35 龍神
「利憲様! 斉彬様!」
ようやく朱雀門の近くまで楓が到着した時、二人は空を見上げて立ち尽くしていた。恐れていたような怪我はない。しかし、強風の吹き荒れる中でその顔色は明らかに青ざめていた。
冬空に輝いていた満天の星は、今は漆黒に塗りつぶされている。
「何があったのですか。あの雲は?」
上空には黒い雲が、異常な速度で円を描いていた。
吹き荒れる風が、暗い空にごうごうと音を鳴らす。
そして、ぽつりぽつりと冷たい霙も落ち始めた。
「何が起こったのですか」
楓は急いで利憲の側へと駆け寄る。
袖を握り顔を見上げると、利憲は楓に視線を移した。しかし、その表情は明らかに硬い。
「失敗した」
「え?」
聞き返す楓に向けて、斉彬もまた空を見ながら低い声で答える。
「柘榴が式神を呼んだのだ」
式神——。
思わず天空を見上げると、雲の隙間から鱗のような模様が流れるように見えた。
ハッと周囲を見渡す。
しかし、自分達以外には誰の姿もここにはない。
「彼女はどこに?」
嫌な予感を覚えた楓がそう問うと、利憲は無言で首を横に振った
「まさか」
「そのまさかだよ。呼び出した大蛇が彼女を飲み込んで、天へ登った」
代わりに斉彬が楓に教える。
利憲は渦を巻く天を見据えたまま、強い風から守るように楓の肩を抱き寄せた。
彼の視線の先を追うと、黒い渦がどんどんと広がり空を覆い尽くしている。そして、その中心に雲に隠れていたモノの姿が薄っすらと見え隠れしていた。
「龍?」
一瞬雲間を横切る姿は、蛇ではなかった。
大きな角を持ち髭を生やした横顔は、絵巻物に描かれていた神獣そのものの姿をしている。
「さすが巫だ」
皮肉を込めた利憲の言葉に、楓は声もなくただ空に舞う生き物を見つめた。
楓は神祇伯が話していた言葉を思い出す。
かつて陰陽師を飲み込んだ式神が禍ツ神になったと。利憲の父・保明は、式神が呪力を持つ存在を飲み込む事を恐れていた。
「利憲様、柘榴が呼び出した大蛇とは……」
「ああ、山楝蛇だった。そして、彼女を取り込み龍へと変化した」
(そんな!)
従えられなかった式神は、呪力を喰らい更に強大な神となる。
利憲に近い才能を持っていた柘榴の呪力、それを取り込んだ神が今、天空にいる。
——これを祓えるのか。
見上げる楓の顔を、冷たい霙が打つ。
楓の身体を覆う利憲の着物の袖の上を、幾つもの氷の粒が転がり落ちていった。
「正確には式神ではない。柘榴は式符を使っていない。彼女は自分を依代にして神を呼び出したのだと思う」
同じく空を見る利憲が、呟くように言う。楓はその横顔を見つめた。
「依代となった人はどうなるのです?」
「玉依姫とは違って、人間の巫が神を宿せるのはほんの数刻。それを過ぎると魂が飲まれてなくなる」
「…………」
あの山楝蛇は彼女を護っていたのではないのか。
唇を噛む楓をちらりと見て、斉彬は利憲に問う。
「利憲、龍を調伏した事はあるか?」
「あるわけなかろう」
「一応聞いてみただけだよ。……っ!」
更に強まった風が三人を襲った。
よろめく楓を利憲の腕が支える。
ゴウと強い風が朱雀門に当たり、ギイと木が軋む音がした。
四方八方から叩きつけるように風が吹き荒れている。気がつけば、都中を黒雲が覆い尽くしていた。
「嵐だ」
激しい風がまるで泣いているかのように、ひゅうひゅうと叫び声をあげている。
それは柘榴の心をそのまま映し出しているかのように思えた。
「飛燕!」
再び空を見上げると、一羽の巨大な鳥が雲の中へ突っ込んでゆくのが見える。
大きな翼が羽ばたくと、かき消されるように雲がちぎれた。黒雲を切り裂くように鸞が一直線を描くと、隠れていた龍の姿があらわになる。
漆黒の鱗に赤い星が散りばめられた長い身体。その透き通る宝玉のような赤色は、あの美しい柘榴の実のようだった。
立つ事も難しいほどの横風が吹き荒れる中、楓は遥か上を見つめることしかできない。
「この嵐では屋根も飛ぶな」
大路の先で落ちていた板が飛んでゆくのを見て、利憲が淡々と言う。我にかえった楓は、彼の袖を引っ張った。
「そんな呑気なことを言わないで、どうにかしましょう!」
「龍神を調伏する方法など、そんなすぐには……」
「しかし、飛燕でもだいぶん手こずっているようだ。このままでは危ないだろう」
龍と鸞とが上空で激しく絡み合う。
鳥の爪が龍の背をつかもうとするが、くねる尾に逆に襲われ距離をとった。再び接近するものの、牙を剥いた顎をかろうじて避ける。
手を出す事は出来ない。しかし、どうにかしてあの龍を止めなければ。
「内裏に伝わる噂では、柘榴の父の陰陽師は大蛇にのみこまれたそうなのです。あの龍はもしかしたら、彼女の父親を飲み込んだ蛇かもしれません」
そう語る楓を、二人は驚いて振り返った。
荒れ狂う風の中、楓は焦る気持ちを抑えながら考える。
祓うのではない。
それでは過去の繰り返しになってしまう。
彼女が永遠に失われてしまうのだ。
「私達の前に現れた山楝蛇は、何かを伝えようとしていました。葉を残したのは、彼女を護りたかったのだと思うのです。あの龍と話がしたい。きっと、心は残っていると私は思います!」




