賢くなりたい(5) 【イラスト有】
がくっ、と魔女がよろけ、背赤は黒い目をぱちくりさせた。ドラゴンは我関せずを決め込んで明後日のほうを見る。
「姫様、いくらなんでも……もうちょっと美しい名前にしてあげません? 黒玉とかオニキスとか、なんなら『夜の炎』とかでも」
「あらアンバー、いつの間に。駄目よ、黒くて赤いのなんてどの背赤でも同じじゃないの。小さくてころころ転がるから、こつぶ。どう?」
姫は自信満々に背赤を見る。どうやら、絵の才能はあっても言葉を操るほうは微妙なクチらしい。
もっとも背赤にしたところで、似たり寄ったりではあった。こつぶ、と口の中で繰り返し、徐々に頬を緩ませて幸せ満面の笑みになる。
「それがいいです!」
《本当に良いのか、背赤よ。その名でそなたを呼ぶ者はそこのニンゲンぐらいだろうが、それでも名はそなたを定めるものだぞ》
「ヌシ様は呼んでくださらないんですか?」
《呼ばぬ。我らドラゴンが固有の名を呼べば、そのものを縛り、支配してしまうがゆえにな。そなたがそなたのままであるためには、名を呼んではならんのだ》
難解な説明を、背赤は少し時間をかけて理解した。そうですか、とひとつうなずき、さして残念そうでもなくさっぱりした表情になる。
「呼んでもらえなくても、知っていてもらえたら嬉しいです。ほら、ヌシ様が最初にわたしにお声をかけてくださった時、『小さいの』っておっしゃったでしょう? だからわたしの名前は『こつぶ』で間違いないんですよ!」
ぱあっとまぶしい笑顔で背赤が言い終えた直後、ドラゴンが石になった。仮の姿を作ったわけでもないのに、息を飲む間に全身が光を失い、動かなくなったのだ。
「あれっ? ぬ、ヌシ様!? どうしちゃったんですかー!!」
慌てて駆け寄って前肢や尾の先をぺたぺた触りまくる背赤に、魔女が堪えきれず声を立てて笑う。
「大丈夫、心配しなくても、いいわ。あは、あはは! あのね、ドラゴンは、あんまり強く感情を動かすと、大変だから。この辺りのお天気とか、地形まで、変わっちゃいかねないの。だから、ぷっくくく、急いで、こ、心を落ち着かせるために……」
なんとかそこまで説明したものの我慢の限界に達し、腹を抱えて爆笑してしまった。
ひとしきり大笑いした魔女は、目尻の涙を拭き拭き、姫君を促した。
「さ、姫様、今のうちに退散しましょう。ヌシ様が復活されたら、わたくし、尻尾で張り倒されちゃいますわ」
「そうでしょうね」
事情はよくわからないが魔女が笑いすぎだというのは明白だったので、姫はいささか呆れた顔でうなずいた。それから、背赤に向かって軽く手を挙げた。
「絶対、また来るわ。今度はあなたの絵をいっぱい描けるように、ちゃんとした画材を持ってくるから。あとね、こつぶ。わたしの名前はパール。覚えておきなさいよ!」
「はいっ! パールさん、魔女さん、また来てくださいね!」
背赤もそばまで行って、大きく手を振り返す。魔女が忘れ物はないかと岩屋の中をぐるりと見回してから、杖を掲げてにっこりした。
柔らかい光が二人の姿を包み込む。賑やかな客が帰ってしまうと、途端に岩屋はしんと静かになった。
なんとなく背赤は寒くなった気がして、ぶるっと震える。同時にドラゴンの石化が解け、光が戻った。
《……おのれ》
「あっ、ヌシ様! 大丈夫ですか!?」
慌てて背赤はまたドラゴンの前に駆け戻り、小さな手で巨大な前肢をさする。ドラゴンはなんとも言いがたい表情でそれを見下ろし、やれやれと首を横たえて、今度はちゃんと仮の姿を作り出した。
青年の姿を取ったドラゴンは、なにやら諦めの面持ちで背赤の頭を撫でてやる。背赤は気持ち良さそうに目を細めていたが、ちらっと相手の顔色を窺って、恐る恐る訊いた。
「あの……また来てください、って勝手に言ってしまいましたけど、ヌシ様は、お嫌だったでしょうか?」
「そなたが歓迎するのならば、かまわぬ」
「でも、ここはヌシ様のおうちですから」
「今はそなたの家でもある。そうそう頻繁に来られては堪らぬが、あの子供がそなたの絵を描く程度ならば邪魔になるまい」
許しを得て、背赤はほっと安心する。嬉しそうに尻尾を揺らした後で、ふと何か思いついたような顔をした。ドラゴンが黙って見守っていると、彼女はややうつむいて、独り言のようにつぶやいた。
「もうちょっと賢くなりたいなぁ……」
「どうしたのだ、急に」
