第四十八話 1947 戦後
後日談です。
昭和二十二年
長かった戦争は終わり、新たな時代を始めるにあたり天皇陛下は特に希望して、国民に向けて初めてラジオでお言葉を述べられた。
その中で、戦争を戦い抜いた国民への感謝の言葉と共に、平和な時代の到来を告げ、平和の大事さを訴えた。
そして、これも陛下のお立場としては異例ではあるが、新たな時代に相応しい国の決まり事を皆でよく相談して決めてほしい、とお言葉を下された。
陛下のお言葉は玉音放送としてラジオで数度に渡り放送され、全ての国民が陛下の生の声をはじめて聞いたのだった。
日本政府は終戦後、新たな時代の為、多くの事を行った。
まず最初にして最大の改革は、軍備の効率化と大幅縮小、それに伴う憲法改正だった。
海軍は軍縮にも憲法改正にも反対したが、陛下が東條総理の輔弼による「聖断」を下し、軍縮の勅令公布と憲法改正の発議勅令により憲法改正が行われ、陸軍がこれを支持し国民も支持した為、海軍の反対は全くの不発に終わった。
軍は新たに統合軍と呼ばれ、陸軍、海軍の呼称は残ったが、統合軍司令部の指揮下に完全に統合され、これまで困難であった陸海軍を有機的に統合した作戦を行えるようになったのだ。そして陸海軍が統合し合理化された結果、その規模は縮小されたのだった。
更に、戦時の防空任務に於いて軍が分かれている事による不手際が数々指摘され、その結果新たに空軍が設置された。
これにより、陸軍は地上支援機、海軍は艦載機、空軍は防空戦闘機と戦略爆撃機を運用する事になった。
これらの帝国軍の改革は、後に発生した紛争への派兵に大いに威力を発揮する事になったのだ。
また帝国憲法に於いて天皇の名を悪用した統帥権問題など、問題のある部分の改正も同時に行われた。
それにより総理大臣が明文化され、天皇の任命により内閣の長として行政を統括する、と憲法に記された。そして軍の統帥権は天皇が任命する内閣の長である総理大臣が担う事が記された。
その他様々な部分が改正された帝国憲法は、陛下のお言葉に沿う形に、天皇の地位と権限は実態に即した形で明文化され、二度と悪用が出来なくなったのだ。
内閣を投げ出した近衛から引き継いだ戦争直前から戦後の新体制作りまでをやり遂げた東條内閣は三次に及び、東條英機は勇退後も名宰相として国民に親しまれた。
戦後の大きな国家事業としては、大阪万博と東京五輪もあるが、やはり一番大きいのは新幹線の開通だろう。
昭和二十五年、日本政府は軍縮に伴う退役軍人達の雇用対策も兼ねて、昭和十四年から戦時中も継続して進行していた弾丸列車構想の早期実現をぶち上げたのだ。
当初案を更に大きく進め、これまでの列車を凌駕する時速三百キロにも達する速度で日本を貫く新たな幹線鉄道、つまり新幹線を開通させる大事業が始まったのだ。
時速三百キロで走る列車はこれ迄の鉄道の常識を超えた新しい列車であり、列車を開発製造していたメーカーだけでは到底開発不可能であった。
その為、日本中からあらゆる分野の技術者が集められる事になった。
本来であれば所属も分野も異なる技師達を集めるのは困難であったが、日本には大戦後期に陸海軍と民間合同で立ち上げられた「陸海技術運用委員会」があり、日本の頭脳がそこで仕事をした事が今ここで活きた。
陸海技術運用委員会は終戦で既に規模は縮小され、仕事をしていた技術者たちの多くは元の職場に復帰したり大学に戻ったりしていたが、委員会が再び彼らに声を掛けたのだ。
その結果、新幹線開発チームには日本中から一流の技術者たちが集まった。
我らが中島飛行機は勿論、国内の多くの航空機メーカーの技術者達や戦後軍需産業から離れたあらゆる分野の技師達が再結集した。
最新の流体力学に基づいて設計された新幹線は航空機を思わせるデザインとなり、内部のモーターやメカは勿論、線路に至るまであらゆるところが規格外であり、全てが新たに設計開発されたのだ。
その開発手記が後に分厚い本として刊行されたが、その厚みはあらゆるところに技術者や現場の工員たちの創意工夫と苦労があった表れであろう。
結局、東京大阪間の開通には五年の年月が掛かり、鹿児島から函館まで開通するのにはさらに十年を要したのだった。
