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 やけに陽射しが眩しく感じられた。夏の強いものとは違い、肌に痛さは感じないが、目が眩む思いはする。

 なのに頬に吹き付ける風は冷たくて。

 颯真は大きく息を吐き出した。白いそれは霧散し、消えていく。

「颯ちゃんっ」

「颯真さんっ」

「兄貴っ」

 三つの大きな声が耳に響く。

「お前ら、うるせぇよ」

 それに、小さく笑って返す。どこか、合わせる顔がない気もするが、それ以上に照れ臭さが勝つ。

 ──よかった。と思う。

 つい先程、明確な殺意を抱いた。この手で、エメルを殺そうとした。けれど、そうしなくてよかった。そんなことをしていたら、それこそ合わせる顔がない。

 なによりも、この、並んだ顔を悲しみに歪ませることになっただろう。そうならなくてよかった。

 今にも泣き出しそうな、色羽と比奈子、そして龍撤の顔を見て思う。

 ここに、帰ってこれてよかった。

「颯ちゃんが人殺しにならなくてよかったよぉ」

「おい、馬鹿。そこは濁すとこだろ」

 色羽が完璧な女装姿で颯真に抱き付いてくる。

「ここは、何も言わずに、おかえり、とか言うとこだろ」

「颯真さんがあの人を殺してしまったら、一体どうしたらよかったのか……」

「俺は、兄貴が誰か殺してもムショから出てくるの、ずっと待ってますからねっ」

 小折のような大人とは違う慰め方だ。けれど、これらは彼らの本心なのだろう。

「お前ら……俺のことまじで信用してねぇな?」

「颯ちゃんみたいな勢いに任せた馬鹿を信用できる人なんていないよ」

 色羽は泣きながら言う。これは得意の嫌味ではないのだろう。そう思うと、彼らにどれだけ心配をかけたかが嫌でもわかる。

「……悪かった」

 颯真は自身にしがみつく色羽の頭を撫でながら小さく言った。ウィッグの感触は人工物めいていて、お世辞にも手触りがいいとは言えない。本来の色羽の髪は驚くほどにまっすぐで、こどものもののようにさらさらとした感触だ。しかし、最後にそれをちゃんと撫でたのはいつが最後だったか。そして、そんなときはもう来ないのではないかと思う。

 色羽がこういった格好をやめるときは、颯真が彼の頭を撫でる必要がなくなるときだと思うから。

 そのときはもう、遠くないところにあるのだろう。

「颯真さんは、周りの人のことを考えて動くべきです」

 比奈子のその言葉に颯真は驚きを隠せなかった。

 正義の味方を気取るつもりもないし、自己犠牲を強く主張するつもりもない。しかし、自分は自分なりに、周囲の人のことを考えて行動してきたつもりだった。

 だからこそ、周りに危害が及ぶ前に、とエメルの首に手をかけたのだ。

「颯真さんは、自分が安心するために、周りの人のことを気にかけてます。そうじゃなくて、周りを安心させるような行動をして下さい。でないと、私達はいつも颯真さんのことを心配しないといけないんです」

