第34話 書庫の変人
◇あらすじ◇
ある夏休みの午後、出町のいない書庫で、青葉を相手に探偵クラブ誕生の経緯について話す古野。話は1年前、まだ古野が探偵クラブの存在さえ知らなかった夏休みにまでさかのぼる。東都文学研究会のメンバーだった古野は、ある日、先輩が部室で頭から血を流して倒れているのを発見。警察は事故と判断するが……。
◇事件関係者◇
尾川絢子・・・若森高校3年。東都文学研究会の会長。一人ぼっちだった古野を半ば強引に会へと引き入れた人物。西洋文学が好き。身長173㎝。
河上誠司・・・若森高校3年。東都文学研究会の副会長。眼鏡をかけたクールな男で、尾川の補佐役を務めている。日本文学を好んで読み、特に川端康成のファン。身長176㎝。
芳田俊介・・・若森高校3年。東都文学研究会のメンバー。茶髪で陽気な男。メンバーのなかでは最も本への関心が薄い。部室で頭から血を流して倒れているところを古野に発見される。身長178㎝。
村神広志・・・若森高校3年。東都文学研究会のメンバー。身体の割に気弱な性格で、いつも宮元に付き従っている。村上春樹のファン(いわゆるハルキスト)。身長184㎝。
宮元秀樹・・・若森高校3年。東都文学研究会のメンバー。メンバーのなかでは飛びぬけて背が低く、村神とは凸凹コンビ。彼とは対照的に気が強い。生粋のシャーロキアン。身長156㎝。
「探偵クラブ」がいったいどこで活動しているのか、突き止めるのは意外にも簡単だった。学校は夏休みの真っ最中だったが、文武両道を校風とする東都高校は夏休みであってもほとんどの部活動が活動をしていたからだ。
尾川会長から「探偵クラブ」の話を聞いた翌朝、俺はさっそく学校に出向くことにした。芳田さんの意識はまだ戻らず、4人の先輩たちは朝から病院へ向かったと会長から連絡が入っていた。何はともあれ、まずは芳田さんが意識を取り戻さないことには始まらない。その間、俺は俺でできることをやろう。そう考えていた。
ひとまず職員室に行くと、いつもと変わらない光景が。教師に夏休みはないのである。冷房のしっかりと効いた職員室でパソコンに向かう者、コーヒーを飲みながら談笑する者、質問にやってきた生徒の指導にあたる者――。さまざまである。どうしたものかとキョロキョロしていると、プリンターで何かを印刷していた担任の島田先生と目が合う。若手の男性教師で、地歴を担当している先生だった。
「お、古野。どうした、俺になんか用か?」
ちょうどいい。島田先生は気さくで授業も分かりやすいため、生徒からの人気も高く、俺としても話しやすい部類に入る先生だった。
「あ、あの、先生」
「ん?」
「あの、『探偵クラブ』って知りませんか。うちの高校にそういう部があるって話を聞いたんですが……」
そう聞くと、島田先生はちょっと考えてから、ああ、と思い出したようにうなずいた。ちょうどプリンターが印刷を終え、先生は何かのプリントを取り出しながら答えてくれた。
「ああ、あるある。探偵クラブね。なんでも今年、1年生が新しく作った部活らしいぞ」
1年生が!?