新幹線は、その後性能を落としたタイプが日本海側にも開通し、更に北海道と樺太、台湾でも開通することになった。
新幹線の路線は、当初は客車だけが走る予定であったが、その後貨車タイプが夜間に走り、日本の物流の一端を担っている。
戦後、中島飛行機も大きく変わった。
中島社長は戦後会長に就任し、新たな社長には先に取締役になっていた小山が就任した。
私のライバルともいえる小山だが、彼は技術バカの私より求心力がありマネジメント能力も高く、私より先に現場を退いて取締役に就任し技師長になっていたのだ。
しかし、社長就任後の小山の仕事は責任重大であった。
小山に課せられた任務は、戦時に対応する為肥大化した軍用機部門の再構築なのだ。
つまり、多くの軍用機工場を閉鎖し、軍用機の開発部門も縮小し、大勢の工員や技師達には新たな仕事を割り振るか、再就職先の世話をしてやらねばならないのだ。
小山の指揮の元、中島飛行機はグループ企業として自動車メーカーを立ち上げたり、林業に使う器具を製作するメーカーを立ち上げたり、これ迄の中島のノウハウを活かせる企業を幾つも立ち上げ、多くの工場をそれらの生産用に切り替えた。
そうやって、中島飛行機は本業の軍用機の開発製造を継続しながら、多角経営を進め本体のスリム化を進めていき、小山が社長であった間に後に続く中島グループの原型を形作った。
軍用機に関していえば、長く平和が続く世では戦時の様な生産規模や開発のスピード感は望むべくもなかった。
軍は、私が大戦末期に手掛けたジェット戦闘機や襲撃機を改良を加えながら長く使う事になり、次に機種更新が成されたのは十年を経た後であった。
勿論、初期型と最終型ではあらゆる面で性能が向上しており比較にはならないが、よくそれだけ長い間日本の空を護ったものだと、機体の引退の式典では感慨深かった。
結局、英国や米国もそうであるが、ドイツが友好国となり、ソ連と共産主義国の消滅で実質的に脅威になりうる敵が存在しなくなった為、かつての規模の艦隊が再建される事も無かった。
連合国各国は戦後軍の規模を縮小する為、既存の膨大な兵器群は軍備を再建する国へ有る程度売却されたが、大半はスクラップにされた。
長きにわたり皇国の空を護ったレシプロ戦闘機達も機体の状態の良いものは発展途上国や後進国などに売却され、それ以外はスクラップとなり、航空博物館やメーカーの博物館にでも行かなければ実機を見る機会は無いだろう。
例外は海軍に納品した最後のレシプロ機となった四式艦上攻撃機。使い勝手の良い機体と評価も高く、海外にも輸出され戦後二十年の長きに渡って空を飛んでいた。
戦後、勇名を馳せた日本の軍用機は海外にも輸出され、あの米国で採用された機体もあった。
ジェットエンジンの開発は戦後も日英での共同開発が継続され、後にそこにドイツも正式に加わった。
フランスは独自路線を歩む道を選んだが、日英(後に日英独)共同開発されたジェットエンジンは世界中の軍用機、民生機に広く使われた。
私が戦後手掛ける事になったジェット旅客機も、日英共同開発されたターボファンエンジンを搭載した。
私の後輩でワグナーの研究所に在籍していた糸川は、戦後ドイツの技術を活かして立ち上がった国際宇宙開発事業団(ISDA)に移籍した。
ISDAには日本は勿論、ドイツ、イギリス、ロシア、アメリカなどフランス以外の主要先進国の殆どが参加した。
結局、月面着陸の成功を機に、大きく立ち遅れていたフランスも加盟し、世界で唯一の宇宙開発を行う国際機関となった。
ISDAは宇宙ステーションや衛星軌道発電プラントの建設、火星や水星など他の星に調査船を送るなど、多くの実績を作り続けた。
糸川はそのISDAの創設時のメンバーの一人として長く活躍し、引退後は東京帝大に戻り、宇宙開発分野の科学者の後進育成に活躍した。
中島在籍のドイツ人技術者の多くは戦後祖国再建の為に帰国したが、ユダヤ人であったり帰国してももはや家族も居ない人たちはそのまま日本に帰化し、日本に残った。
レンチェラーはその後、中島製のジェットエンジンを使用した米国内向けの小型ビジネスジェットの販売でかなりのシェアを獲得するに至り、エンジンの開発部門は中島グループの中島発動機と合併し、世界的なエンジン供給会社となった。
