第七話 宿敵
御本城様=北条左京大夫氏綱 早雲の嫡男
時子=近衛時子 氏綱の妻
太閤様=近衛前関白尚通 時子と慶寿院の父
三好筑前守長慶 細川家家臣
細川右京大夫晴元 細川京兆家当主
御台所=慶寿院 近衛尚通の次女
御嫡男=足利菊幢丸
青鑑=風魔小太郎 風魔衆頭領
里見刑部少輔義堯 里見家当主
早雲公=伊勢左京大夫氏盛
憲政=上杉兵部少輔憲政 山内上杉家当主
太田左衛門尉景康 太田備中守の長男
横井三郎時堯 横井出羽守の次男
笠原能登守康勝 笠原越前守の嫡男
間宮次郎右衛門信頼 間宮豊前守の弟
天文八年(1540年) 三月 相模国足柄下郡小田原城 当ノ間
北条左京大夫氏綱
「時子、まずは無事の帰国何よりじゃ」
「殿、態々(わざわざ)のお出迎え忝のう存じます」
三月に入ってすぐ、駿府での滞在も終えた時子が小田原へ帰った。一年振りに話す妻を見て出発前の事を思い出す。
西堂丸の取り成しで時子との蟠りがなくなった後。なにか望みはあるかと聞くと〝里帰りがしたい〟と言われた時は驚いたものだが。時子が言うには、急に決まった再婚だったことで家族へ碌に挨拶も出来なかったのだと。それが長年の心残りだったと。
「気にするな。今宵は宴の席を用意しておる。楽しむと良い」
「…はい。ありがとう存じます」
満足気に頷くところを見ると、里帰りは上手くいったようだ。
「して、久々の京は如何であったのだ?」
「はい。皆変わりなく父も壮健に御座いました」
「ほう。太閤様もお元気であったか」
時子の父・近衛前関白尚通様は公家の中でも頂点に立つ五摂家の一つ近衛家の当主だった御方だ。そして関白にまで登り詰め一度は栄華を極めたお方。今は出家して大証と号されていると聞く。十六年も前に御嫡男の稙家様に家督を譲られていたはずだが。…そういえば、稙家様は三年も前に太政大臣になられたと聞いた。今川との戦で駿河より西の情報があまり入ってこなかったことですっかり祝う事が出来なかった。今からでも送った方が良いだろうか。
「洛中の様子は手紙の通りか?」
「………はい。……管領細川家の内紛が酷く、京は荒んでおりました」
「三好…だったか?」
三好筑前守長慶。時子の護衛に付けていた風魔の者からもその名は聞いている。細川家の一家臣でありながら、当主・細川右京大夫晴元も無視出来ない程に力を増していると。
「公方様もさぞや御怒りであっただろう」
「…妹と御嫡男様も御所から避難しておりました」
「……そこまでとは」
時子の妹というのは公方様の御正室つまりは御台所様である。妹と言うのは何の比喩でもなく時子と御台所様は実の姉妹で、二人とも尚通様のお子である。詰まる所、恐れ多くも室町将軍家は我が北条家とは縁戚関係になるのだが、この関東ではその御威光もあまり意味を成さない。関東の国人衆は独立色が強く、長年続いた上方との戦で将軍家の縁戚と言っても敵愾心を煽るばかりで役には立たぬだ。
それにしても、御台所様と御嫡男が避難する程の事態とは。京の治安は相当悪いと見える。公方様には兵がおらぬからな。御所に攻め込まれても反撃は愚か、立ち塞ぐ事も難しいだろう。
「今一度言うが、よく無事に帰って来てくれた」
「………殿」
少し震えていたのが見えた。時子も多少なりと怖い思いをしたに違いない。温もりを感じるように優しく肩を抱き寄せた。女子を安心させるのはこれが一番だと西堂丸が言っていた。…何処で覚えてきたんだ?