衝撃の事実だった。しかも今年、密かに作られた部のようだ。どうりで俺が知らなかったわけだ。しかし、1年生がそんな部を作ったなどという話はまるで聞いたことがなかった。いったい、いつ誰が作ったのだろう。
「たしか、顧問は沖津先生じゃなかったかな。今日は当直で、下の事務室にいるはずだ」
「沖津先生……ですか」
島田先生はちょっといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「数学の先生だよ。若くて美人だけど、ちょっとミステリアスなとこがある人でね。まあでも、聞けばちゃんと教えてくれると思うぞ」
「あ、はい。わかりました」
ありがとうございます、と頭を下げると、先生は「ほい」と先ほど印刷したばかりのプリントを一枚くれた。見てみると、地理の課題プリントだった。ちゃんと勉強もしとけよ、と言って先生は自分の席へと向かった。
沖津先生、上級生の担当をしているのだろう、聞いたこともない名前だった。美人だけどミステリアスって、ちょっと会長に似てるななどと思いながら、俺は1階にある事務室へと向かった。
◇◇◇
「古野直翔君……ね。まあ、座りなさい」
先生は名前を沖津博美と言った。島田先生の話通り、たしかにパンツスーツの似合うモデルのように綺麗な先生だった。ただ、これまた島田先生の言う通り、どこか油断できない、謎めいたところのある人でもあった。ひとまず俺は先生に言われるがままに事務室のソファーに腰を下ろす。先生も俺の目の前のソファーに座った。
「で? 話って何かしら」
「あ、あの、実は探偵クラブというのを探していて……。先生が顧問だと聞いたものですから」
探偵クラブ、という名前を出したところ、沖津先生の口元に意味ありげな笑みが浮かんだ。
「へえ、君、あのクラブに興味があるのね?」
「あ、いや、その、興味があるというか何というか……」
どうやら入部希望の生徒だと思われてしまったようだ。俺は誤解を解くために、昨日、東都教育文化センターで起きた事件(?)について話した。恐らく事故だとは思うが、少し妙なところがあるので調査を依頼しに来たのだと正直に話すことにした。
それを聞いた沖津先生は腕を組み、少し考えこんだ。しばらく待っていると、いいわ、と言って先生は立ち上がると、事務の机の引き出しから一枚の紙を引っ張り出して戻ってきた。
「はい、これが入部届ね」
見ると、それは本当に入部届だった。
「え!? い、いや、あの俺、別に入部したいわけじゃあ……」
「分かってるわ。一応あげておくだけ。でも気が向いたら、ぜひ君に入部してほしいのよ。何せ探偵クラブは今、一人だけで活動してて困ってるものだから」
探偵クラブは今、どうやら創部したというその1年生一人だけで活動しているらしかった。そもそも、それでは部として正式に認められていないはずだ(東都高校の部活動規約によれば、部員が少なくとも3人以上所属していないと部としては認められず、部費が支給されないことになっていた)。 たしかにそれなら、顧問の先生がこうして勧誘してくるのも何となくうなずけた。
しかし今、俺は東都文学研究会のメンバーなのだった。捨てるわけにもいかないので、入部届は一応受け取ったものの、申し訳ないがそのときの俺には全く入部する気などなかった。ただ早くその1年生に会って依頼をしたい、ということで頭がいっぱいになっていた。
それでも沖津先生は、俺が入部届を受け取ってくれたことで満足したのか、また笑みを浮かべて今度は校舎の地図をくれた。
「探偵クラブの活動場所は書庫なの。暫定的にね。部として認められてないものだから、当然部室もないのよね。だから、学校に無理を言って、普段は物置としてしか使われていない書庫を間借りさせてもらってるってわけ。地図に印つけといたから、行ってみなさい」
地図に赤い丸印がついていた。書庫は1階の、どう考えても誰も寄りつかないようないちばん奥まった場所にあった。
「ありがとうございます」
そう言って出ていこうとすると、沖津先生に呼び止められた。振り返ると、先生はにやりと笑ってこう言った。
「古野君だっけ? 気をつけなさい。探偵クラブの部長さん、ちょっと癖の強い子でね。まあ、あなたの依頼が無事に通ることを祈ってるわ」
◇◇◇
探偵クラブが活動拠点としている書庫へと続く長い廊下を歩きながら、本当にここは「奥地」と呼ぶにふさわしい場所だなと俺は思った。8月の昼日中だというのに、その廊下は薄暗く、何となく冷ややかな雰囲気だ。この辺りはどうやら教室としては使われていないらしく、「資料室」やら「倉庫」などと名づけられた部屋ばかりが軒を連ねている。「書庫」は、その廊下の突き当たり、奥地のいちばん奥の部屋だった。
――気をつけなさい。
沖津先生の言葉がふとよみがえる。彼女の話によれば、探偵クラブの部長は「ちょっと癖の強い子」であるとのことだった。いったいどんな人物なのだろう。俺はいくらか緊張した手で扉をそっとノックした。
……返事はない。
しばらく待ってからもう一度ノックをしてみたが、やはり返事はなかった。辺りは水を打ったように静まり返っている。
どうしよう。
少し逡巡した後、俺は引き戸に手をかけた。そのまま力を入れると、引き戸は少し軋めきながらするすると開く。扉の隙間から中の様子をうかがうことにした。
「……うわあ、すごい部屋だな」
思わず言葉が漏れていた。そう、思わず漏れた本音だった。もちろん、ここでいう「すごい部屋」というのは決して褒め言葉ではない。俺が「すごい」と感じたのは、室内の様子が整理整頓とはかけ離れていたからだった。世の中の「書庫」と名のつく部屋はすべてこんな感じなのだろうか。
部屋の広さは、普通の教室より少し狭いくらい。壁際には、組み立て式で小ぶりの本棚がずらりと並んでおり、そのすべてに本がぎっしりと収まっている。ただ、あまりに大量の本は本棚にはとても収まりきらず、部屋のいたるところに山のように積まれている(そのうちのいくつかの山は既に崩れている)。見たところ、積まれているのは本だけに留まらず、何かの書類や古い教科書などもあるようで、丸められたポスターなどもいくつか転がっていた。「書庫」というよりは、もうほとんど倉庫に近い部屋だった。
それに何だか室内はひんやりとしていた。もちろん冷房が効いているからということもあるだろうが、それにしてもやけに冷たかった。半袖の制服から伸びる腕を思わずこすり合わせる。
そして、古本やら何やらが雑然と積まれたなかに辛うじて足の踏み場が残されており、その先には、職員室で先生が使っているようなデスクと、応接セットが一式置かれていた。そして、安い合成皮革のソファーの上に、一人の男子生徒が仰向けに寝転がっている。
――こいつが、探偵クラブの部長?
