接触
地上界の風景を楽しみながら目的地まで歩いていた毘売は、燦燦とした美しい光を世を照らす太陽に目を奪われ、歩く事を忘れて何時間も飽きずに眺めていた。
「はっ!いけない。早くこの山を降りなければ!」
我に返った毘売は、急いで山道を駆け抜ける。
結局、山を越える事が出来たのは、その日の夕刻である。
山を越えた先には、広大な田圃と小さな村があった。
彼女は生涯初めて見る光景に目を輝かせて畦道を歩いていると、田植えをしている一人の女性が目に入る。
近づくと女性も毘売の存在に気がついたらしく、軽く会釈をされ、毘売も会釈をし返した。
「すいません、少しお尋ねしたい事があるのですが…宜しいですか?」
「あらあら、可愛らしい旅人ですね。それで、聞きたい事とは?」
「この辺りで宿屋はありますか?」
「残念だけだこの辺りに宿屋はないわ。見ての通り、此処は田圃以外何もない田舎よ。此処で宿を借りる物好きなんていやしないから」
「そうですか」
「良かったら、今日、私の家に泊まる?」
「いいのですか!?」
「良いよ良いよ。困った時は助け合わなくちゃね。私の名前は梅。貴方の名前は?」
「あ、名も名乗らず失礼しました。私の名前は千夜です。お梅さん、本当に有難う御座います!それで、料金は幾らになりますか?」
「お金は要らないよ。但し、今日一日だけ私のお婆ちゃんの話相手になってくれるかい?最近、私が構ってやれないから退屈そうでね」
「お安い御用です!それで、お梅さんのお婆さんは何処に?」
「ああ、彼処で黄昏ている人が私のお婆ちゃんなの」
梅が指差す方向に目を向けると、一人の老婆が川辺に座り、流れる雲を眺めているのが観える。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「はい!」
田圃から出た梅は泥だらけの脚を払うことなく、河原に向かうらしい。
歩き出した二人に数秒の沈黙が流れるが、梅が思い出したかのように気になったことを毘売に問いかけた。
「それで、どうして千夜ちゃんは一人で旅を?」
当然の疑問と言える質問に毘売は、地上界に来る前から考えていた返答を口にする。
「実は奉公先に向かう途中なんです」
「へえ、奉公先は何処に?」
毘売は相手が不審に思わないように最善の注意を払いながら、淡々と梅の質問に答えた。
すると、井戸端会議をしている数人の村人と出くわし、毘売は思わず会釈をする。
数人の村人も毘売と梅に気づいたらしく、会話を中止して、二人の方に話しかけた。
「あら、梅さん、こんにちは。その子は?」
「この子は千夜ちゃん。奉公先に向かう途中で、この村に来たらしいわ」
「こんにちは、千夜と申します」
お辞儀をする毘売を見て、村人達は顔を綻ばせた。
容姿が幼く、可愛らしい毘売が実直にお辞儀をする姿が子供が背伸びしているように見えたのだ。
「あらあら、御丁寧に有難うね。可愛らしい子じゃない」
「あの、鬼がどうとか聞こえたのですが」
毘売が躊躇いがちに質問すると、村人達は少し恥ずかしそうに頰を掻いた。
「ああ、聞こえていたのかい?」
「ええ」
「それがね、千夜ちゃん。其処に見える山があるだろう」
村人が指差す方向に目を向けると、自分が来た山ではない立派な大きな山を指していた。
「ええ、見えますね」
「其処の山に鬼が住み着いた、って銀次郎さんが言ってるの。ああ、銀次郎さんって言う人は、この村の村長の息子なんだけどね」
「え?田島山に鬼が住み着いた?」
どうやら、初耳だったらしい梅は驚愕した表情を見せて、鸚鵡返しをする。
「そうなのよ、銀次郎さんが山で鬼を目撃した!って言ってたの。銀次郎さんの性格上、そんな嘘を付く訳ないから村の皆も不思議がってね。それにこの前、山で行方不明になった人が居たじゃない?」
「確か、太兵衛さん。でしたっけ?」
「そうそう、銀次郎さんが太兵衛は鬼に喰われたとか何とか村長に言ってたの。だから、あまり田島山には近づかない方が良いかもね。まあ、本当に鬼になんて空想上の生物だから、存在していると思えないけど。多分、盗賊とかが拠点にしているかもね」
「あ、でも千夜ちゃん。貴方、田島山の向こうに行くんだよね?」
「あっ、はい。あの山を越えなければ、奉公先には行けませんので」
「千夜ちゃんみたいな可愛い子が一人で今の田島山を登るには危険ね」
心の底から毘売を心配する瞳をする村人達を見て毘売は、本当は奉公先に向かうなどの話は嘘で、彼等を騙していることに心を痛めつつ、遠慮がちに頷いた。
「そうですね」
暫し、考え込んだ様子を見せる毘売。
「どうしましょうか」
この問いに答えられた者は居なく、数秒間ほど沈黙が流れた。