り出すのは作者不明の、かつてヒルマからもらった一冊の本。
彼女が放浪している最中に露店で手に入れたものというそれに書かれていたことは、当初公爵家の暮らしと王城の暮らししか知らなかったわたしに衝撃を与えた。
それまで市井の人々が国も気候も慣習も違う中どう暮らしているのかを知識としては知っていても、何となくの想像でしかなかった部分を実際に目で見たいと思うきっかけとなった本が、これである。
作者不明、と彼女は言っていたものの、それなりに質の良い羊皮紙達に記された字は紛れもなく見慣れたものであって、本の状態は放浪していた最中持ち歩いていたとは思えない程に良い。
つまりこれは、日々の王妃教育によって娯楽の本一つ読めなかったわたしのために彼女が恐らく自伝を綴ってくれたもの。
それを大切に胸に抱え、これまでの旅路を思いなぞる。
始まりの街、リライスでベンチに腰を掛け二人だけでお菓子を頬張ったことも。ハシュートで初めて港街を巡り魚料理を食したことも、ただぶらりと観光をしただけの日々も。
途中、みんなに迷惑を掛けて本当に申し訳なかったけれどそのおかげで少しまた距離が縮まったことも。
アズールと出会ったこと、その保護者であるヴォルフ・シュナイダーがいなければ今もヒルマ達とは擦れ違ったままだったと思えば、その出会いも貴重なもので。
長い船旅、幾つか街を寄ったときの思い出だって一つ一つ話せる。
レステルで手にした黒いレースの髪飾りは今もお気に入りだし、山に登って山菜を採っていたら雨が降り出して小屋の軒先で黒猫を胸に抱いたことも、素敵な風習を知ったことも、パンが美味しかったことも、少しだけ、お父様のことを思い出したことも。
次の港、リュペンに滞在していた時間は短くてみんなと何かを出来た記憶はないけれど、悲しそうなアズールの姿と奴隷商の話は良く覚えている。
そうして帝国にやってきて、カジノに行くカール達と別れてわたし達は大浴場でのんびりしたことだって。
「……そう、ね。もう充分、だったわね」
記憶から丁寧に掬い上げ反芻すれば、これまでの日々が如何に幸せで、夢を叶えていたのかがわかる。
みんなと旅をした。それはとても楽しくて、恵まれて、尊い日々だった。
だからもう、良い加減夢を見るのはおしまいにしようと決意が付きヒルマの本をカバンへと戻す。
「貴族は民の心血によって生かされる。それを享受する立場でありながら責務を果たさずに旅に出ることはやっぱり……出来ないのだわ」
お爺様が、芸術家や音楽家に与えるような庇護である後見を引き受けて下さっただけならば、これまで通り旅を続けてもわたしの心に問題はなかった。
しかし正式に侯爵家の養子、貴族という立場でわたしを迎えて下さるというのならば、わたしはその義務を放棄して旅に出ることはやはり出来ない。
「我ながらなんて、面倒臭い」
受け取り方一つ、解釈一つの問題でどうにでもなるようなことから目が離せない染み付いた意識に苦笑いを浮かべ、深夜から幾ら考えても結局は同じ末路を辿る思考に溜め息を吐く。
「……もうこんなに時間が過ぎたというのに未だ、切り捨てられないものなのね」
息と共に吐き出された言葉に思い出すのは、城内の寂れた庭園で交わされた一つの約束と夢。
両親を亡くして、新たな家族に引き取られた後の生活にまだ慣れない頃に開催された次期王妃を選定するパーティ。
当然公爵家の令嬢であるわたしと従姉妹のターニャは招待され、そこで初めてレオン様に会った。
パーティが始まる前、各家の令嬢達が集められた会場、その場で浴びせられる好奇と憐憫の眼差しが怖くなって逃げ出し駆け込んだ中庭の奥。
アーチを描く木々に隠される朽ちたベンチの傍で小さく蹲り、帰る場所もないのに帰りたいと泣いていたとき。
逃げているの、と、今よりもずっと高い声で掛けられた言葉にわたしはムキになって逃げていないと答えた。
彼が誰かもわからない状態で、まだ何故自分がああした悪意を家族から向けられるのかもわかっていなかった頃は、知らない人間一人にならば反抗する気力があった。
さがしている。そう伝えて来る彼に、わたしは知っていると答える。だってこのパーティに来る前に浴びせられた言葉はターニャの引き立て役になれで、病み上がりの従姉妹の存在が必要だとも、言われていたから。
