第四十六話 1946.6-1946.10 ロマノフの復活
連合軍の反攻です。
昭和二十一年六月
今月より本格的に六式襲撃機の納品が開始された。
今回は、異例ではあるが一刻も早く前線へと機体を届ける為、自動操縦を活用して空輸飛行で運ぶことになった。
六式襲撃機は特別に用意された大型の増槽を翼下に一つずつ吊り下げると、幾つもの中継地を経由しながら欧州までの延べ12時間にも及ぶ長時間飛行へと旅立つのだ。
新聞報道によると、ソ連との戦争はより激しさを増し、欧州戦線では損害無視のソ連の大部隊の死に物狂いの猛攻を懸命に押しとどめながら、何とか戦線をドイツまで押し戻す事に成功した様だ。
一つには、後退してきたドイツ軍部隊へ休戦条約締結により釈放された捕虜を編入して再編成した結果、有力な戦力として戦線復帰した事。
更にはソ連侵攻に危機感を抱いたスペインや、元々の枢軸国であったハンガリー、ルーマニアなどの中欧諸国やイタリアが連合国側として参戦した為、戦力としては二線級の国々ではあるがそれでも合せて総勢三十万近い兵力となり、彼らがドイツ南部より戦線拡大しない為の側面防御を担った事で、日英の主戦力が集中運用出来た事が大きい。
さながら、欧州戦線は全欧州軍対ソ連の様相を呈しているのだ。
更にソ連側にも大きな変化があった。
ソ連軍は欧州戦線へ追加した予備戦力五十万に相当する大部隊を欧州戦線から引き抜くと、シベリアを快進撃する米軍に対する防御に投入した。
シベリアには本来ハルハ河の戦いでも奮戦した精鋭部隊が駐屯していたが、欧州戦線の拡大で大部分が引き抜かれ、米軍がシベリアへ雪崩れ込んだ時に居たソ連軍部隊は小規模な国境守備隊のみで、それらを鎧袖一触に突破すると後は散発的な抵抗があるのみで、米軍の進撃は無人の野を行くが如きだったのだ。
それが、バイカル湖を越えクラスノヤルスクへと到達し、ノヴォシビルスクを目前としたところで、これ迄接触したことの無いソ連の一線級部隊が構築した防衛線に遭遇した。
快進撃ですっかり気が緩んでいた米軍先鋒のパットン率いる第三軍が縦深陣地へと突入したが、大損害を被り敗走。米国の対ソ戦での初めての負け戦となった。
突出しすぎていた第三軍は後退し、代わりに後続のブラッドリー率いる第一軍、シンプソン率いる第九軍、ジェロウ率いる第十五軍がノヴォシビルスクを守備するソ連軍部隊を米軍の誇る濃密な航空支援の下、包囲撃破に成功した。
ソ連軍は米軍がノヴォシビルスクを攻略している間に、オムスク、アスタナ、カラガンダのラインで強固な防衛ラインを構築し、米軍の大攻勢はここで停滞した。
米国はすぐさま増援部隊を派遣すると、ソ連のウラル山脈の東、スヴェルドロフスクにある大工業地帯に対する爆撃を開始した。
イルクーツクの飛行場を米軍が接収し大規模拡張し、そこから新型のB29爆撃機を飛ばして爆撃するのだ。
公開された写真を見ると日本に飛来していたB17より一回りも大きく、以前軍から打診が来ていた超大型爆撃機がまさに実現していた。
米国の技術工業力は馬鹿にできない。今の日本であってもこれを作り上げるのは簡単ではなかろう。
独軍よりも性能的に劣ると言われるレシプロ機しかないソ連軍は迎撃に困難を極めるだろう。
我々の手元にも、ソ連機の情報が軍の関係者から入って来ている。ドイツからの情報提供もあったようで結構詳細な情報が載っており、見ると前世でのソ連機の顔ぶれとは少々異なっている。
主力戦闘機は前世と同じくYak-9とLa-7、一時主力戦闘機を開発していたツポレフは攻撃機や爆撃機などに移ったのか後継機は確認できなかった。
他にもスホイとイリューシンが爆撃機を開発し、イリューシンは前世でも有名だったシュツルモビクを開発し、Il-2、Il-10が東部戦線で活躍。
しかし、制空権が強固に確保できていなければ、幾ら頑丈な襲撃機でも600km/hも出ない機体では、戦闘機に食われるばかりだろう。