私はといえば、戦後取締役に就任し新たに新設された民間向け航空機部門の采配を任された。
そして日本初の与圧キャビンを持つジェット旅客機の開発に携わる事になったのだ。
日本は与圧キャビン開発の経験に乏しかった為、戦前既に与圧キャビン搭載の旅客機を開発していた米国からロッキードのコンステレーションという機体を参考資料として購入し、色々と技術を学んだ。
やはり、この手の機体の設計は米国メーカーが優れている。
英国のデ・ハビランドという企業もジェットエンジンを搭載したジェット旅客機を開発しており、日英で同じジェットエンジンを搭載した二つのジェット旅客機が同時期に誕生する事になった。
後に、デ・ハビランドが開発したジェット旅客機はコメットと名付けられ多くの国で使われたが、構造的欠陥から空中分解事故に見舞われる事になった。
私が開発したジェット旅客機は、百人乗りの当時としては大型の旅客機で国内の航空会社などが主に採用し、海外の航空会社でも使われた。
しかし、私が開発したジェット旅客機は十年も経たずに、性能的に更に優れた米国製のジェット旅客機に海外でのシェアをあっさりと取られてしまったのは痛事だった。
その後も継続的にジェット旅客機や貨物機、輸送機、それにレンチェラーで販売するビジネスジェットの開発を監督し、六十五歳で長く勤めた中島飛行機を去った。
仕事仕事の人生ではあったが、戦後は現場を離れていた事もありそれなりに家族との時間を持つことが出来た。
家族で私が作った飛行機に乗り海外旅行に行くのは何とも誇らしく、前世での祖国であったロシアにも訪れた。
前世での祖国は私が訪ねた頃には戦後の復興もかなり進み、それと同時に街並みも変わってしまったのか私が知っている風景を見る事は出来なかった。
娘たちは昭和三十年代後半には嫁いで行って母親となり、孫をこの手に抱くという幸せを味わう事も出来た。
しかし、ひ孫を抱けたと喜んでいた両親は昭和四十年代に相次いで他界した。
娘たちが居なくなった我が家は何とも寂しくなり、妻と二人で新幹線や国内便に乗って日本中を旅をした。
リヒトが再び日本を訪れた時には、夫婦で一緒に旅行をしたのもいい思い出だ。
戦後はゆっくりとした時間を堪能できたように思う。
昭和六十年七月
戦争が終わり、まもなく四十年となる。
平和な時代が長く続き、日英同盟が今や当たり前の存在になっている気がする。
かつての辛かった戦争の時代は忘却の彼方だ。
数年前、長らく付き合いがあった小山が先に逝き、見知ったかつての同僚たちも、既に鬼籍に入ったか音信が取れなくなった者も多い。
我が家を訪ねてくれるかつての部下たちもすっかり少なくなった。
そして今、私は病を得て病床の身だ。
今度ばかりはいよいよという予感がある。
既に一度危篤状態になり、そのまま死ぬかと思ったが、何とか持ち直した。
しかし、医者が言うには次はもたないだろうと。
知らせを受けた娘たちや孫たちが駆け付けてくれ、妻が悲しみに暮れているのが見える。
しかし年齢的にも、私の方が先に逝くのが世の道理だ。
娘や孫たち、そして妻に看取られてあの世に旅立てるなど、前世で一人寂しく死んだ私にしては随分と良い人生だったと思う。
そして全てが真っ白になった。
「私との約束をよく果たしてくれましたね」
私は遠い昔に聞いたことのある声にふと意識を取り戻した。
目の前に居たのは、かつて私に二度目の人生をくれた女神だった。
「貴女のお陰で私は良い人生を終えることが出来ました。
存分に航空機の開発に携わる事も出来ました」
女神はそれを聞きほほ笑む。
「褒美に新たな人生を差し上げましょう。
どんな人生を望みますか?」
私はもうずいぶん生きたし、良い人生も送れた。
これ以上何を望むというのか。
「平穏な暮らしを望みます」
女神は頷きます。
「次の人生はきっと平穏な暮らしを送れるでしょう。
あなたの新しい人生に祝福を」
「ありがとう」
再び視界が真っ白になり、私は意識を失った。
そして、今度は普通の赤子として誰かの元へと生まれ出るのだろう。
帝国の女神 完
これで本編は終了になります。
主人公は女神との約束を果たし、新たな人生へと旅立ちました。
最後までありがとうございます。