恐る恐る近寄ってみる。どうやら本当に眠っているようだ。別に見るつもりはなかったのだが、気持ちよさそうな寝顔だった。見たところかなりの美青年のようだが、髪はボサボサだ。そして、俺が近づいても全く目覚める気配がない。
「あ、あの、すみません!」
ちょっと大きな声を出してみる。しかし、男は穏やかな寝息を立てたままだ。
「……探偵クラブの部長ですよね? 依頼したいことがあって来ました。話だけでも聞いてくれませんか」
返事はない。本当に眠っているのか、あるいは、面倒だから寝たふりをしてやり過ごそうとしているのか――。ただどちらにせよ、俺がむりやり起こすわけにはいかなかった。
もう一度声をかけてみるがやはり起き上がる気配はなく、俺は一つため息をついた。どうしたものか。別にどうしても話がしたいわけではなかったのだけれど、尾川会長がわざわざ俺に頼んでくれた手前、このまま手ぶらで帰るわけにもいかない。俺は少し考えて時計を確認した。10時20分だった。昼頃になれば、さすがにこの男も目を覚ますだろう。それまでどこかで時間をつぶすしかない。そう考えて俺がきびすを返し、書庫を出ていこうとしたまさにそのときだった。
「……古野直翔」
「……えっ?」
突然、俺の名前を呼ぶ声がして、あわてて歩を止める。やや低いが、しっかりとした声だった。辺りを見回してみるが、どう考えてもこの部屋のなかには俺とあの男しかいない。ソファーの上で寝息を立てていたあの男。まさかと思って振り返ってみると、相変わらず男はソファーに寝たままだった。
――さっきの声は、この男が……?
どうにも妙な話だったが、部屋のなかに俺とこの男しかいない以上、この男がしゃべったとしか考えられなかった。
恐る恐る「あの……?」と声をかけてみる。すると、何と男は目をつぶったまますらすらと言葉を返してきた。それも、驚くべき内容だった。
「……古野直翔、1年B組の出席番号16番。今年の春に山梨から東京に引っ越してきた。勉強は苦手、スポーツも少なくとも得意とはいえない。現在は東都文学研究会なるグループに所属しているが、特別本が好きだというわけでもなさそうだ。そして今日は、『探偵クラブ』なんてうさんくさい、と心のなかでは思いつつも、研究会の美人の会長さんから、昨日起きた事件の調査を俺に依頼してくるように頼まれたんで仕方なくこの部屋を訪れた――。ざっとこんなところかな、間違いがあれば訂正を」
男がすらすらとしゃべるのを聞きながら、俺は自分の頬が少しピクついているのを感じていた。この男は、なんでこんなに俺のことを知っているんだ? 待て、そもそも何で俺が古野直翔だと知っている? 探偵だからか? それともこいつは俺のストーカーなのか……?
「な、なんで、なんでそんなこと知ってるんだ、お前」
何もかも男に見抜かれ、俺は思わず言葉遣いが乱れたのもかまわず、男を指さしながら辛うじてそう言った。すると男はにやりと笑ったかと思うと、突然目を見開いて体を起こす。そして、眠そうな目でじっと俺の目を見据えてきた。
「さぁて、どうしてでしょう?」
遊ばれている。そんな気がした。男は口の端にうっすらと笑みを浮かべ、挑戦するような目つきで俺を見ている。だいたいこの男はどこまで知っているのだ。いや、そもそもどうして俺が古野直翔だと分かったんだ? 俺とこの男とは面識がないはずなのに……。
「どうして、俺が古野直翔だって分かったんだ、って顔してるね」
心も読まれている?