現実に、それ程の脅威とは認識されていない様だ。
しかし、前世と異なりミグ設計局の機体は全く確認されていない。
ミコヤンとグレビッチが、どこかの設計局に居るのかどうかも分からないが、前世の様に設計局は持たせてもらっていないようだな。
昭和二十一年七月
新聞報道によると、連合軍は質は兎も角欧州戦線で200万の兵力の確保に成功し、ソ連軍に兵力で勝る事が出来た。
しかし、戦車などの陸上戦力の質と量は依然としてソ連の方が優勢であり、航空支援を駆使して何とか優勢を保っている状況である事には変わりない。
だが、ソ連の攻勢は既に実質的に頓挫していた。欧州の連合軍とシベリアから進軍中の米軍との東西両面の戦線を持つ事で以前のドイツ軍と同じく戦力の分散を余儀なくされており、じりじりと追い込まれていくことは時間の問題の様だ。
更には、米軍によるソ連の工業地帯爆撃の結果、ソ連の兵器製造能力が著しく低下している事もあり、以前の様に無尽蔵に湧き出て来る兵器群という訳にもいくまい。
そんな七月のある日の新聞一面を大きく飾っていた、英国が新たに切ったカード。それは、ロマノフ家の擁立だった。
ロシア帝国の皇帝家であるロマノフ家に連なる者である、ウラジーミル・キリル・ロマノフはフランスに亡命していたが、フランスがドイツに占領された時にその側近たちと共にコンヒエーニュの収容所に入れられていたらしい。
ドイツが休戦条約を結んだ後、バイエルンのとある城に移されていたウラジーミル一行の存在を明かされ、英国に身柄が引き渡された。
ソ連との戦争を速やかに終結させ、共産主義を根絶やしにする為には、ロマノフ家という未だロシア人にとって権威をもつ存在を擁立し、ロシア帝国を英国と同じく立憲君主国として再建する事が決め手となる、と判断されたようだ。
現実に、ソ連軍捕虜の尋問の結果、ロシア人達もまたドイツ人と同じく長すぎる戦争に辟易しており、政治将校と秘密警察のもたらす死の恐怖が無ければ、死をも恐れぬ突撃などとても無理な状況にまで追い込まれていたのだ。
大多数のロシア人にとって共産主義の大義などに興味はなく彼らはただ生きて家に戻りたいだけなのだ。
英国に於いて当代のロマノフであるウラジーミル・キリルが戴冠し、ロシア帝国の復活を宣言した。
そして、新たなロシア帝国を国民議会を持つ立憲君主制とする事を、その戴冠式の演説で発表した。
新たなロマノフ皇帝の元にはドイツ側で戦っていたロシア人義勇兵達や亡命ロシア人達が集まり、新生ロシア帝国軍が結成された。
そして、ソ連軍の捕虜達からも志願兵が募られ多くの兵士達が参加したのだった。
彼らは新たなロシア政府としてソ連軍将兵に対し、ロマノフの名の元にロシアの共産主義からの解放を呼びかけ、母なる祖国への帰還を訴えた。
度重なる空襲により精神的にも疲弊し、途絶えがちの補給や人の命を何とも思わない共産主義者や政治将校達に辟易していたソ連兵達は、政治将校や共産主義者達を殺したいくつもの部隊が丸ごと投降してくる有様で、一か所で堰が切れれば後は洪水の様に崩れていった。
新たなロマノフ皇帝の元に元ソ連軍将兵が続々と集まり、これ以上の戦線維持は不可能と判断したソ連軍は撤退を開始した。
そしてその撤退中ですら、命令に従わず新たなロマノフ皇帝に従うソ連部隊が幾つも出てきたのだ。
ソ連との戦いは新たな局面を迎えた。
昭和二十一年八月
新型の六式襲撃機はソ連軍相手に猛威を振るい、ソ連の精鋭である親衛軍の戦車部隊を幾つもスクラップに変え続けた。
六式襲撃機の戦地での評判は悪くなく、結果的に30mm機関砲を二門搭載した機体でもソ連軍の重戦車の上面装甲ならば問題なく貫通する事が解り、使い勝手から30mm機関砲搭載型の方を量産する事になりそうだ。
しかし、57mm機関砲装備型もその破壊力から玄人好みの機体らしい。