 ああ、そうか、と思う。

 比奈子が大粒の涙を溢しながら言うそれは、颯真の心にすとんと落ちた。

 自分が守れば、自分が安心できるから。自分がエメルを殺してしまえば、心配ごとが減るから。その通りだ。

 そうじゃない。

 自分が強くなって、周りの人を安心させて、それでこそ守れるのではないだろうか。そういった人を、人は「強い」というのだ。

 小折や、南海や、麦沢のような人を。

 そこでふと芽生えた想い。それは小さな小さな、けれど強く光る石のようなもの。

「……俺、やりたいことが見付かった」

 颯真はぽつりと溢した。口にせずにはいられなかった。

「え、なに、このタイミングで急に」

 いつの間にか泣き止んでいた色羽が可愛らしい猫のハンカチで目元を丁寧に拭いながら言う。

「うん、そうだ。俺、それしかないと思う」

 突如として固まった決意に、胸の内が湧き踊る。これしかない。それがしたい。明確に浮かぶものは、颯真の心を奮い起たせる。

「悪い。俺、ちょっと小折さん達と話したいから、先に帰っててくれ」

 颯真は訳がわからないといった顔をした三人にそれだけ告げ、先程までいた警察署へと引き返していった。

 これから先の道が、はじめて開けたように思えた。

 ──未来は、眩しい。




「ちょっと待って、分数の割り算も忘れたわけ? それじゃあ、平方根とか言ってられないよね?」

 スパルタ気味どころか、それ以上の気迫を纏った南海が眉間にものすごく深い皺を寄せながら言う。もうそれは、漫画などで見る険しい谷のような皺だ。

「……忘れたんじゃなくて、そもそも勉強自体していません」

 忘れようにも、解き方からして知らない。颯真はそれを素直に白状した。

 真子を失ってから、かろうじて小学校に行ってはいたが、授業を聞いていた記憶はない。あの頃は自分の無力さを嘆き、真子を失った悲しみに浸って日々を過ごしていた。なので、颯真の学習レベルは小学校高学年の手前で止まっているのだ。

「は? それじゃあ、大検受けれるのなんていつの話? ここから、何年分の勉強を今から覚えるわけ? というか、そこまで考えてから未来の方向性を決めたの?」

 矢継ぎ早に繰り出される言葉に、颯真は返すべきことを見付けられなかった。

 ──今さら、きちんと学校に行かなかったことを悔やむ日が来るなんて。

 内心で大きな溜め息を吐く。悔やんだところで年月が取り返せるわけじゃなし、勉強が急にわかるわけもなし。

「……ほら、それなら一から教えるから、ちゃんと姿勢を正して」

 あまりに大きく項垂れる颯真を不憫に思ってか、南海は先程までとうってかわって優しい調子で言ってくれた。

「ありがとうございますっ、南海さんっ」

 颯真は南海に抱きつかんばかりの勢いで言い、シャーペンを強く握った。

「気持ち悪いっ。気色悪いから離れて」

 南海はそれにまた、眉間に皺を寄せて返す。

 ──警察官になりたい。

 それが、颯真の抱いた希望、将来の夢だった。

 しかし、そのためにはまず颯真の場合は高校卒業資格を取る必要があった。公務員試験を受けるにも、最終学歴が中学校卒業の颯真にはそれがないと挑むことすらできない。

 まずは大検を取得する。それが颯真の第一目標となった。とはいえ、勉強というものを手離したのが早すぎたことが、ここにきて仇になった。

 勉強をし直す、ではなく、勉強をする、というところから始めなくてはいけないのだ。

 大検を受ける準備の手伝いをかって出てくれたのは南海本人だったのだが、まさかここまで颯真が勉強をしてないとは知らずにいてのことだったようだ。

 少年係に籍を置く南海としては、颯真が明確な希望を持つことは嬉しいことだったのだろう。だがこうして颯真の学力レベルの目の当たりにして、それが甘い考えだということをようやく知ったようだ。

「お邪魔しますね」

 颯真がはじめて目にする分数の割り算とにらめっこをしていると、優しい声が耳に届いた。

「なに、天田。もう動いて平気なの?」

 先に反応をしたのは南海だった。

「はい。来週から職場にも復帰しますので、そのご報告をかねて差し入れをお持ちしました」

「小折さん。良かった、もう戻れるんすね」

 颯真はノートから顔を上げて、小折の顔を見た。そこには、幾度となく助けられた小折の微笑みがあった。

「本当ならもっと早く戻れたんですけど、一応ごたごたが収まるまでじっとしていろと父親に言われまして」

 小折はそう言って、笑みを深めた。

「……収まったんすか?」

「あれ、聞いてないですか?」

 小折は南海の顔と颯真の顔を交互に見て言った。

「言ってないよ。俺はこの子に勉強を教えるだけ。それ以上のことはしないよ」

 それが南海の優しさであることはわかる。南海は颯真に勉強を教えるために、このビルを訪れている。それも、刑事という忙しい仕事の合間を縫って。彼なりに、余計な話をして勉強への集中を削がないようにしてくれたのだろう。

