表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/51

第十七話 1939.8-1939.12 ノモンハン事件 後編

ノモンハン事件の後半戦です。





昭和十四年八月



ノモンハンでの戦闘は五月の大規模衝突以降も続いており、先月にも大規模な空中戦があったらしい。

その際に、飛行第十一戦隊は四十機ものソ連機と遭遇し三十分にもわたる空戦を繰り広げたらしい。

その結果、敵を撃退したが陸軍も少なからぬ損害を受け、九五戦は勿論新型機として配属されたばかりの九七戦も失っているそうだ。


その中には新聞でも東洋のリヒトホーフェンと大きく報じられた篠原准尉らの部隊も含まれているそうだ。

陸軍は九六戦を送り込みキ43が正式採用になるまでに繋ぎとしたい様だが、現地の陸軍パイロットはでかい機体は良い的だと乗るのを嫌がっているらしい。


嫌がっているのはともかくとして、この事は前世では活躍し名機といわれた九七戦に見切りをつけているという事なのだろうか。

実は陸軍から生産縮小の内示があったのだ。


そんな嫌われモノの九六戦だが、だれも乗らぬなら俺が乗る、お前が乗るなら俺も乗るという感じで、撃墜されて愛機を失った篠原准尉がまず乗ると言い出し、部隊は同一機でそろえた方が戦いやすいのは間違いないので、篠原准尉が所属する第一中隊は中隊長の島田大尉以下全中隊員に九六戦が配備されることになったそうだ。


ところがエースクラスが乗ってみてこれは良さそうだぞという話をすれば、ならば俺も俺もと乗り出して、最終的に飛行第十一戦隊は九六戦が優先配備されることになった。


九七戦が生産縮小方向になる代わりに、九六戦が増産されることになり、工場をフル稼働して八月が末になるころには月産五十機もの生産量となった。



結局、ノモンハンでの戦闘は大本営の不拡散方針と現地の関東軍の齟齬から積極的な航空攻撃は行わなかったようで、専ら制空権の確保の為の空戦と地上部隊の直掩に終始していたようだ。

九八襲撃機はその機体思想そのままに敵の対空砲火をものともせず、一機の損失もなく爆撃、機銃掃射を繰り返し、ソ連部隊を震え上がらせたらしい。

そして、九六戦闘機の投入でその数は少数とはいえソ連機を圧倒し、日本のエース達は一撃離脱など九六戦の機体特性を活かした戦法を次々と編み出していった。

開戦当初の優勢時は優位と言えた損耗率も一時は互角まで落ちていたが、再び優位と言えるほどに戻し陸軍航空隊では重戦闘機に対する認知が大幅に高まることになった。

特に元々迎撃機として期待されていたが、日本軍陣地や空港を爆撃していたソ連機の迎撃に真価を発揮することが出た。

ソ連軍は、ツポレフ双発爆撃機のSB-2や四発大型爆撃機のTBを繰り出し高射砲の射程外の高空からの爆撃を試みたのだが、迎撃に発進した九六戦は急上昇し大戦果を挙げたそうだ。

同時に飛び立った九七戦ではその高度に上がるにも一苦労で、九六戦がなければ撃退は容易ではなかったろう。


今回のノモンハンでの戦いは陸軍航空隊に多くの経験をもたらし、格闘戦偏重主義が多かったパイロットの認識も随分変わったようだ。


何しろ、ソ連軍が中盤以降日本側を苦しめたのはI-14の機体特性を熟知したベテランパイロットによる一撃離脱戦法、さらには日本にはなかった一撃離脱戦法を更に活かし生存性を高める二機一組の新たな戦闘法だった。

それらの日本になかった戦い方を日本のエースパイロット達は貪欲に吸収したのだ。


九六戦を乗りこなし八十機というリヒトホーフェンに並ぶ日本軍史に刻まれる金字塔を打ち立てた篠原准尉は少尉へと昇進し、今後は後進養成の為明野飛行学校へ教官として赴任するらしい。