シベリア戦線は米軍の増援部隊も加わり、オムスク、アスタナ、カラガンダの防御陣地を突破、シベリア鉄道沿いにスヴェルドロフスクに向け進撃を続けた。
ロシア人達は防御戦闘に於いては粘り強く、ところによっては最後の一兵に至るまで戦い続ける様な事もあり、米軍は火炎放射器などを活用して陣地を一つ一つ虱潰しにしながらの進撃となり、以前の様な快進撃にはなっていない。
欧州戦線では連合軍がついにドイツを開放、ソ連軍部隊をポーランドまで押し返した。
ソ連軍が居たドイツ国内は破壊と略奪、強姦と酷い有様で、あちこちに逃げ遅れたドイツ軍将兵や民間人の死体が酷い状態で打ち捨てられていたままだった。
その有様の写真が新聞に掲載されていたが、見て気持ちの良いものではない。
その残されていた遺体を黙々とドイツ軍部隊が収容し荼毘に付した様だ。
夏の暑いさ中、既に腐乱している死体もあり、死者の尊厳を守るという意味もあるが、早急に対処しなければ将兵の士気や衛生面に問題がでる。
従軍記者達もこの有様にはショックを受けたろう。
昭和二十一年九月
連合軍はポーランドを開放し、ソ連領内へと進軍。
ソ連軍はソ連領内に強固な縦深陣地を構築しており、ここで連合軍の攻勢は一旦停止した。
対ソ戦に熟練しているマンシュタイン将軍らドイツ軍首脳の意見を聞き、改めて攻勢を開始した。
開放したソ連の街や村はロマノフ皇帝を歓迎し、新生ロシア軍はゆく先々で歓迎される。
白ロシアやウクライナなどは連合国に対し、早々とロシア解放後の独立と地位の確立を求める代わりに戦争協力を約束した、と言う抜け目のなさが新聞に載っていた。
シベリア方面は米軍の戦略爆撃は当初の目的を達成し爆撃作戦は一旦終了した。
米軍部隊はソ連軍が防御陣地を構築して守備するスヴェルドロフスクへと迫り、米軍の進撃するシベリア鉄道の南に続く街道沿いを進撃していた我が皇国軍部隊はスヴェルドロフスクの南方にあるチェリャビンスクの攻略に成功した。
シベリア方面のソ連軍の主力がスヴェルドロフスクの守備に集中していた為、チェリャビンスクは手薄になっていたのだ。
皇国軍はスヴェルドロフスク南部より米軍の攻略を支援し、スヴェルドロフスクの攻略を目指す様だ。
昭和二十一年十月
欧州戦線はエストニア、ラトビア、リトアニア、白ロシア、ウクライナを開放し、スモレンスクへと戦線が進む。
ソ連は国民を総動員して増援部隊を繰り出して来るが、殆どが装備も二線級以下の部隊で、それでも彼らには陣地を死ぬまで守る事が要求されていた。
しかし、新生ロシア軍が呼びかければ多くの場合、政治将校や督戦隊を殺して投降してきた。
だが、共産主義者だけで構成された部隊は死ぬまで抵抗するし、精鋭の親衛隊はその装備と訓練を遺憾なく発揮し再編成されたばかりの新生ロシア軍に裏切りの代償を支払わせていた。
今や連合軍部隊の先鋒は新生ロシア軍が担っており、ロシア人同士が戦っているのだ。
冬が訪れる前にモスクワを攻略したい連合軍は十月中旬、全戦線で一気に攻勢に出て、北部のドイツ軍部隊がレニングラードを攻略し、さらにヤロスラブリまで軍を進め、南部の皇国軍部隊とカナダ軍がウォロネジの攻略に成功した。
そして、中央の英軍と新生ロシア軍はモスクワ近郊に到達し、先遣部隊がモスクワが見えるオジンツォボへと侵入した。
しかし、スターリンらソ連共産党首脳達はモスクワに残存部隊を残すと、いち早くニジニーノヴゴロドへと逃げ出しており、連合軍はソ連指導部の捕捉には失敗した。
モスクワは包囲するには大きすぎ、英軍と新生ロシア軍だけでは部隊の展開が間に合わなかったのだ。
新聞の紙面には、かつて見た事のあるモスクワの遠景が写っていた。
B29はソ連の工業地帯の破壊に活躍しました。多分、一方的だったでしょう。
そして、ロマノフが復活しロシア開放へ物語が進みます。
 