「冠城エメルは、更正施設に収容されることになりました。残念ながら、僕を刺した件や龍撤くんのお友達を唆した件は立件できませんでした。もちろん、真子ちゃんを殺したことも明るみに出ることはありません。でも、名田さんと岐志先輩が懲戒免職を賭けて上に抗議して、更正施設への収容で決着はつきました」

 十分だ。あのまま、エメルが野放しになるより、遥かにいい。でも、それでもまだ、それだけか、という思いは残る。これは、例えエメルが死刑になったとしてもすっきりすることはないのだろう。

 でも、いい。エメルの存在に心を囚われる必要はない。それは、過去のものとして、胸にしまっておくしかないのだから。

「それで、名田さん達は?」

「大丈夫です。無事、刑事を続けています。冠城のことをマスコミ、世間に決してリークしないという条件付きで」

「警察って、結局保身なんだよね。そこで二人を懲戒免職にしたら、何するかわかんないからでしょ? だから、冠城を収容して、二人にはお仕事続けなさい、はい、これで満足でしょ? てね」

 南海は心底嫌気が差した、といった表情で言う。それでも彼がその組織から離れないのは、彼なりにやりたいことがあるからだろう。それは、今の颯真にならよくわかる。

 昔は自分も警察を、刑事を快く思っていなかった。むしろ、憎しみにさえ近い感情を抱いていた。

 真子を殺した犯人を見付けてくれない。事情があるのに厳しく補導し、知った顔で説教を垂れる。しかし、それだけじゃない。そうじゃない人達もたくさんいることを知った今、自分も警察官になりたいと心から思う。

