非常事態
物語を聴き終えた毘売は、暫し口を開く事が出来ず、呆然とした表情をしていた。
紅葉は第六天魔王の申し子として生まれたのだから、幸せな人生を送る事は出来ないだろうと毘売は序盤の内に感付いていたが、それでもやはり、紅葉の悲哀に満ちた人生に同情を禁じ得ない。
「なんだか」
やっとの思いで口を開いたが、続く言葉が見つからず、一拍程の間が空いてしまう。
「とても悲しい物語ですね」
「うん、でもまあ、物語は大抵こんな悲劇で終わる事が多いからのぉ」
あっけらかんとしている松を見て毘売は、少しは平静を取り戻し、ふと疑問に思った事を口にした。
「それで、経若丸はどうなったのでしょうか?」
「さあ、分からぬ。じゃが、紅葉の息子だ逃亡したとしても子供だから直ぐに捕まるだろう」
「松さん、貴重な話をしてくれて有難う御座います」
「ふふふ。これくらい大した事じゃないよ。梅や、ご飯はまだかの?」
「ちょっと待ってて、あともう少しで出来るから」
農作業を終えて家に帰ってきた梅は、夕飯である稗の雑炊を作っており、あと数分もしないうちに出来終わりそうである。
家主が家事をしているのに対して、自分は泊まらせてもらっている身分なのに、何も手伝ってないことを今更ながら恥じた毘売は立ち上がって梅に近寄った。
「あの、梅さん。手伝いま」
言葉を言い切る前に何処からか慌忙とした声が響き渡った。
「大変だぁぁ!!」
三人は顔を見合わせ、眉を顰める。
「何事かしら?」
「ひとまず、行ってみましょう!」
脱兎の如く外に飛び出した毘売は、村の中心部に大勢の人が大慌てで何か一生懸命に話しているのが目に入る。
ひとまず、人集りが出来たその場所に移動して、状況を把握する事にした毘売と梅は駆け出した。
一分もしないうちに目的地に着いたのは良いが、何やら混乱した様子で話し込んでいる彼等に事情を聞くのは、時間が掛かりそうだ、と梅は思慮する。
周囲を見渡すと、少し離れた場所で二人の青年が佇んでおり、とりあえず、彼等に事情を聞こうと二人は歩み寄った。
「どうかしたんですか?」
「それが古部衛と助五郎が山に行ったきり帰ってこないらしい!!」
「本当ですか?」
「ああ、本当」
「ええい、静まれ静まれ!もうじき日が暮れる。灯もない夜の山は危険過ぎるし、今の山には何か良からぬ者が住み着いているやもしれん。此処は手分けをして二人を捜さそうではないか!」
青年の声を遮る大きな声が周囲に響く。
声の主の方へ目を向けると、壮年の男性が慌てる村人達に呼び掛けていた。
「さあ、二人を探しに田島山へ登るぞ!」
そうして、壮年の男性は30人ほどの村人達を引き連れて、行方不明者がいるであろう田島山へ足を運ぶ。
「梅さん、私、行ってきます!」
「待って、毘売ちゃん!私も行くわ!」
陽が沈むまで後数十分後といったところか。
三十人程の村人と毘売が大声を出して山を散策するが、一向に見つからない。
限られた時間の中で二人を見つけ出すことは、人間の力なら不可能だが、毘売は天上の世に生まれた天人である。
微かに感じる人の匂いや気配を探って、毘売は山奥へ足を進め、彼女に続くように村人達が周囲に気を配りながら山道を歩く。
「古部衛さん〜!助五郎さん〜!」
毘売の声に何かが反応したらしく、木々が喧騒とした音を立て、鳥達が一斉に羽ばたき、地が揺れる。
「え?」
物音がした方に目を向けると、其処にいたのは巨躯の赤鬼。
