名宰相の三男坊(1)
遠い昔。かつて、とある大陸に存在した王国、エルドラ。
その王城の廊下を、1人の少年が歩いている。彼の名は、エレン・アルフォード。この国の最高権力者であり、『宰相殿』と呼ばれている政治家、ネルソン・アルフォードの3番目の息子である。
「父上、少しよろしいでしょうか」
エレンは執務室に辿り着くと、書類に目を通す父にそう声をかけた。ネルソンは息子の声に気づくと、書類を置いて彼に視線を向けた。
「どうした?この時間に会いに来るとは、よほどの用件なのだろうな?」
「ええ・・・ある意味では」
父にそう答えたエレンの表情は、緊張で幾分強張っていた。それでも彼は自分を励まし、一旦深呼吸して再び口を開いた。
「実は・・・・・・カルドの村に、帰りたいと思っております」
「カルドに・・・?それはまた、どういう了見だ?」
微かに驚いた様子を見せる父に、エレンは自らの心境を述べた。
「私には、そちらの暮らしの方が性に合っているのです。・・・正直に申し上げますと、今の城下での暮らしは、私には窮屈でしかありません。それよりも、故郷のあの村で思うままに・・・穏やかに世を過ごしてみたいのです。わがままだとは百も承知ですが、どうか・・・カルドに戻るのをお許しください」
「なるほどな。・・・しかし、お前も勿体ないことを言う。わしの息子であるというだけで、お前の未来は約束されたも同然だというのに・・・」
「私には、城勤めの要職は向いておりません。そういったことは、2人の兄上の方が、よほど向いていると思います」
「ふむ・・・まあ、そうではあるが・・・・・・」
それきり、両者の間に重い沈黙が流れた。――やがて口を開いたのは、どこか諦めたような表情を浮かべたネルソンであった。
「よかろう。わしがこれ以上何を言ったところで、お前の決意は変わらぬのであろう?ならば好きにするがよい」
「・・・!ありがとうございます、父上!」
心からの感謝を言葉に込めると、エレンは父に頭を下げた。そんな息子の姿に小さな笑みを浮かべると、ネルソンは再び問いかけた。
「して、いつ発つ?」
「・・・できれば、明日の夜明けには」
「それはまた急だな。・・・さては、早く村に戻りたい理由でもあるのか?」
「うっ・・・それは、その・・・」
言葉を詰まらせるエレンの姿に、ネルソンは小さくため息をついた。
「まあよい。・・・さて。そうと決まれば、今夜はお前のために宴を開くとしよう。ルシウスの一家も宴に招き、お前の門出を盛大に祝わなければ」
「父上・・・そこまでしてくださらなくても結構です」
「そうはいかん。今日はお前にとって、城下で過ごす最後の夜となろう。ならば、親しい者たちとくらいは、最後の別れを交わした方がよい。お前もあの一家とは懇意であろう?なればなおのこと、あの一家を宴に招かなければ」
「・・・分かりました。その辺りのことは、父上にお任せいたします」
「うむ。奴にはわしから声をかけておく。宴が始まるまでに、親しい者に別れを告げておけ。あの一家との宴となると、途中で抜け出すゆとりはないぞ?」
「はい。・・・では、失礼いたします」
父に一礼して執務室を去ると、エレンは足早に廊下に出た。そして周囲に人気がないことを確かめると、彼は大きな声で喜びをあらわにした。
「・・・よし!!」
軽やかな足取りで城を後にすると、エレンは自邸の隣に建つ屋敷を訪れた。彼は屋敷のドアを叩くと、応対のために出てきた使用人の女性に告げた。
「イリア殿はおられるか?」
「はい。こちらでお待ちくださいませ」
「いや、直接厨房に行く。この匂い・・・さては、ご自慢のクッキーを焼いておられるな」
使用人の微笑混じりの視線を背に受けながら、エレンは屋敷の厨房へと向かった。そこでは淡いピンク色の衣装に身を包んだ少女が、かまどから焼きたてのクッキーを取り出していた。
「あ・・・!エレン様!たった今、クッキーが出来上がったところでして・・・」
よく手入れされたクリーム色の髪をなびかせながら、1人の少女がエレンに声をかけた。彼女の名は、イリア・ウォンデーヌ。この国の有力な文官の娘で、エレンが幼いころからの付き合いである。
「ああ、匂いで分かった。・・・実にちょうどいい時に来た。いただいても構わないかな?」
「もちろんです!エレン様やご家族に差し上げようと思って作っておりましたので・・・」
イリアは戸棚から皿を取り出すと、焼きあがったクッキーの何枚かをその上に載せ、エレンに差し出した。するとそれを見計らっていたかのように、先ほどエレンを見送った侍女が、紅茶の入ったカップを運んでくる。
「では・・・・・・うん!やはり、イリア殿の作るクッキーは格別だ!」
口の中に広がっていく、柔らかく、そして優しい甘さ。エレンは幼いころから、イリアが作るクッキーの味が大好きであった。
「いつもおいしそうに食べてくださいますもの。私も、つい力を入れて作ってしまうのです」
「うん。・・・今日、このクッキーを食べられてよかった。今日で・・・食べ納めになるゆえに」
「・・・え?」
エレンに向けられていたイリアの微笑みは、一瞬で消え失せることとなった。エレンは食べかけのクッキーをじっくりと味わうと、それを飲み込んでからイリアに告げた。
「実は・・・明朝、故郷のカルドに帰ることになった。今日は・・・その別れの挨拶に来た」
「・・・!左様で・・・ございますか・・・・・・」
エレンの言葉に、イリアは驚きの声を漏らした。――しかし、心のどこかで、彼女はエレンの決断に納得していた。いつか彼が、故郷に帰る時が来る。以前から、彼女にはそんな予感がしていたのだった。
「うむ・・・やはり私には、この城下での暮らしは窮屈でならぬ。昔のように、カルドの村で畑仕事でもしていた方が、私の性に合っている」
そこで一旦言葉を切ると、エレンはイリアの目をまっすぐ見つめて言った。
「イリア殿・・・我が一家がこの城下に越してきて、早10年・・・・・・そなたには、本当に世話になった。・・・心から、感謝申し上げる」
イリアに感謝の言葉を述べると、エレンは深々と頭を下げた。そんな彼に、イリアが慌てたように声をかける。
「そんな・・・お顔を、お上げくださいませ・・・・・・お世話になったのは・・・私も・・・同じでございますゆえ・・・・・・」
頬をわずかに赤らめながら、イリアが消え入りそうな声で言った。その目にはうっすらと涙がにじみ始めていたが、彼女はエレンにそれを見られまいとうつむいた。
「イリア殿・・・最後に、1つ頼みがある。・・・クッキーのレシピをいただけないだろうか。村に帰ってもきっと、そなたのクッキーが恋しくなる時が来る。その時、そのレシピの通りにクッキーを作って、それを食べながら、そなたと過ごした日々のことを思い出したい」
「エレン様・・・・・・はい。承知いたしました」
それからほどなくして、エレンは渡されたクッキーのレシピを手に、イリアの屋敷を後にした。イリアが自分の背中を見つめながら、声を忍んで涙を流していたことに、この時の彼はついに気が付かなかった。




