心と準備
社交界へ戻る覚悟も、旅を続けたいとも言い出す決心も出来ないまま迎えた朝。
「おはようございますお嬢様。良くおやすみになられましたか?」
「いえ……この景色がとても懐かしくて、少し寝不足」
「では、もう少々おやすみになってくださいな」
「ううん、大丈夫よ。お爺様とお話をしなければならないし、これからやらなければならないことも増えるから」
結局一睡もせずにベッドで夜を明かし、陽が昇って暫く起こしに来てくれたヒルマに予め用意していた返事で応えれば気遣って出直そうとする彼女を引き留め、もう今は逆に慣れないドレスへの着替え、身支度を手伝ってもらう。
顔を洗って、着替えて、髪を整えて。
一つの工程を踏む度に忘れ掛けていた心構えと言うものを少しずつ思い出し、身支度が終わる頃には良く見慣れた自分の姿が鏡に映っていた。
「……変わらず、お綺麗でございますね」
「ふふ、ヒルマの腕が良いからよ。でも、ありがとう」
ああ、こんな姿だったな、なんて、嫌と言う程見慣れていたはずのそれが新鮮に思えることを嬉しく思い振り返れば、いつものように賛辞を送ってくれるヒルマ。
その表情が何処か寂しそうなのはきっとそう思いたいからだろうと自分を戒め、着飾ってくれた彼女にお礼を言う。
「事実を述べているだけにございますよ、お嬢様。さ、旦那様が参られる頃だと思いますので食堂の方へ移動致しましょう」
「ええ」
そうしたら更に褒めそやしてくれて、けれどもわたしが困らないように会話の方向を移動し場所も移す。
「あーミーナ様おはよー」
「おはようディルク、一人なのかしら?」
「うん、何か用事があるってカールはベルホルトと一緒に朝方出て行ったよ」
食堂へと移動し、既に開かれている扉を潜れば手前の席には一人ディルクが座り待っていた。
王城では国王補佐という仕事柄、共有することが多い故に共にいることがデフォルトであり、これまでの旅路でも基本的に揃っていた二人がばらけているというのは何だか不思議な気持ちになるものの、ディルクの答えに納得してから彼の斜向かいに腰を下ろす。
「ミーナ様、寝てないね?考え事でもしてたの?」
「ええ、少しだけ」
「ちゃんと寝ないとダメだよ?体調管理が基本なんだからさ」
席に着いたわたしをじっと見つめ、目を眇めるディルクが放った言葉には即座に頷けずに、こくりと喉を鳴らす。
「ええ、気を付けなければね」
「うん」
「すまない、待たせたか?」
そうして、一拍遅れて吐き出した言葉。
首肯しながらも固定されて動かない双眸からどう逃げようかと視線を彷徨わせたとき、お爺様とダニエルさんが連れ立って食堂に現れたのを機にディルクはあっさりとわたしに背を向けた。
「おはようミーナ、ディルク」
「おはようございますお爺様」
「おはようございます、ミーナ様のお爺様」
最初にわたしに声を掛けてくださり、次にいつの間にかディルクの名前を把握しているお爺様と何でもないように挨拶を交わした後に振り返るから、再びその眼と視線がかち合う。
「昨日、ミーナ様がお部屋に戻った後に挨拶させてもらったんだよ」
訳を説明してくれたディルクの眼に、先程の鋭さは感じない。だから余計にあの視線の意味が気になりりつつも相槌を返せば、彼はただ微笑み返してくれた。
「ミーナ、恐らく来月辺りに皇帝陛下と謁見することになる」
「私の説明と挨拶ですね」
「ああ、養子を引き取ったことの報告を兼ねた軽い面会だな。よって至急ドレスの類いを仕立てなければならないから、午後に商会と仕立て屋を呼んである。今後必要になるものも多いだろうから、それも併せて注文しておくといい」
いつもと様子の違うディルクを不思議に思いつつ朝食を摂り、時折雑談を重ねていればふと思い出したようにその出来事を述べるお爺様。
下位貴族であれば態々養子を取った挨拶などは必要ないのだが、プリシュティー侯爵家は建国初期以来名を連ねる由緒正しき家系であり、五代前には降嫁先になった皇族の血が入る貴族でもある。
「少し鬱陶しいが、悪いヤツではない。もう良い年だから隠居したいと言い好好爺を気取るが未だに精神が学生で王位を譲る気などない爺なだけだから」
これまでプリシュティー侯爵家とは直接的な交流はなかったからお二人の関係性がどのようなものなのかはわからないけれど、気の置けない間柄であるとだけその口振りから察せた。
「……こほん、旦那様。ミーナお嬢様がどう返したら良いかとお困りです。内輪の話はせめて関係性をお話になってからの方が宜しいかと」
「おっと、それもそうだな。私とアイツの関係を軽く説明しよう」
親しい間柄だからこその軽口だとは理解出来るけれど、陛下がどのような方か存じ上げないわたしは反応に困って微笑むことしか出来ない。
それを察し、ダニエルさんの助け船によってはお爺様と陛下の関係性、そしてお爺様とお婆様の馴れ初めを知る。
「帝国では淑女も学園に通えると伺っておりましたが……そういう、お話でしたか」