鋭く伸びた爪牙と筋骨隆々とした肉体は人間とかけ離れた容姿をしており、憎しみと暴虐に満ちた瞳が村人達を視界に捉えていた。
赤鬼ら鋭利で大きな牙がある大きな口を開けて、大地を揺るがす暴虐なる咆哮が毘売達を襲う。
「いっ!?」
轟音の咆哮に居合わせた者達は思わず耳を塞ぎ、その場を凌いだ。
毘売もその中の一人である。
数十秒もしないうちに咆哮は止むが、鬼を目の当たりにした村人達は恐怖と驚愕で大半が腰を抜かしてしまい、逃げようにも体が思うように動かず、その場にへたり込んでいる。
だが、辛うじて体が動く者は悲鳴を上げて鬼から離れようと我先にと走り出した。
「ひぃ!?あ、赤鬼だぁぁ!?」
「逃げろ逃げろ!!」
「うひゃああぁ!?」
一目散に逃げようとする若者達に狙いをつけた赤鬼は、その逞しく鍛えられた四肢に力を入れるが、毘売は即座に赤鬼の瞳を睥睨した。
「『動かないで!』」
「グオオゥ!?」
直後、鬼はメドゥーサに睨まれて石化したかのように固まってしまった。
この摩訶不思議な力は、天上界で毘売が月代に使用の許可を求めた『術』と呼ばれたもので、その力は自分の眼を直視した対象に命令を下すと、対象は命令通りに行動する、と言う『絶対服従の能力』である。
だが、数分も経てば効果は薄れてしまい、同じ対象に使えば使うほど効果が無くなってしまう。
石化したように固まった鬼から目を離した毘売は、後ろを振り向き、驚愕した顔で自分を見つめている村人達に言い放つ。
「『皆さん、早く逃げて下さい!』」
「えっ!?か、体が勝手に!?」
すると、先程まで腰を抜かし、へたり込んでいた村人達は驚きの声を上げて、立ち上がり、毘売に言われるがまま下山してゆく。
想像上の存在だと思っていた恐ろしい鬼が田島山に住み着き、自分の意思とは関係なく体が勝手に動かされる。
そんな現実とは思えない状況に村人達は混乱に陥り、毘売の心配など頭の片隅にも置いてなかったが、梅は遠ざかる毘売を見て涙交じりに叫んだ。
「千夜ちゃん!待って!」
「私は大丈夫だから、早く逃げて下さい!」
「千夜ちゃん!!!」
毘売は泣き叫ぶ梅の方に目もくれず、未だ四肢に力を入れたまま静止する鬼に目を遣る。
恐ろしい形相で毘売を睨みつけ、そこいらの獣とは比べ物にならない唸り声は、全てのモノに憎悪の念を抱いているよう。
「さて」
突如として毘売の躰は、人間が直視出来ない程の光を発し輝き出すが、数秒もしないうちに光は徐々に弱まる。
すると、先程まで佇んでいた毘売はいなかった。
「殺生は好みませんが」
鈴のように凛として、聞いているだけで癒される可愛らしい声は、大地からではなく空から聞こえた。
毘売は優雅で妖艶な天女の羽衣を身に纏い、宙を浮きながらも赤鬼を冷酷な瞳で俯瞰する。
「このまま貴方を野放しのまま放置しておくと、何時かはあの村の方達を殺すでしょうね。ですから、此処で貴方を見逃す訳にはいきません。悲しい事ですが」
毘売の体に光明が溢れ出し、絶対的強者である筈の赤鬼が怯んだような声を上げた。
「『暴虐なる赤き鬼よ、自らその身を果てなさい!』」
「グオオオォ…」
命令に抗えない鬼は、自らその鋭く尖った爪で喉を何度も何度も突き刺し、夥しい量の血を噴出させ、遂には力尽きて血の池が出来た地面に倒れた。
土煙を上げ、地響きが鳴る。
こうして、巨躯の赤鬼は呆気なく毘売に退治されたのであった。