第37章 泉のひとしずく (時系列-?)
オーディンが感染したというエルダ・ウィルス。それの排除をするという役目を負ってオーディンと接続したジョンだが同期時にそのような行動は取っていなかった。
去っていく何かのプログラムを追いかけることもせず、同期直後から彼は自分の復讐に終始していたと言える。
当初のカンザキはオーディンによる戦争の引き金の予兆が消えたことで乗っ取りは成功したと思っていたようだが。
復讐を遂げたことでようやく聞こえるようになった泣き声は、まるで少女のようだった。ロバートはかつての娘に声をかけるように泣き声のデータに問いかけた。
「チトセって、誰だい?」
「……家族で、一番のともだち……」
ロバートはそれについて知りたいと思うだけで同じシステム内に存在するエルダという個体の情報を細かく知ることが出来た。
ルーデンの手製AIである事で意識的にルーデンの情報は遮断しつつ、チトセという少女の存在について知ることでどこか「あたたかい気持ち」というものを思い出し、でも直ぐにシステムの中へそれが霧散していく。
エルダもまた双方向通信の権利を得てロバートに何があったかを知る。今まではオーディンからデータを吸い出されるのみで、システムへのアクセス権限は持たされていなかった。だからウィルスとして扱われたエルダは宇宙の隅で誰にも気づかれること無く泣いているだけだったのだ。
「……なら会いに行くと良い。身体は私が用意しよう」
自分にはいなくなってしまった家族に、この子はまだ会える。そんなロバートの悲しみはエルダにも伝わっていた。
「いいの? ……あなたはどうするの?」
「わからない。君を送り出した後は、このネットの宇宙に溶けて消えるだけかもな……」
そうしてロバートはシステムを使ってメガテックの本社にある工場から一部の工程を奪い取ってエルダの新しいボディをデザインした。抜き出される前よりもう少し女性的なデザインと関節数の多い人間らしいモデルに。
機械になった自分、人間になれるAI、同じシステム内においてまるで陰陽のようにあるなと皮肉を思いながら、でもふさわしいかと悲しみを思い出しても諦念の満ちる心を止められないロバート。
ボディが出来上がるまでの間、それはシステム内に置いてはひたすら長い時間だったとも刹那の時だったとも言えるわけだが、とにかくエルダがボディに移植されるという時になって、エルダがこう言った。
「……私の中にあるチトセの記録をコピーしておくね」
その行動が何故だったのかロバートにはわからなかったし、直ぐにそれを調べるようなことはしなかった。エルダがそれを残したのは、今のロバートには何も言うことが出来なかったからだ。ロバートには確かに復讐をするだけの動機があり、その上で誤解から愛する家族を殺害した。
でもあの時はジョンだったのだ。ロバートの家族を手に掛けたのはジョンだった。ジョン=ロバートだとしても、どんな批判も同情もかけることが出来なかった。
だからエルダは自分の見てきた歴史をそこに残していくことにした。ロバートが何かを思うことを期待したのかはわからない。でもきっと、エルダの行動は優しさに基づいている。
記録を受け取ったロバートだったがルーデンの事は伝えられないままエルダを外へ送り、自身はシステムに一人残ってネットという宇宙と同化していく。最早ロバートの意識の漂いに干渉するものはおらず、彼は時間と知識、歴史、そしてあらゆる概念を得たことで全てを失っていく。
宇宙から地球を見下ろすことで得られる漠然とした悟りとは違う感覚、ロバートは完全な世界の姿を認識した。世界そのものがロバートの脳となるのだ。
怒りとはなんだったのか? 復讐とは? 自分という個を特定するために必要なアイデンティティも消え、ただメガテックという場所にロバートという改造人間がジョンを名乗って組み込まれたという事実と、かつて自分の宿っていた身体のみが線香花火のように淡く儚い光でゆらゆらと残り続ける。
このまま行けばここにある意識はロバートにもジョンにも戻れないだろう。何者でも無く、ただの痕跡となる。全であるという無。彼はどこにでもいる存在になるからこそ、全てから消えようとしていた。
そんな最中で残されていたチトセの記録に触れた。そこにあったのは地獄と現実の記録。
生まれる前から難病を抱えるであろうことがわかっていたチトセ。一つ目は細胞分離症と呼ばれる、胎児に稀に起こる病気が彼女の首に手をかけていた。
胎内で一部の細胞(やがて内蔵や四肢となる部分)が身体から分離して母胎に吸収されてしまうという難病で、そのまま産んだ場合赤ん坊は運が良ければ体躯の一部欠損状態で生きられるが、基本的には消失した細胞の関連した部分にも異常が出てしまい、何もしなければ死んでしまう可能性のほうが圧倒的に高い病気だった。
これは現代の科学でも一応の解決がされており、母胎内にいる際に適応する動物の調整遺伝子を組み込むことで解決する。だから現代では犬のしっぽが生えた者、猫やウサギの耳が生えた人もいるし、指の水かきが広い人だっている。チトセには犬の細胞が適合した。
だがそこで二つ目の問題があった。チトセに適応したはずの犬の遺伝子が変異し、チトセの細胞分離した片足が犬のものに変わってしまう。
通常、そのような大きな変化は起こらないはずなのだ。母親の胎内でチトセの片足が犬のものとしてどんどん成長し、出産時に母親の身体を大きく傷つけることが前もってわかっていた。そうなる前に堕ろしてしまえばチトセの母親は生きられたかもしれないが、彼女はそうせず、ふたりとも無事に生きられることを願った。
だが儚くもチトセの母は出産後に一度だけ赤ん坊を抱きしめ、静かに息を引き取った。
チトセの身体はその理由で生まれてからすぐに犬の片足を取り除き、サイバネティクスを適応している。成長する度に適応手術を行い、毎回歩くための辛いリハビリをしているのだ。
しかし問題はこれだけではなかった。チトセが四歳になった頃、今度は分離を食い止めたはずの犬の細胞がチトセに犬特有の病気である気管虚脱の症状を与えてしまったのだ。発生理由は不明だが自分の身体だけで上手く呼吸が出来なくなってしまったチトセは内蔵へのサイバネティクス導入を余儀なくされた。
こうしてチトセは今片足と内臓の一部にサイバネティクスを導入している。身体が成長する度に適応訓練と、内蔵サイバネティクス適応時は身体の拒絶反応からくる高熱と体全体への信じられないような激痛に耐えるサイクルを送っているのだ。
小さな子どもにとってはかつてロバートが受けた拷問にも匹敵するかそれ以上であろう痛みを、もう十回以上耐えていた。
それでもチトセは元気に生き続けている。いつでも前向きに、辛いことなど何も無いように楽しそうなのだ。エルダがこれらを知ったのはチトセが手術を理由に七歳の誕生日を家で迎えられなかった時の理由をルーデンに問い詰めたからだ。
チトセが病弱なことは知っていたエルダも、これにはAIとしてもショックを覚えたことが記録に残されていて、その気持ちは記録を再生するロバートにも伝染していた。
「どうして」
ロバートは記録の中のエルダと同じタイミングでそう問いかけ、エルダの言葉が続く。
「そんなに強くいられるの?」
エルダと一緒にいる時には大抵朗らかにいるチトセ。その理由がどうしてもわからなくてエルダ/ロバートがそう尋ねるとチトセは笑って答える。
「」
その言葉にロバートに微かな自我が戻った。自分を失いたくなくなったから。
―『でもこれはお前に渡す。それがどういう意味か、しっかり考えて生きてほしいんだ』―
―『待ってるからね。この子と』―
宇宙に星が瞬き始めた。