第12話 越境、そしてはじめての渡江へ
親父の勢力が及ぼす影響は、俺の想像以上だった。
一日目から七日目までは、一族が管理する塢壁で宿を取ることができた。
八日目から十五日目までは、支配地域ではないものの、どうやら親父と繋がりがあるらしく――
斥候が先に「龍健の二若君が通過する」と門を叩いて知らせると、どの塢壁でも食事と寝床が用意された。
屯長に理由を聞くと、苦笑しながら答えた。
「二若様を通して恩を売りたい、という者もおりますし……まあ、敵に回したくないというのが本音でしょう。
ここで二若様を雑に扱い、龍家の名に泥を塗れば、龍健様が攻め入る口実ができてしまいますから。」
なるほど……相手にも相手の打算があるというわけか。
「ならば遠慮なく、お言葉に甘えよう。」
そう言いながらも、胸の奥に妙なざらつきが残った。
――これが“権力”というものか。
地方勢力にすぎない親父ですら、この影響力。
もし、もっと強大な勢力が、もっと大きな権力を持つ者が、その振りかざし方を誤ったなら――
世界が滅ぶというのも、あながち誇張ではないのかもしれない。
そんなことを考えながら進んでいく。
十六日目から十九日目の宿は、亘江と呼ばれる大きな川が近いこともあり、官設の宿があった。
百人規模で泊まるには、役人専用の部屋を使わせてもらう必要があったのだが……
屯長いわく、通行手形と十五日目に泊まった勢力の口利き、そして袖の下――つまり賄賂で何とかなるとのことだった。
現代人の感覚からすると嫌悪感がすごいし、五章の法章を学んでいる阿刀としても度し難い行為ではあった。
だが、俺の正義感で不要な野営を強いることはできない。
それに、ここでお上に逆らってお尋ね者にでもなったら、穆山どころではなくなってしまうし、親父にも迷惑がかかる。
はぁ……ゲームやアニメなら、
「俺に賄賂を贈れというのか! 無礼者!」
(ザシュッ!)
「申し訳ありませんでした! 至急部屋を用意します!」
なんて展開になるんだろうけど……
ん? よく考えたら、それも普通に犯罪だよな?
……まあ、金で解決できるなら穏便に済ませよう。
そうだ、チップでも渡したと思えばいい。
はぁ……この行いを阿京に言ったら、どんな顔をするだろう。
嫌われないといいけど……。
そして十九日目の明け方。
あと一日で亘江に到着するところまで来た。
ここまでで距離にして六百〜七百kmほどだろうか。
正直、日数から計算してみたが……よく分からない。
屯長から、亘江を渡航するための手順について説明を受けた。
「ここから先は、完全に明公(この地域の豪族)の影響が及ぶ場所となります。
渡航には、この一帯を治める明公へのご挨拶が必要になります。」
「まずは斥候と副官が、これより明公にご挨拶に参ります。
……事前に二若君の明公――龍健様が書状を送っておられますので、
恐らく問題なく事が進むと思って良いでしょう。」
「阿父が……?」
「はい。贈り物と書状を。」
そうか……親父が、か……
屯長は続けた。
「龍健様から『次男坊が穆山参りのため通りかかる。一晩の宿と、
明日亘江を渡る船のお手配を、お力添え願いたい』とお伝えしてありますので
二若君には直々に贈答品を届け、歓待を受けていただく必要がございます。」
「あい、わかった。
龍家の精鋭たちには不要な注意だと思うが……
気を引き締めて軍紀を守り、付近の村人たちに手を出すことまかりならんと伝えよ。」
「ははっ!」
その後、俺は亘江一帯を取りまとめる豪族――明公に挨拶をした。
「突然の来訪、ご無礼を。
私は龍氏が次男にございます。
この度、一族の弥栄を祈念すべく、これなる精鋭と共に
聖地・穆山へと参る途上にございます。
予てより父からは、明公の武勇と、この地を治める厳格なる知略を伺っておりました。
境を越え、明公の威光に浴する誉れを賜り、感謝に堪えませぬ。
些末な品ではございますが、我が領地の特産を
ご挨拶の印として持参いたしました。
どうかお納めいただき、明日、亘江を渡るまでの間、
しばしの休息とお力添えを賜りたく存じます。」
明公は豪快に笑い、酒盃を掲げた。
「その口上、見事である!