「しかし、これから畿内は荒れよう」
三好の兵を京より引かえさせる為に、若狭守護・武田家、近江守護・六角家、紀伊守護・畠山家が兵を出したと聞く。三方から敵が押し寄せてくるのだ、流石の三好も兵を下げるとは思うが。
「……殿。…畿内なのですが昨年は戦の他にも水害が酷く」
「その事についてなのだが……西堂丸がな、関東にも影響が出るだろうと」
「まぁ。西堂丸がですか?」
「うむ。…それに備えて色々と準備をして欲しいと」
「あの子らしいですね。……そう言えば、その西堂丸は何処ですか?」
時子は儂と同じで西堂丸をいたく可愛がっておるからな、早く会いたいのだろう。
「実はな、先月の始めに雪が五人目を身籠ってな。新九郎と雪殿、西堂丸の三人で六所神社に安産祈願をしに行っておる」
夫婦となって六年の間に五人も子を儲けるとは。これで北条家での雪の立場は確固たるものとなった。…西堂丸だけでも十分な程ではあるが。西堂丸も初めての外出に緊張していたが、それ以上に新しく出来た弟妹に喜んでおったわ。
「まぁ!五人目ですか。雪殿は恵まれておりますね」
喜んでくれてはおるが、それでもどこか暗い。…時子は前夫とも儂との間にも子が居らぬ。気にするなとは言っているが、時折考えてしまうようだ。
「義御母上様!只今戻りました!」
何と声を掛けたものかと悩んでいると、庭の方から西堂丸の声が聞こえてきた。時子にも教えようと座っていた方を見るが既におらなんだ。
「西堂丸!久しぶりですね!」
既に廊下で腰を下ろして西堂丸を迎えていた。
「はい!義御祖母様も元気そうで何よりです!」
先程まで元気がなかったのだがな。西堂丸にはつくづく助けられるな。
天文九年(1540年) 四月 相模国足柄下郡小田原城 当ノ間
風魔青鑑
「御本城様、青鑑にございます」
皆が寝静まった子の刻にいつもの様に御本城様の元へ参上した。
「うむ。お主が来たという事は上杉か?」
「それもございますが、里見の方でも動きがありました」
いつも報告は倅や一門に頼んでいるが、他家に大きな動きがあった際は私が報告する事になっている。
「…そうか。では、その里見についてから聞かせてもらおう」
「はっ。先の上総遠征の後、里見が治める安房国の国人や上総国南東部の国人に調略を掛けておりましたが、思いの外良い返事を得られません」
「うむ。…やはり難しかったか。里見刑部少輔義堯、侮れんな」
先の国府台では敗北した義堯だが、武勇、名声、治政どれも申し分ない。国人達を引き込み安房を手に入れるには、更なる恩賞を約束し調略を掛けるか、武を持って攻め落とすしかないだろう。
「更に真里谷家に間者を放ち内紛を起こさせようとしているようです」
「ほう。…真里谷にはまだお家騒動の種が残っておったか」
「信隆の従兄弟にあたる望陀郡笹子城主・真里谷三郎信茂にございます」
「…なるほどな。…痛いところを突いてきよるわ」
北条家も真里谷家の内紛を利用して従属させる事が出来たが、今度は里見家がそれを狙っている。真里谷八郎太郎信隆、弟の家督争いが終わったと思えば今度は従兄弟で争う事になるとは。とことん運のない男よ。
「………その策、直ぐには成らんだろう」
「はっ。真里谷城に近い小弓城、庁南城には北条家の御一門が在城されております。北条家に弓引く時は我らの援軍が来ないと判断した時でしょう」
峰上城程の険しい山城であれば里見の全軍に包囲されようとも、北条の援軍が到着するまでは耐える事は難しくないだろう。
「信隆にくれぐれも自重するように伝えろ。真里谷の家臣共にもな」
御本城様の声色に怒気は感じない。長い間仕えているから分かるが、真里谷家が暴発しても構わないと考えておられるのだろう。今の北条にはそれ程の余裕があるのだから。
「はっ。…信茂の方には何も言わなくて宜しいのでしょうか?」
「うむ。…笹子城、先の上総遠征では最後まで抵抗したと聞く。信隆の顔を立てて一度は許したが、二度目はない」
今度こそは確かな怒気を感じた。
「それで、上杉はどうなのだ?」
「扇ヶ谷上杉、どうやら山内上杉と停戦したようにございます」
「それは、……面白くないな」
御本城様の声が少し低くなった。両上杉家は北条家にとって天敵とも呼べる存在だ。古くから同族同士で争っていた隙に先代の早雲公が伊豆、相模を簒奪していった。いくら衰退したとはいえ、その両家が手を組めば今なお北条家を上回る国力と兵力になる。
「はっ。どうやらその後も使者が行き来しているようで」
「……………」
返事は返って来なかった。いつもの事だが御本城様は考え込むと静かになられる。考えが纏まるまで私も廊下で息を顰めた。
「青鑑、上杉が手を組んだとして北条を攻めてくると思うか?」
「思いませぬ。好戦的な扇ヶ谷ならば攻めてくるかも知れませぬが、兵が足りません。…反対に、兵ならば三万を揃えられる山内は、戦下手で有名な憲政が当主である間は自分達から戦は仕掛けないかと」
保守的な同盟。側から見ればそんな所だろう。
「そうであろうな。……しかし、これは困ったな」
御本城様がお悩みになるのも無理はない。もし両上杉の同盟が成るとしよう。北条が扇ヶ谷上杉家を攻めれば扇ヶ谷上杉は残った松山城と岩付城のニ城を全力で守るだろう。三日も守り切れば、山内上杉家の三万の援軍が駆けつける。今までのようには行かぬという事だ。