あまり芳しくなかったと小さく報じられたノモンハンの戦い後、彼の活躍は新聞で大きく顔写真付きで取り上げられたのだ。


私が手掛けた九六戦のスマートな機体を後ろに彼が写る写真を新聞で見るにつけ、少し誇らしい気持ちになった。




今月末頃、ドイツでハインケルのHe178というジェット機が初飛行に成功したと現地の新聞に載っていたとドイツの駐在から電報が届いた。

さすがジェットの先進国のドイツはこんな時期からもう飛ばしていたんだな。


日本に来た元ユモのジェット技術者達は、日本の研究者や技師達もチームに加え本格的に研究しているそうだ。

前世では結局時間切れだったがロケット機の風洞実験まではやった。


あの機体をジェット機に再構成すれば完成したジェットを積めば飛べるかもしれない。

風洞実験での結果は悪くなかったから、空力的には大きな問題は無いはずだ。





昭和十四年九月



前の人生と同じく、ドイツがポーランドへ侵攻した。

世界規模の戦争の始まりという訳だ。

勿論、数日遅れではあるが、日本の新聞でも大々的に報じられた。


ノモンハンでの戦いはソ連と外交ルートで手打ちにし、正式に関東軍に作戦中止が命令され、一先ず終結した。


日本はヨーロッパで始まった戦争への不介入を宣言した。

とはいえ、中国での戦闘はいまだ続く。





昭和十四年十月



元ユモの連中こと液冷エンジン部門が日本で初めて作った液冷エンジンの試作品が完成した。

つまり、一度目の人生でドイツ軍機が搭載していたJUMO213相当のエンジンだと思う。


陸軍に試作機完成を報告すると、早速とばかりにハ39の機番が割り振られた。


性能的には液冷倒立V型12気筒エンジンで3,250回転で1,750馬力。一段二速の過給機が付いていて、勿論モーターカノンにも対応している。


さらに大きく重くなったのは残念だが、性能的には既に申し分ない。


後日、新型エンジンを見に来た陸軍の技研がこのままでも素晴らしいが、水メタノール噴射装置を搭載してほしいと依頼してきた。


空冷エンジン部門の方で研究しているオクタン価を一時的に上げる水メタノール装置を取り付けろという事らしい。

聞けば、これは他のメーカーにも依頼していることらしく、すでにオクタン価の高い米製ガソリンの供給が途絶えるための準備をしているということだそうだ。


ドイツでもその技術は知られているそうで、実は今は搭載していないだけで今後搭載していくと答えていた。


社内で耐久テストを行った後、陸軍の技研にもテスト用に一台納品することになった。


年明けには、こいつを九六戦や九八襲に搭載する予定になっている。


陸軍でも、ノモンハンでの大型爆撃機要撃の時に高火力武装を痛感したらしく、30ミリ機関砲搭載を待ちわびているとのことだ。





昭和十四年十二月



一度不採用となり再設計を行っていたキ43の試作機が完成した。

見た目は以前のイメージそのままだが中身は大きく変わった。


エンジンを十二試艦戦と同じレンチェラーのツインワスプジュニアR-1535に変更し、武装を機首に12.7ミリ機銃を二挺に強化され、防弾装備も重くなりすぎない程度に最低限の物がつけられた。

最高速度は509キロ、運動性は九七戦よりはやや劣るが、それなりの武装と防弾装備を付けてでの性能であるから、軽快な戦闘機としてはまずまずの性能であるはず。


年明けから陸軍で新たに新設された飛行実験部により明野飛行学校でテストを行うとのことだ。


新型エンジンは社内での耐久性も含めたテストでも問題なく、今月陸軍に持ち込まれ陸軍でもテストされた。


連続運転審査は勿論、耐久試験、振動など様々な見地から審査され、モーターカノンの射撃試験も行われた。


結果としては、現時点では特に目立った問題はなしとの事だ。


これを受け、予定通り年明けから九六戦に搭載することになった。



今月、陸軍で実戦テストが続いていたキ44は華北での戦線で高評価を残し、正式採用との方向だ。

ノモンハンでの高評価も今回の評価と関係しているとの事だ。


このままいくと、百式戦闘機として採用されるとの事だが、本来のキ44はなんという正式名称だったんだろうな。



史実よりソ連機が硬すぎたせいで陸軍航空隊が重戦闘機に傾いてきました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