だから零す。二人共、わたしのことなどどうでも良いのだと。けれど、子供らしくそんなことないと否定する彼に、わたしは食って掛かる。何も知らないくせに、どうしてそんなことを言えるのかと。
泣きながら駄々を捏ねるわたしに、彼はならばとこう言った。
『じゃあ僕が、必要としてあげる』と。
嬉しかったのだ。冷たい家族、会えないヒルマ達、誰一人としてわたしを必要としていないんじゃないかと怯えている中で掛けられたその、言葉は。
約束だと、目に見える形で互いの小指同士を赤いリボンで括ってくれたことも。
だから、彼が誰かと知ったそのときから、わたしは努力を重ねて来た。
王太子である彼の傍に相応しくあるよう、公爵令嬢として。
それがいつしか公爵令嬢ではない自分には価値がないと思い込むこともあったけれど、そう考えることが今こうしてただのミーナの傍にいてくれているみんなに失礼だとヴォルフの言葉で気が付いてからは、大分薄れていた。
けれどその過程で培ったもの、教え込まれた教育とは簡単に拭われるものではなくて、貴族として共に育った意識というものは今もずっと残っているから。
こんな数カ月の旅で芽生えた自我などよりもずっとそれが、根強かったというだけのことなのだ。
「おやすみなさい」
本が見えなくなるようにカバンの入口を閉じて、それと一緒にこれまでのことも置いていく。
一つ思考に区切りが出来てしまえば唐突に訪れる眠気に身を委ねるまま、わたしはベッドへと戻り布団で頭を覆って再び目を閉じた。
「ミーナ?」
そんなとき、ほぼ同時に軽いノック音が響いて扉の先からは今朝出掛けて行ったはずのカールの声。
「あ、こらカール、今ミーナ様は眠ってるからだめだよ」
そして間髪入れず別れたばかりのディルクの声もして、こそこそと何かを相談するような二人の会話が途切れ途切れに聞こえてくる。
「カールとディルク。そこで何をしているのですか?」
「僕は何もしてないよ?ただカールが戻って来たって報告を受けたのに部屋に来ないから、もしかしたらミーナ様のところに行ってるのかもって思って、止めに来ただけ」
「ああ、そういうことでしたか。まだお目覚めになっていらっしゃらないと思いますし、お目覚めになっていたとしても支度がありますのでまた後にしてくださいませ」
「そうだね。ほらカール、行くよ」
「ああ」
何か用事だろうかと起き上がり、ひっそりと扉の方に寄りこそこそと聞き耳を立てていた結果、二人は丁度その場に現れたファティによって出直してくれることになった。
「お嬢様、そちらにいらっしゃるのですか?」
二人の足音が完全に遠退き、様子を見に来てくれたファティが部屋に入ってくる前にベッドに戻ろうと扉に背を向けたとき、そんな問い掛けが扉越しに飛んでくる。
答えず、急いでベッドへ戻っても良かったのだけれど、聞き耳を立てていた後ろめたさからほんの少し扉を開けてファティを見上げた。
「やっぱり。お目覚めでいらしたのですか?」
「……ええ」
「まあお嬢様、そんな薄手でいらしたらお風邪を召してしまいますよ。さ、中へ」
歯切れの悪さを咎める訳でもなく、寝間着姿のまま立っていることを確認したファティはわたしを部屋の中へ誘導しソファに置いてあるケープで身を包んでくれる。
「申し訳ありません、起こしてしまいましたか?」
「いいえ……眠ろうとしていたところだから大丈夫」
ベッドへと戻り腰を掛ける。虚ろとしている目で寝起きだと判断したのか謝罪を口にするファティに首を振り、答えた。
「それではこのままお眠りになってくださいませ」
ほっと息を零すファティに子供のように寝転がされ、風邪を引かないようにと首まで引き上げられた布団。
わたしがうつらとしているからか、ベッド際の椅子に腰を据えては昔のように子守歌まで歌い始める彼女を見上げて尋ねる。
「ねえ、ファティ……これからも、私の傍にいてくれる?」
「ええ、勿論でございますお嬢様。貴女様が何処にいたとしても、私もヒルマもベルホルトもカールもディルクも、お傍におりますよ」
「ふふ……それは嬉しいけれど、カールとディルクは無理ではないかしら」
布団の上に置かれたわたしの手を握ってそう言ってくれる強くて優しいファティの言葉に頷きながら、帝国の貴族令嬢となるわたしの傍には二人はいられないだろうと返せば彼女の眼が揺れた。
「ファティ。私、戻ることに決めたわ」
だからそんな彼女に最後、静かにこれからのことを伝えて微笑む。