「………そうだな、…西堂丸にでも聞いてみるか」
「西堂丸様にございますか?」
「あぁ。儂の孫は面白い事を考えつくからな。此度も皆を驚かせてくれようぞ」
そう言って静かに笑う御本城様はどこか楽しそうに見えた。他に報告はないと伝えると、労いの言葉を頂き部屋を後にした。
西堂丸様。御本城様に面白いと言わせる程の麒麟児。私が忍びの仕事が出来る間に仕えてみたいものだ。
天文九年(1540年) 五月 相模国足柄下郡小田原城 会ノ間
太田左衛門尉景康
胃が痛く感じる。元服を済ませて直ぐに御本城様から呼び出しがあった。御本城様は系図の上では私の義祖父ではあるが、父上にはくれぐれも無礼の無いようにと言われている。勿論そのつもりだ。呼び出しが掛かった翌日の朝には小田原城に参上した。城に入ると直ぐに大きな部屋へと案内された。障子を開けて部屋に入ると、そこには私の他に三人の若武者が座って待っていた。顔を見ても見覚えもなく、互いに名乗る事も無かった。ただ、他の三人も私と同様に緊張している事だけは分かった。
女中に促されて一番右端に着席した。私から見て前方には上座が設けられており、御本城様が座られるのだと推測できる。他にも二つ座布団が用意されているが、片方はやたら小さいもので大人が座るものとは到底思えない。女中が片付けるのを忘れたのだろうか。
右の後方は廊下になっていて、私が入ってきたのは後ろの方だ。左を見ると先ほどの若い男が三人。手前から細長い顔をしているがやたら姿勢のいい男。いかにも武家の子息らしい筋骨隆々な男。やたら肌が黒く日焼けしている男。…うん、さっぱり分からん。
「皆、揃っておるか?」
もはや癖になってしまった周りの観察に熱中していると、右の障子が開き二人の男が部屋に入ってきた。
「「ははぁ!」」
即座に頭を下げる。声の主にして最初に入ってこられたのが御本城様だった。もう一人は頭を下げるまでの一瞬しか見えなかったが、馬周衆筆頭の孫次郎様だろう。この方も一応は義叔父になるのだが、話したことは数える程しかない。
「各々方、顔を上げられよ」
今度は孫次郎様の声だった。無礼が無いようにゆっくりと顔を上げる。ちらりと見えたがやはり隣の男は動作の一つ一つが丁寧だ。もしかしたら、武家故実に精通した者なのかもしれない。
「皆、もうしばしそのままで待て。もう一人来るゆえな」
もう一人とはいったい誰か。…普通に考えれば新九郎様や駿河守様だと思うが。
「御祖父様、西堂丸にございます」
少しばかり経つと、溌溂とした男児が部屋に入ってきた。幼児とは思えない程に、随分と立派な服を着ている。あの座布団はこの幼子のものか。
「うむ。よく来た、西堂丸」
上座に座る御本城様を御祖父様と呼び、御本城様がそれに笑顔で応えたという事は、この方が若殿の御嫡男なのだろう。道理で着る服も立派な訳だ。御本城様に促されて私たちの前に座ると、側に控えていた孫次郎様が今回呼び出された理由を説明し始めた。
「此度、四人を呼び出しのは此方におられる御本城様の御嫡孫であられる西堂丸の補佐役に選ばれたからにございます」
孫次郎様が口にしたのは予想だにしなかった事だった。まさか、私が選ばれるは…。
「西堂丸、北条家の嫡男には傅役がつかないのは知っているな」
「はい」
「うむ。その代わりではあるが、北条家の嫡男は七歳を迎えると四人の補佐役が就く」
次期当主の補佐役。話に聞いた事がある。幼少期より仕えるため、家督を継いだ後は最も信頼される側近になると。
「お主も城から出るようになったからな。少し早いがお主ならば問題なかろう」
「……はい」
「どうした?緊張しておるのか?」
どうやら西堂丸様と緊張されているようだ。無理もない。御本城様の御嫡孫とは言え、まだ幼児なのだから。
「……いえ、いくら嫡孫だと言っても私のような幼児に仕える事に不満がないのかと思いまして」
前言撤回だな。この方はただの幼児などでは無い。その小さな瞳で心を見透かされたのかと思ってしもうた。
「……その心配はたった今杞憂となったようだぞ」
「それならば問題ありません」
恐ろしい方だ。元服して一人前になったつもりだったが、こうも早く慢心だったと気付かされるとは。
「お前達も西堂丸に名乗ると良い」
御本城様に言われ、四人で顔を見合わせると、西堂丸様に近い私からとなった。
「武蔵国江戸城主・太田備中守資高が長男・太田源七郎景康にございます」
「相模国河村城主・横井出羽守が次男・横井三郎時堯にございます」
「相模国三崎城主・笠原越前守信為が嫡男・笠原能登守康勝にございます」
「武蔵国笹下城主・間宮豊前守が弟・間宮次郎右衛門信頼にございます」
一通りの挨拶が終わると西堂丸様は皆の顔をゆっくりと見た。
「皆、宜しく頼むぞ!」
子供らしく元気に口にしたその言葉は御本城様、宛らの覇気を感じた。
雪の出産ペースには突っ込まないで下さい。
到底不可能だと理解はしています。
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