男はなおもにやにやしながら、俺の様子をうかがっていた。
「簡単なことさ。昨日、東都教育文化センターで事件が起きたことはとっくに俺の耳にも入ってる。若森高の3年生が誰かに頭を殴られたそうだね。凶器はドストエフスキーの『罪と罰』、被害者のそばには『雪国』と『異邦人』が転がっていた。それにしても『罪と罰』で殴るとは、なかなか洒落た犯人じゃないか。そして、この事件の第一発見者が、今ここにいる君というわけだ。なんでも、君は被害者の部活の後輩だったそうだね」
聞いていて俺はだんだん怖くなってきていた。どうしてこの男はここまで何もかも知っているのだろう。そもそも凶器が『罪と罰』だったなんて、俺だって覚えていなかったことなのに。
そんな俺の戸惑いには構うことなく、なおも男はまくし立ててくる。
「被害者は後頭部を強打されていたものの、奇跡的に一命は取り留めた。当初、これは本棚の本を取ろうとして踏み台から足を滑らせたことによる不運な事故かと思われていたようだが、どうやらいくつか不審な点があるようだ。そして、被害者の後輩には、東都高校の生徒である君がいた。そうなれば、君は必ず事故の調査を俺に依頼しにくるに違いない。そう考えただけのことさ」
男の話を聞きながら、俺の心のなかではこの男に対する評価がどんどんと上がっていた。最初はストーカーじみた印象を受けたのだが、どうやら探偵クラブを開くだけあって、探偵としてのスキルは本物のようだ。
「それじゃあ俺のことは? 勉強やスポーツが苦手だとか、本に興味がないだとか……」
「それも簡単なことだ。君はこの夏のあいだに3回も特別学習会に”招待”されている。ってことは、少なくとも勉強がうまくいっているわけじゃないってこと。そして君は部活に入っていない。体格もきわめて平均的で何かスポーツをやっているようには見えない」
男に言われ、俺は何となくお腹をさすってみた。たしかに、バドミントンをやめてからはまともに体を動かす機会がなかった。正直、最近少し太ってきた気もする。
「……じゃあ、俺が本に興味ないってことは? それは、どうして分かったんだ?」
「ふふ。自分の周りを見てみろよ」
また男に言われるがまま、俺は改めて室内を見回してみた。古本やわけの分からない書類がいたるところに積まれている。
「肝心なのは古本さ。そいつらは見たところただの古い本のように思えるが、実はどれもけっこう貴重な本が揃ってるんだ。今じゃめったに手に入らない小説の初版本とか、専門書とかね。もちろん、本に興味のない人からすればただのがらくたにしか見えないかもしれないけど、見る人が見れば、とても価値のあるものだって分かるんだ。そして君は、さっき部屋に入ってきたときから本には全く関心を見せなかった。だから分かったんだよ」
そういうことか。たしかに、どんなに価値のあるものでも、その価値を知らない人が見ればただのがらくたに過ぎないものだ。それにしても、この男の観察力はすごい、と思う。
「で、でもちょっと待て。どうして凶器が『罪と罰』だったなんてことも知ってんだ?」
男は、そんなことはわけもない、といった様子で笑った。
「……まあ、いろいろあって警察関係者にも何人か知り合いがいるんでね。今回捜査を担当したのは奥泉刑事だったろう? 彼は、俺の知り合いの警部の部下なんだ。それなりに優秀な刑事だと思ってたんだけど、今回の軽率な判断はマズかったね。どう見たって、あれは事故じゃない」
そこまで来て、俺はさっきからずっと疑問に思っていたことをぶつけてみた。
「そういえばお前、さっきからずっと事件、事件と言ってたな。なんで事故じゃないってことが分かるんだよ?」
男は、そこで初めて押し黙った。
「……おい」
「……何でもすぐに答えを聞こうとするのはどうかな? 少しは自分で考えた方がいいと思うぜ。それに、この事件はそんなに難しい事件じゃない」
これまで調子よくしゃべってくれたのが嘘のような冷たい口調だった。男は一つあくびをすると、またソファーに仰向けに寝転がり、目を閉じた。
「お、おい」
「悪いが今日はもう疲れた。帰ってくれ」
「へ?」
「……俺はこれからまたひと眠りするんだ」
さっきまで寝ていたばかりなのに、また寝るというのか。