龍氏の英名はこの地域一帯にも届いておるぞ。
穆山への巡礼とは、殊勝な志であるな。
父・龍健殿におかれても、頼もしき若君を持たれ、心強いことだろう。
堅苦しい挨拶は抜きで良い。
酒と糧食を振る舞わせるので、安心して休むが良かろう。」
「ははっ、お言葉とお気遣い、感謝に絶えませぬ!」
その晩、歓待の席で俺は明公と語らった。
「しかしその年齢で穆山とは、よほど神仙に興味がおありかな?」
本当のことを言う必要はない。
親父も“祈念”と伝えているのだ。
「左様にございます。かねてより憧憬の念を抱いておりました。
長兄の陰に隠るる次男の身なれば、大した功も立てられませぬが……
せめて神仙の霊気をこの身に帯び、一族の福徳を乞い願うことこそ、
我が務めかと存じます。」
「左様か。家督の外に身を置く次男なればこそ、
家門の行く末を案じ、神仙の加護を乞うというわけか。殊勝な心掛けよ。
それほどまでに穆山を慕うておるのなら、
かの地の神仙については、聞き及んでおろうな?」
「……恐れ入りながら、憧憬のみが先走り、無学を晒してしまいます。
ただ、雲を突き天に至る霊峰と聞き及ぶのみ。
もしご存知であれば、神仙にまつわる古の逸話や奇瑞について、
ご教示いただけますでしょうか。」
「ふむ……そうだな。では、こんな逸話はどうであろう。」
明公は盃を置き、語り始めた。
「令仲は李氏をご存知であろう?」
「はい。五章の祖と学んでおります。」
「その李氏が、かの霊峰で賢翁に会った際のことだ。
『お主が巷で持て囃されておる李氏か?』
李氏は一目で“人ならざるもの”と悟り、頭を垂れて礼を取った。
『お主は偉そうにも人に物を説いておるようだな。』
『いえ、私が説いているのではございませぬ。
ただ、我が慎独を世が求めるのでございます。』
『では、その慎独を問おう。仁とは何なりや。』
『仁とは徳でございます。』
『では徳とは何なりや。』
『行いや心のあり方が優れていること……でございます。』
『では優れているとは何なりや。』
李氏は答えに詰まった。
『未熟者が、言葉の表面を飾り、民衆を惑わすではないわ。』
そう言い残し、賢翁は姿を消したという。
そのやり取りの後、李氏は五章の編纂をしたそうだ。」
明公は盃を傾けながら、俺に問う。
「令仲は、この逸話をどう思う?」
「私のような青二才に真意を理解する術はございませぬ。
……ですが、あえて申し上げます。
それは“言葉の綾に惑わされるな”。
目に見えぬ『理』こそを掴め――
そのように諭したのではございませぬか。」
「なるほど、理か……面白い。」
明公は愉快そうに笑った。
「ふふっ、本日は令仲と愉快な夜を過ごせたこと、僥倖であったわ。
さて、明日からも旅は続く。本日はゆっくり休まれよ。」
「ははっ、ご厚情、ありがたく。
それでは本日はこれにて退下させていただく。」
寝所へ向かいながら、俺は考えた。
――神仙とのやり取り、か。
そういえばゲームにもあったな……
ランダムで質問が出て、選択を間違えると失敗になるやつ。
……俺は、正解できるだろうか。
翌朝、俺は明公の支配勢力が徴税している船主の船に乗り、亘江を渡った。
川面は深い川霧に覆われ、白い靄がゆっくりと流れていく。
船が霧の中へと滑り込むと、視界は一気に白に染まり、水音だけが近く遠くで反響した。
霧の向こうにある北岸に、本当に無事に着けるのだろうか――。
指先が、わずかに震えていた。




