プロローグ
深い後悔と混濁する意識。その中を、俺はただ無心で漂うことしかできなかったしかなかった。
自分が誰かも分からず、どうしてこんなにも深い後悔を背負っているのかもわからない。
その曖昧さが酷く不快で、でもその理由を考えるのも億劫で、俺はただただ闇の中に身を沈めていた。
だが突然、そんな俺の腕を誰かが乱暴に掴んだ。
五月蠅い触るなと、その誰かを追い払おうとした。しかし一方で俺を名を呼ぶ声は酷く心地よくて、俺は無意識に耳を澄ます。
前にもこんな事があったと、「前」を思い出せないのに俺はふと思う。
「先生起きて下さい! 先生!」
激しくゆすられて、大声で怒鳴られて、そこで俺は意識を覚醒させた。
深い闇の奥にいると思ったのに、そこは思いの外明るかった。
ぼんやりと霞む意識をなんとか覚醒させつつ顔を上げれば、そこには鬼のような形相がある。
ここは何処で、目の前の少女は誰だと考えてしまったのは、長い夢を見ていたからだろう。
「酷いですよ真田先生! 今日はデートの約束なのに!」
「してねぇだろそんなこと」
考えるよりも先に出たツッコミに、俺はようやくここが人気のない教室であったことに気付く。
そう言えば今は補習中だったなとぼんやり思い出し、それから妙にはっきりしない頭を軽く振った。
「うなされてましたけど大丈夫ですか?」
「良く覚えてねぇけど、なんか凄く胸くその悪い夢を見た気がする」
「悪夢ですか?」
と言うより酷い後悔の夢だった。
けれど思い出そうとしても上手くいかない。ただただ胸を締め付けるほどの後悔がこみ上げてくるばかりで、夢の内容は何一つ浮かんでこなかった。
「先生、なんか変ですよ?」
「少し疲れてるのかもしれない」
「じゃあほら、千佳ちゃんが膝枕してあげます」
「いらん」
即答したのに、千佳が食い下がる気配はなかった。
それを忌々しく思いながら、俺は彼女の前のプリントを叩く。
「俺を気づかう思いがあるなら、これをさっさと終わらせて家に帰してくれ」
「ちょっと、これが終わったらコンビニデートの約束ですよ!」
アイス買ってくれるって約束したじゃないですかという千佳に、俺は首を捻る。
「覚えてねぇな」
「酷いです! それだけを楽しみにずっと頑張ってたのに」
酷いと罵られたとき、またもや得体の知れない胸くその悪さが胸を突く。
一体自分はどうしてしまったのかと不安に思っていると、唐突に千佳が俺の髪に触れた。
驚きのあまり振り払うことも忘れていると、まるで子供をあやすように千佳が俺の頭を撫でる。
「…でも今日は我慢します。確かに先生具合悪そうだし」
千佳の細い指が髪をすくたび、俺はどうしようもなく安堵していた。けれどその感情は決して抱いて良い物ではない。むしろ触れてもならない物だ。
「やめろっての」
「いいじゃないですか、奥さんなんだから」
「奥さんじゃねぇって!」
「そういう怒った顔も素敵です」
「俺が言うのもアレだが、お前本当に男を見る目ねぇな」
「先生はいい男ですよ」
「まあ見た目が良いのは自負しているが、正直性格はロクでもないとおもうぞ」
間違いなく結婚しても幸せになれないタイプだぞと念を押したのに、千佳は何故か楽しそうに笑う。
「大丈夫です、先生は絶対私を幸せにします」
どう返すべきかと悩んでいる俺などお構いなしに、彼女は勝手に言葉を繋いでいく。
「それに私、こうして先生と一緒にいられるだけで凄く幸せなんです。叱られてるだけではぁはぁしちゃうんです。殴られるのも快感だし、多分無視されてもそれはそれでエクスタシーを感じられると思うんです!」
それはもう病気だと言いたかったが、一方で何故かそんな千佳をみていると胸のつかえが取れる気もした。
あまりの変態を前にすると色々なことがどうでも良くなるのかもしれない。
「だから先生が不安に思うことは何もないんです。ってか自覚なくても先生は今も昔も私にしっかり優しかったんです。だからちゃんと私を幸せに出来ると思うんです」
「する予定はねぇぞ」
「でも私には幸せになる予定があります」
だからと更に胸を張り、千佳は俺に微笑んだ。
「先生、結婚したいです」
むしろ今すぐすべきだと思います!
そう主張する千佳に俺は頭を抱える一方、まっすぐな好意を心地よく思っている自分に気付く。
馬鹿言うなと突っぱねたかったが、ちゃんと否定に聞こえる自身がなかったので俺は目を伏せたまま押し黙った。
とりあえず足蹴りにでもして距離をとろう、このまま彼女と一緒にいたら絶対に越えてはいけない何かを越えてしまう気がする。
少々乱暴な冷静さを取り戻して、そして俺は彼女と向き合った。
357回目のプロポーズ【END】
※7/10誤字修正しました(ご指摘ありがとうございました)