背赤という種族にあるまじき願いだ。ドラゴンは不審に思い、あの魔女が余計なことを吹き込んだのかと勘繰る。背赤は黒い瞳でじっと彼を見上げて言った。
「ヌシ様は、魔女さんといろいろお話しされていたみたいですから。わたしがもっと賢かったら、ヌシ様の話し相手になれるのになぁって思ったんです」
思念の会話を、聞き取れないまでも察知していたらしい。油断していたドラゴンは怯み、渋い顔になった。
「そなたはそなたのままで良い。……下手な知恵などつけては、苦しみが増すぞ」
「そうなんですか? わたしはヌシ様のお力をわけて頂いてから、前より少しはヌシ様のお話がわかるようになって嬉しいですよ」
「では嬉しいと思えるほどに留めておけ。賢しらになれば、分を超えた望みを持つ。それがままならぬと腹を立て、己に直接かかわりのない、己が手で何ひとつ変えられない事柄にまで不満や恐れやを抱くことになる。あの子供が、背赤というものが存在するだけで恐ろしい、と言ったようにな」
「…………」
背赤は神妙な顔で聞き入り、むーん、と考え込んだ。
確かに、あれは可哀想だと思った。だって、世界によく知らない生き物がいっぱいいて、中には自分たちを殺すものもいて、それは自然で当たり前のことなのに、怖いから滅ぼさないと安心できない、なんて。
もしかしてあの姫様は、隣にいるのがニンゲンじゃないって気が付いてなかったんだろうか。だから平気だったのかな。だったら、知らないほうが幸せなのかな。
でも。だけど。
「その代わり、もっとたくさんの素敵なこととか、嬉しいこともわかるんじゃないでしょうか。ヌシ様が何を喜ばれるのか、わたしに何ができるのかも、きっと今よりわかって、一緒にたくさん幸せになれると思うんですけど、駄目ですか?」
真剣に、ひたむきに、純粋に、背赤は大好きなヌシ様を見つめる。
もっとずっと、一緒にたくさんの喜びを分かち合いたい。どうか、もっとあなたのそばに近付かせてください――そんな願い。
それは、確かに届いた。小さな生き物がどう頑張っても達しえない高みにいるドラゴンの心に、想いだけは届いたのだ。
ドラゴンはそっと嘆息し、慈愛のこもった微苦笑を浮かべて、ぽんぽんと背赤の頭を撫でた。
「駄目ではない。ないがな、背赤よ。そうすると、我はまたそなたに喰われねばならんだろう」
「あっ……!! あああぁすみませんごめんなさいそうじゃなくて!!! わああぁ!!」
「どうしても望むなら、与えるにやぶさかではないが」
「違います違います失礼を申し上げました平にご容赦をー!!!」
飛びすさって土下座する背赤の、いつもと変わらぬその姿に、ドラゴンは愉快げな笑声を立てた。
「本当にお馬鹿で申し訳ございませんー!!」
「謝ることなどない、そなたはそれで良いのだから。さあ、立って自慢の網を見て回れ。今日も『やることいっぱいで忙しい』ぞ」
「はいっ!」
気を取り直し、ぴょこんと背赤は立ち上がる。はりきって活動をはじめた背赤を見守りつつ、ドラゴンはふと、いつか本当に殺されるかもしれないな、と予感した。
この小さな生き物がドラゴンのすべてを喰らってしまうことはあり得なくとも、あまりに心を寄せすぎて、彼自身がドラゴンとしての自己を保てなくなる日が、来るかもしれない。
(それもそれで幸せというものだろう)
かつて感じたことのない温かなものを胸に抱いて、岩屋のあるじは今日も背赤の暮らしぶりを飽かず眺めて楽しむのだった。
(終)
※ ※ ※ ※
ツイッターで、ヒトエビト様(@b_hitoebito)のところの天狐さんが人外キャラのところへ遊びに行くよ、とのお言葉に甘えてお招きしましたところ、最高に可愛いワンショットを描いて下さいました…!
以下ご本人様のコメント。
「洸海さんちの背赤ちゃんとお昼寝すやすや。起きたらドラゴンさんが眠ってる背赤ちゃんをじっと眺めてたよ。とっても優しい目だったな。」
ご覧くださいこの幸せなもふもふっぷりを!!! 丸っこくて可愛らしい狐さんのふっかふかな尻尾! 髪も尻尾もわしわしし放題な背赤…! ここは楽園か…!!
ありがとうございます、可愛いは正義ー!!
以前にぽこにゃさんから頂いた背赤よりも、少し大人になった感じの背赤こつぶちゃん。姫様は間違いなく次回、ブラシとリボンを持って来るでしょう…
というかこの様子を魔女が見たらお持ち帰り事案発生待ったなしですね! やばい!
ありがとうございましたー!




