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第十八話 1940.1-1940.7 ナチの快進撃と戦雲垂れ込める皇国

年は変わり1940年、戦争前夜の日本です。





昭和十五年一月



また、年が明け1940年となった。

去年はドイツがポーランドに侵攻し、今年はフランスなど西部に攻め込んだ筈だ。

いよいよ世界は本格的に戦争に突入し、再来年には日本は米国との戦争に突入していた様に記憶する。


そのうち戦火が国内に及ばなければいいが…。


年末年始といえば忙しくともやはり里帰りが習慣だ。

とはいえ、里帰りといってもうちはもともと東京府内に実家があるため、それほど遠くまで行くわけでは無い。

しかも、夫婦で同じ郷里ということだから、地方から出てきた者同士の夫婦よりはずっと楽といえるだろう。


娘も女子故か早いものでもうよちよち歩きが出来る様になり、里帰りのたびに親が大はしゃぎなのが何とも滑稽だ。


こうやって毎年のように孫の顔を見せに行ける日々が続けばよいが…。

戦争は当たり前の日常を簡単に壊すからな。




実家から戻って来ると、また一年が始まる。



中島がこれまで機体を生産しているのは陸海含め太田製作所だけであったが、そろそろキャパシティが限界に達しており、陸軍機と海軍機の生産拠点を分け、新たに海軍機の生産工場として小泉製作所という大がかりな工場施設を作った。

新たにと言っても太田の隣の町なのでそれほど遠いという訳でもない。

そして、両工場の間に太田飛行場というのが出来て、太田、小泉からその飛行場まで専用の道路で連結された。

つまり、中島の敷地から出ることなく車で小泉工場まで行くことが出来るという訳だ。


ちなみに、完成した飛行機はそのままの状態で滑走路へと移動させることが出来、太田飛行場から飛び立っていくのだ。


工場建設に伴い、小泉をはじめ周辺の地区に社宅や大運動場、総合病院、航空学校まで完備された。さらには、社員が通勤するための駅まで作られたのだ。

駅から工場までの専用バスまで完備されるという手の入れようで、この辺りはまさに中島飛行機の工場町という様相なのだ。


昭和十五年度に私が勤務する太田製作所で生産を予定されている機体は、九六式戦闘機、九七式戦闘機、九七式重爆、九七式艦攻、九八式襲撃機。


現在開発中なのは前年試作機を完成させ審査中のキ43、キ44、そしてキ50という重爆撃機だ。


そして、キ44は年が明けて百式戦闘機として正式採用が通知された。


そういえば日本陸軍の戦闘機というと愛称が付いていた気がするんだが、特にそういうのは付かないようだ、全部ついていたかどうかは知らないが一式戦闘機は隼と呼ばれていたのは知っている。


年が明けて、九六戦と九八襲のエンジンの更新の為の作業に入る。

元々機体設計段階から、エンジンの更新を前提に作っているためエンジンカウルの再設計だけで良いと多寡を括っていたら、小さくなると聞いていたのに大きくなったのが想定外だった。

