第9話 贈答、そして己の研鑽へ
翌朝。
阿京の熱がひとまず下がったと聞き、
俺は医官とともに医室へ向かった。
寝台に横たわる阿京は、まだしんどそうなのに、
俺の姿を見つけるとふわりと微笑んだ。
その笑顔だけで胸が締めつけられる。
医官が俺たちに聞こえるように説明する。
「虚損でしょうな。気が弱り、体の内側から力が抜けております。
薬草を煎じたものを飲み、滋養のある肉や卵を食べ、静かにお休みください。」
そう言うと、気を利かせてそっと離れていった。
阿京は小さく息をつき、俺を見上げる。
「虚損、かぁ……。
阿刀との許婚の話を聞いて、興奮しすぎたのかしら?
ごめんね、心配をかけちゃって。」
そして、少し間を置いてから。
「私たち……親公認になったんだね。
阿刀は……本当に、それでよかったの?」
「もちろんだよ。こんなに嬉しいことはないよ……」
気づけば涙が滲んでいた。
俺はそっと阿京の手を握る。
「俺のほうこそ……阿京の気持ちが聞きたくて……」
阿京は弱々しく微笑む。
「私も嬉しい……。
ごめんね。せっかくの日に倒れちゃって……」
ごほっ、ごほっ……
「ごめんなさい……もうちょっと休むね……」
「あぁ……うん。無理せず、しっかり休んで。
体調が良くなったら、また一緒に出掛けよう。」
阿京が静かに眠りについたあと。
医室を出た俺は、もう涙を堪えられなかった。
虚損……虚損……だと。
疲れ……だと。
――事実を知っているくせに。
――このままじゃ助からないと知っているくせに。
何が「良くなったら一緒に出掛けよう」だ。
阿京を苦しめているのは……
死の運命に向かわせたのは……俺じゃないか。
真実を告げることもできず。
あぁ……阿京。
君はもし俺と許婚にならなかったら、
いくつまで生きられたのだろう。
滅びゆく世界だとしても、
天寿を全うできたのだろうか。
胸の奥が、もう耐えられないほど痛かった。
俺は誰もいない場所へ走り、
抑えきれない感情のまま――
「あああああああああああああああ!!」
叫ばずにはいられなかった。
そして俺は、親父のところに向かった。
「お願いです……阿父!!
俺を……俺を屋敷の外に!
穆山に向かわせてください!」
穆山。
仙人が住むとされる霊山。
「穆山……?」
親父は顎に手をやり、少し考える。
「ここから四千五百里から五千里……。
およそ二〇〇〇キロを超える距離があるぞ。」
「駄目だな。
そもそもあんな所に何の用がある……」
穆山といえば、神仙住まう霊山として知られている。
「お前まさか……阿京のためか……?」
俺は頷く。
「はい。その通りです。」
「何を馬鹿な。
医官からはただの虚損と聞いている。
食事なら特別に精のつくものを手配してやる。
それで十分だろう。」
親父は冷たく言い放つ。
「この話はこれで終わりだ。
わかったらさっさと鍛錬に戻れ。」
「それじゃ駄目なんです! 阿父!
どうか……! どうか……!!」
「しつこい!」
親父の声が鋭く響く。
「これ以上口答えするなら、部屋から出ることを許さず禁足にするぞ!
今は勢力拡大で大事な時期なのだ。
己の立場とやるべきことを考えよ!
女一人に現を抜かしている場合か!」
そう言い捨てて、親父は立ち去った。
それからの日々。
俺は毎朝、阿京の見舞いに行き、
その後は親父に頭を下げて頼み続けた。
二週間ほど経った頃。
阿京は医室を出て、自分の部屋に戻った。
先生によれば、朝から夕方は調子が良いが、
夜になるとまた熱を出してうなされるという。
俺が会えるのは朝だけ。
だが阿京は、そんな素振りを一切見せなかった。
そして――
俺が穆山に行かせてくれと頼んでいることが、
とうとう阿京の耳に入ってしまった。
次の日の朝。
「ねぇ……阿刀はどうして穆山に行きたいの?」
「えっと……仙人様に、一度会ってみたくて……」
「それは……私を治すため?」
答えに詰まった。
阿京は静かに首を振る。
「ねぇ、阿刀。無茶はしないで。私は大丈夫だから。
穆山なんて遠いところに行って、もしあなたの身に何かあったら……」
そして、阿京は静かに詠った。
身沈草莽間(わが身は 草むらに沈むとも)
君心永留名(君が心に 名は永く留まらん)
寧受千般苦(いずくんぞ 千般の苦しみを受けん)
不忍見君傾(忍びず 君の傾くを見るを)
――私の身がたとえ野に朽ち果てようとも、
あなたの心に私が残り続けるなら、それで十分です。
どのような苦難も受け入れますが、
あなたに万一のことが起きるのを見ていられるほど、
私は強くありません。
その詩を聞いて、俺は悟った。
利発な阿京だ。
きっと自分の体の異変に気づいている。
だから、俺は精一杯の気持ちを込めて返した。
無君世如夜(君 無ければ 世は夜のごとし)
冥冥失孤光(冥冥として 孤光を失う)
縦遭万般難(たとい 万般の難に遭うとも)
誓将命死守(誓って 命を将て死守せん)
――君のいない世界は、明かりのない夜と同じだ。
たとえこの身にどんな災難が降りかかろうとも、
私は誓おう、この命を懸けて君を死守することを。
自然と感情から溢れ出た、初めての贈答詩だった。
そして俺は阿京に告げた。
「信じてくれ。阿京は……俺が絶対に治してみせる。」
次の日。
俺は再び親父の元へ向かった。
そこには龍紅――推兄がいた。
どうやら親父は、
阿京との許婚を取り消すことや、
俺を一人で行かせて野垂れ死にさせることまで考え始めていたらしい。
それを龍紅がとりなしてくれたという。
「阿父も、かわいい阿刀がこのまま悲しい思いをするのも、
命を無駄に散らすのも良しとはしないでしょう?」
親父は腕を組み、重く言った。
「……お前が次期塢主だ。
お前が決めろ。」
判断を龍紅に一任したのだ。
龍紅はまっすぐ俺を見て言った。
「まず、阿刀。今すぐお前を出立させるわけにはいかない。
一人で行かせるわけにもいかない。
阿刀もそれを理解しているから阿父に頼んだのだろう?
そうでなければ、一人で抜け出していただろうからね。」
龍紅は少し微笑んだ。
「その判断ができる冷静さがあってよかった。」
そして、真剣な表情に戻る。
「そうだな……手勢を最低でも百人はつけることになる。
それには準備がいる。そして一番の理由は――」
龍紅は俺の胸に手を置いた。
「阿刀。今のお前じゃ、まだ覚悟も力も足りない。
だから……一年後だ。
それまでに、できるだけの力と心を磨け。」
一年。
設定で見えた阿京が死ぬ年齢は十四歳。
あと二年ある。
そして恐らく、これが親父と龍紅の最大の気遣いだ。
ここで断れば、親父が考えていた“最悪の判断”が下されるだろう。
「阿父……推兄……ありがとうございます。
これから竭尽全力で己を磨きますので……
どうか……どうか、よろしくお願い致します。」
俺は泣きながら、感謝の気持ちを伝えた。