「ああ、当時は望む者だけに一応枠が与えられるという方式だったから今よりも圧倒的に女生徒の数は少なく、当たりも良いものではなかったがな。ただ最近では女性の自立を目指す流れ段々と受け入れられてきていているし女性の官僚や領主が増えて注目を集めてそういった活動を後押しする支援もしている。これからは一層、勉学に励み学者や研究者といった道を目指す令嬢達も息をしやすい環境に変わっていくだろう」
幼馴染みであるお二人の学園の話、合間に触れられたお婆様のお話へとふと逸れた会話は、中々の衝撃だった。
何せわたし達が育ったミゼルバー王国は、学園に通えるのは男性だけと定められている。それも、ある程度の資金を用意出来る家柄のみ。
そしてそんな家の令息は大概幼少から婚約が決まっているため、婚約者である令嬢は家庭に入るための支度をし最低限の教養を身に付けたらそれ以上の知識を付けることは望まれないのが一般的である。
女性が学園に通えることはなく、例えどれ程男性より頭が良かろうとも精々淑女教育のレッスン程度までしか許されない。
わたしは運良く教育係がベルホルトだったことからカールとディルクが学んでいたことの内容も教えてもらい、一般的なご令嬢よりは学びの機会を与えられていた。
それがあの国ではどのくらい恵まれたことだったかを知ったのは、家のしきたりで泣く泣く集めていた本を全て捨て、遠くの縁談を受けるために家を出ることになった一人のご令嬢の話を聞いたときだったけれど。
「……帝国が予てから様々な分野で最先端を駆けるのも、そのように柔軟に物事へ対処出来ているからでしょうか」
「どうだろうな。しかし、女性の目線というものは何においても私達が見ているものとは違うだろうから、様々な視点で物事を作ることが出来るというのは大きな利点であると思っているよ」
交流の途絶えてしまったご令嬢のことを思い出し、わたしの呟くような見解を歯痒そうに受け止めつつ持論を述べたお爺様の言葉を最後に食堂が沈黙に満ちる。
「んん、朝食の場で出すような話題ではなかったな。ほらミーナ、料理が冷めてしまうぞ?」
「はい」
一人、黙々と朝食を口に運ぶディルクを見やってから場の空気を入れ替えるように声を張ったお爺様に頷き、わたしも食事を再開する。
それ以降の会話と言えばお爺様の学園生活での日常や、陛下の人柄が窺えるような出来事を語っていただいた。
そうして朝食を終え、午後、ドレスを仕立てる際に再びお会いする約束をしてからお爺様は食堂を後にされる。
「ミーナ様も、学園に通いたかった?」
「……ええ」
お爺様が去った後、席を立ち隣へと寄るディルクから掛けられた言葉に少しだけ悩んでから、素直に首肯した。
「ベルホルトから教わることは、全てが新鮮で楽しかったもの。もっと知りたいって、いつも思っていたわ。あ、学者とかになりたかった訳ではないけれどね?」
「うん、わかるよ。ただ、今まで知り得なかったことを知れたということはすごく楽しいし、尽きないもんね。読書だって、そうだよね」
「ええ」
勉強というものの底知れぬ奥深さ、未知なる世界が広がっている読書の楽しさに同意してもらえたことに口が軽くなり、頭を掠めた理想をそのまま吐き出す。
「それにね。ディルクとカールと一緒に学園に通えたのならどんなに楽しいかしらって、ずっと思っていたわ」
「……そう、だね。誰かの気苦労が絶えない気もするけれど、それはそれで楽しいだろうね」
「気苦労?」
「そう、気苦労。僕は楽しいだけだから良いけどねえ」
一度も会えなかった学園在学中の話を時折聞き出しては淡い想像をしていたことを告げれば、ディルクの返事が少し淀む。
それを取り繕うように口元を緩め、愉快そうに眼を細めた彼の言葉を聞き返しても何のことかは教えてもらえない。
「気苦労……ええ、ええ、そうですね。ねえ、ヒルマ?」
「そうね、ファティ。でもあれじゃないかしら、甘酸っぱい。というやつでは?」
後ろに控えるヒルマもファティもディルクが何のことを指しているのかわかるようで、互いに顔を合わせてそんなことを言っている。
「甘酸っぱい気苦労?」
それって一体どんな意味なのだろうか。
首を傾げても答えは出て来ないし、三人も教えてくれそうもない。
「まあまあ、ミーナ様。とりあえずお部屋に戻って少し休んだらどう?」
何だか前もこんなことがあったような気がすると既視感を抱いたところで、自分の目の下をとんとんと指差しながらディルクがそう促す。
「そんなにひどい?」
「うん。顔色も良くないし、休んだ方が良いよ」
「そうですね、少しお顔が暗いかと」
そんなにも酷い顔をしているのかとヒルマとファティを振り返り意見を求める前に、二人はディルクに同意する。
「わかったわ、それじゃあ少し休むことにするわ」
「よろしい。またあとでね、ミーナ様」
無言の三人の視線を納得させるような言葉は見つからず、わたしは勧め通り自室に戻って休憩を取ることにする。
そしていつも通り軽いディルクの見送りを受けてから午前中を休憩へと充てたのだった。