更にはモーターカノンの実装もあり、さすがに大幅変更ではないがそれなりの作業量となった。


この戦闘機はドイツのBF109によく似てると言われるが、そのくらい長く使える戦闘機であってほしいものだ。



中島に海軍から四発爆撃機の試作依頼があったのだが、それの参考に去年の十月に海軍が米製のDC-4Eという旅客機を手に入れたらしい。

最新鋭の四発旅客機で、それを中島に持ち込みこれを参考にして13試大型陸上攻撃機を試作してほしいという。

確かに中島では陸軍向けの重爆などの大型機も作ってはいるが、四発ともなると簡単ではないだろうな。

笑ったのはそのDC-4Eに搭載されていたツインワスプが日本製だった事だ。





昭和十五年三月



エンジンを交換した九六戦Ⅲ型、九八襲Ⅱ型の改修版試作機が完成した。

社内で試験飛行させたが、九六戦は思ったほど速度は伸びなかった。

やはり、エンジンの大型化とモーターカノンの搭載による重量増で相殺する形になってしまったようだ。

九八襲に関しても似たような物で、性能向上はあまりなく三十ミリ機関砲搭載が大きな改良点となった。


社内試験では特に問題もなく、陸軍での審査の為納品した。


米国からの輸入の締め付けがかなり大きくなって来ており、日本から人員の引き上げを始めた外国企業も増えてきた。




そんな中、レンチェラーが米国から来日して中島社長と数日に渡り協議して帰国した。

レンチェラー日本合資会社は撤退はしないが、中島発動機製作所合資会社に名称が変更された。

それと共に、米国人技師が希望者は直ちに、他の技師も随時帰国となった。

しかし、日本に来て日本人と結婚している米人技師も居るため、引き続き日本で仕事を続けたいと言う技師も居たり、或いは一緒に米国に渡るという話もあったり。

そんな話になっている様だ。

しかし、この先戦争になれば戦争相手国の国民は恐らく収容され、少なくとも戦争が終わるまでは仕事をすることが出来ないだろう。


レンチェラーと中島社長の間でどんな話し合いが持たれ、どんな約束が成されたのかはわからないが、今後は少なくとも米本国からの新たな技術供与も新型エンジンも届かないだろう。

恐らく、米軍からもなにがしか干渉があったはずだ。


今後は日本の技術者独自で改良、新型開発をせねばならないという事だ。


レンチェラーの最後の置き土産として、ダブルワスプの最新モデルの資料が齎された。

実機が無いため、日本で作り上げる必要はあるらしい。

一先ずこれで打ち止めという事だろう。


その最新モデルは米軍に納品した最初のモデルと同じモデルであり、遠心式スーパーチャージャ二段二速を搭載したモデルだった。

日本では未だ二段二速は制作したことが無く、問題なく動くものが作れるかどうかが今後の中島発動機製作所の試金石となるだろう。

勿論、私が手掛けている百式戦闘機の今後を左右する事にもなる…。





昭和十五年四月



キ43が陸軍の指示があり再び審査されることになった。

陸軍は一度は不採用としたがあくまで不採用はあの試作機であり、キ43の計画自体は終わっていないとの事だ。

小山は今度のがダメなら根本から再設計する必要があると嘆いていた。

実のところ小山はエンジン出力が高い分自由度の高い重戦闘機を自分も作りたかったらしく、本当はキ44も手を上げたかったのだと話していた。

つまり、私が既に九六戦を手掛けていながら、キ44で再び重戦闘機を手掛けるのは不公平だと。

しかし、それはあの素晴らしい軽戦闘機の九七戦を作った上での指名だったんだから仕方がないだろうと、そもそも九六戦は当初そこまで期待されていなかったのだから。

そういう話をすると、小山は力なく黙り込んだ。


そういえば、史実のキ44はだれが作ったんだろうな。





昭和十五年七月



五月から大陸の重慶を空爆する大規模な作戦が始まったが、今月米国が外交ルートで日本に対し日本の中国での軍事行動をナチの軍事行動と重ね、彼らと協調するのかとの強い警告があった。

海軍出身の米内政権は対米関係の修復に腐心していたが、陸軍により倒閣されそれに返答しないまま第二次近衛内閣が発足した。

私はあの近衛という人物はどうにも言動が軽く感じられて信用できないのだが大丈夫なのか…。



そして、とうとう米国が先月から戦時体制に本格的に移行を進めている様だ。その矛先は当然日本なのだろうな。

何しろ、再来年の今頃は戦争しているのだから…。


浮ついた連中はドイツの快勝でバスに乗り遅れるななどと独伊との軍事同盟強化を推し進めるが、本当に愚かとしか言いようがない。

私の前の人生で、私が死ぬ頃にはドイツはすっかり劣勢だったのだ。




今月、液冷エンジン部門のフランツが中心となった過給機開発チームが二段三速過給機の試作品を作った。

やはりフランツはこの手の技術者の中ではピカ一の天才の様で、彼が居なかったらここまで短期間で完成度の高いものはとても完成しなかったようだ。

一度目の人生でもユンカースに居たと思うのだが、彼は何をしていたのだろうな。

快適で干渉されず集中できる環境こそ開発推進の燃料だと言っていたが、ドイツ本国はそんなに環境が悪かったのだろうか?


焼き入れ処理などの冶金分野での技術指導の方も継続して下請け工場でも行っているらしく、最近では片言でも日本語も話せるようになった技師も居るとか。


今後も更に改良を続けるとの事だ。









ポリカルポフは日本の開戦がいつかまでは知らない設定です。


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