チンポジ博士から読者へ
チンポジ哲学は、布教するものではない。
他人を論破する道具ではない。
他人を黙らせる道具でもない。
正義の代わりに振り回す思想でもない。
これは、本人にしかわからない収まりがある、というところから始まる。
他人の内側は、完全には見えない。
本人には切実でも、外からはわからないことがある。
だから、否定しない。
だから、押し付けない。
チンポジ哲学の目的は、他人を裁くことではない。
むしろ逆だ。
自分が他人を裁ちそうになった時に、一度止まるためのものだ。
自分の正しさ。
自分の普通。
自分の幸福。
自分の愛。
自分の正義。
自分の信仰。
自分のベスポジ。
それを、他人にも履かせようとしていないか。
そこを確認するためのブレーキである。
また、チンポジ哲学は、社会問題を切り分ける鍵にもなる。
その問題は、本当に社会全体で扱うべき問題なのか。
本人の内側の問題なのか。
外から観測できる行動の問題なのか。
共有ルールの問題なのか。
制度化できる問題なのか。
それとも、本人にしかわからない収まりを、社会という大きな言葉に預けているだけなのか。
ここを分ける。
不快を感じること自体は、本人の内側にある。
暴力や嫌がらせは、外部行動である。
外部行動はルールで扱える。
しかし、他人の内心や価値観そのものを変えろと言い始めると危ない。
社会問題という言葉は大きい。
大きすぎる言葉は、責任を食べる。
だから、まず切り分ける。
誰の問題か。
何を変えるのか。
誰が実行するのか。
どこまでやれば終わるのか。
測定できるのか。
費用は誰が負担するのか。
内心に踏み込んでいないか。
チンポジ哲学は、社会問題を解決する魔法ではない。
だが、問題を切り分けるデバッグ道具にはなる。
ただし、チンポジ哲学にも危険はある。
言葉が強い。
比喩が強い。
わかりやすい。
笑える。
刺さる。
そして、振り回しやすい。
「それはお前のベスポジの押し付けだ」
この言葉は便利だ。
便利すぎる。
この言葉で他人を黙らせ始めた時、君はすでにチンポジ哲学から外れている。
チンポジ哲学を、他人に履かせてはならない。
チンポジ哲学は、信仰ではない。
正義ではない。
答えでもない。
警報である。
ブレーキである。
確認手順である。
他人の不可侵な内側を、少しだけ守るためのもの。
そして、自分が他人を侵そうとする時に、踏みとどまるための理性である。
最後に一つ。
チンポジ哲学は、入力欄に残すな。
思想としては平和でも、予測変換としては危険である。