「ちょっと待ってくれよ、頼みがあるんだ。今回の事件の調査を依頼したい」
窮屈なソファーの上で気持ちよさそうに寝ている男に向かって、俺は頭を下げた。しかし、男の反応はにべもなかった。
「悪いが今日のところは帰ってくれ。俺はもうこれ以上動きたくないんだ」
「そ、そんな……」
何とか引き下がろうとしたが、男の意思は固そうだった。沖津先生が「ちょっと癖の強い子」と言っていたのを今さらながらに思い出す。実際には「ちょっと」どころか「かなり」癖の強い男だった。このまま粘って逆に怒らせてしまっては元も子もないだろう。仕方なく、俺は男の名前だけを聞いて退散することにした。
「あ、あの……。名前を教えてくれないか」
男はしばらく迷ったように押し黙っていたが、やがて目をつぶったまま「……出町昇之介だ」と小さな声で答えた。
――出町昇之介。心のどこかにその名前が引っかかっていた。
「……それと、まあ、手ぶらでも帰りづらいだろうから一つだけヒントをあげよう」
少し気が変わったのか、それとも俺の気持ちを少しは慮ってくれたのか、出町昇之介はそんなことを言い出した。俺としては願ってもないチャンスである。黙って頭を下げ、出町の「ヒント」を待った。
「……本棚だ」
「……え?」
「本棚の高さだ。それを見れば、あれが事故じゃないってことは一目瞭然のはずだ」
そう言ったきり出町はもう一言もしゃべらず、またソファーの上で眠りに入っていった。ヒントくらいもう少し奮発してくれてもいいと思うのだが、ここで下手なことを言うわけにはいかない。それに見方を変えれば、ヒントをくれるということは、少なくとも出町は俺たちに協力する気がないわけではないということになる。それが分かっただけでもけっこうな収穫だった。
「わかった。……また来るよ」
俺は出町に一応礼を言って、書庫をあとにした。
◇◇◇
校舎の外に出ると、夏の強い日差しに思わずやられそうになる。やはり、あの書庫のなかは室外よりかなり気温が低かったらしい。単に冷房のおかげというわけではなかったと思う。やけに背筋の寒くなるような感覚を思い出し、それからまた夏の暑さを思って身震いしながらスマホを取り出すと、尾川会長に電話をかけた。
「もしもし」
「もしもし、古野です」
「おお、どうだった? 依頼の方は」
会長の声に若干の期待がこもっているのを感じる。やはり、依頼を断られたと切り出すのは少し気が重かった。
「それがその……、やっぱりダメでした」
ごまかしても仕方がないのでここは正直に言う他なかった。一瞬の沈黙を挟んだ後、聞こえてきた会長の声は意外にも明るいものだった。
「ははは、そんなところだろうと思ったよ」
「えっ?」
「私が聞いたところだと、その探偵クラブの部長さんはかなりの変人らしいじゃないか。だから素直に依頼を受けてもらえるとは私も初めから思ってなかったよ」
会長はそう言って少し笑った。なんだ、そうだったのか。それなら俺もあまり気負うことはなかったというものである。何だか少し拍子抜けしたような気分だった。
「会長、それで芳田さんの方は……」
「ああ、医者の話では傷の方はもう心配ないそうだ。あとは意識が戻るのを待つしかないらしい」
「そうですか……」
ひとまず芳田さんが大事には至らなくて本当に良かったと思う。彼の意識さえ戻れば、そもそもあれは事故だったのか、事故でないとすれば誰が彼を殴ったのか、すべてはっきりするはずだ。
「あ、それで会長!」
「うん? どうした」
「実は探偵クラブの部長……出町という奴なんですが、彼からちょっとヒントをもらいまして」
「ヒント?」
「はい。どうやらそいつは今回の一件を事故じゃないと思ってるらしくて」
会長が息をのむのが電話越しに聞こえた気がした。
「……そうなのか」
「はい。それで会長、できれば今からもう一度現場に行ってみたいと思うんですけど……」
「現場に? ……なんだ、一人じゃ不安ってことかい?」
「え? え、ええ、まあ……」
会長が一つため息をつくのが聞こえる。
「わかった。……今からそっちに行こう」
「お待ちしてます」
電話を切ると、俺はもう一度事件のこと、そして出町に言われたことを思い出しながら東都教育文化センターを目指して歩き始めた。じりじりと肌を焼く真夏の日差しがやけに痛かった。