「あ、せっかく差し入れ買ってきたんで、休憩にしませんか?」

 その場の空気を変えるように小折が大きな声を出す。

「じゃあ、僕と比奈ちゃんでお茶淹れる」

 突然、色羽の声が部屋に響く。

「小折さんのことだから、僕達の分もあるよね?」

「もちろん、ありますよ。むしろたくさん買ってきましたから」

 小折は言いながら、箱に入っていたベルギーワッフルをテーブルの上に並べはじめた。

「君さ、本当に図々しいよね? 言われない?」

「南海さん以外には言われませんー。そういうこと言うんだったら、南海さんのお茶は淹れないし、南海さんの分のワッフルは僕が食べますー」

 色羽と南海の通常運転のやり取りを見ながら、颯真はテーブルの上に広げていた勉強道具を片付けた。賑やかな毎日。飽きることのない日々だ。

 色羽が薄茶色のさらさらした髪を揺らしながら颯真に近寄ってくる。

「颯ちゃん、今日、比奈ちゃんと一緒に夕飯食べるんだけど、颯ちゃんもどう?」

 化粧をしなくとも大きな瞳はきらきらとしている。

「最初からそのつもりでここに来たんだろ」

「さっすが、颯ちゃん。話が早い。じゃあ、今日はお好み焼きだね」

 色羽は薄手のニットの袖をまくりあげながら言い、比奈子の方へと駆け寄った。そして二人でなにやら楽しそうに笑いあっている。

 こんなふうに、日々は続いていく。そして、歳を取り、それでも笑っていられたらいい。

 幸せな日々が突如として壊れることを知っているからこそ、こういった日々を愛しいと思えるのだ。

「比奈子」

 颯真の呼び掛けに、一瞬だけ空気が止まった。

「え、あ、はい、私、ですか?」

 一時の間を置いて、比奈子が振り返る。その顔はなぜか動揺しているように見え、颯真としてはそれが不思議だったが、そのことには突っ込まずに言葉を続けた。

「あとでちょっと話があんだけど」

「あ、え、あ、はい。私はいつでも大丈夫です」 

 そう答える比奈子の耳は真っ赤に染まっていた。



 静かな夜の公園には颯真と比奈子以外、誰もいなかった。

 颯真が住む商店街の外れにある公園は、あの日真子が殺された公園とは似ても似つかない。それでも、颯真がここに足を踏み入れるのは初めてだった。

 いつしか、公園という存在自体があまり得意ではなくなり、自分から近寄ることはしなくなっていたのだ。

「あの、私も話があるんです」

 寒さの堪える夜空の下、比奈子が真っ白な息を洩らしながら言う。

「おお、なら先に言えよ」

 そう答える自分の息も白い。

 今頃颯真の部屋では色羽と小折、そして南海が眠っているだろう。そんなに遅い時間ではないが、三人とも楽しそうに酒を呑み、早々に眠りについてしまったのだ。

 本来なら比奈子を目の前のユキの家まで送り届けて終わりなのだが、話があるためにこうして散歩に誘ったのだ。

「いえ、颯真さんから先にどうぞ」

 比奈子はそう言って、小さな掌を差し出してきた。夜空の下でもわかるほどに色白の手。体と同様に細過ぎるその指を、颯真はそっと握った。すると、一瞬、比奈子がその手を引っ込めようとしたのが指に伝わり、颯真をそれをさせまいと少しだけ力を込めた。

 冷えきった指先は、それでもじんわりと熱を伝えてくる。

「待たせて、悪かった。正直に言う。俺は、お前のことが好きだ。最初は、真子と重なるんだと思った。俺が、守ってやらなきゃいけないんだって思った。いつしか、それが好きに変わったんだと思ってた。でも、はっきりと違うって言える。俺は、お前の強さが好きだ。お前は、色羽と同じで、俺の間違いを正してくれる。違うって言ってくれる。それでいて、正しいことを教えてくれる。……それに、お前と一緒にいると楽しい。心配もするし、不安にもなるし、でも、それでも楽しいと思える」

 颯真は比奈子の大きな瞳をまっすぐに見ながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「まだ、お前が俺のことを好きでいてくれているなら、一緒になってほしい。俺と結婚して下さい」

 颯真が言葉を終えると、視線の先にある黒目がちの瞳が揺れた。それが涙によるものだと気付く。

「な、なんで、いきなり、け、結婚なんですか? 色々、そう、色々飛んでます」

 比奈子の声は震えていて、それを心からいとおしいと思う。

「まあ、結婚つーのはまだ先の話だとしてもさ。できればそれは、俺が警察官になれるまで待っててほしい。現実問題、それまでは生活力ないしな。でも、俺は、家族がほしい。そして、お前にも家族を作ってやりたい。だから、その決意を先に言っておきたかった」

 紛れもない気持ち。また、家族がほしい。今度こそは守り抜ける、守り抜きたい家庭。そして、守り、守られる家庭。そのなかで、幸せだと笑っていたい。

 その相手は、そうしたい相手は比奈子しかいない。

「結婚への返事はまだまだ先でいいとして、今、お前が俺のことを、どう思ってるかだけでもいいから聞きたい」

 指先を握る手にさらに力を込める。これ以上強く握れば折れてしまうのではないかと思えるほどの細さ。それでも、その弱さを勘違いだと教えてくれるように、比奈子は指先に力を入れてきた。

「なんで、先に言うんですか? 私は、今日、私はこれからもずっと、颯真さんのことを好きでいてもいいですか、て聞こうと思っていたんです」

 それが、今夜比奈子が話そうと思っていたこと。それを聞き、自然に口許が緩むのを感じた。

「……私も、家族がほしいです。私が知ることができなかった、優しい家族がほしいです。その相手は、颯真さんがいいです」

 比奈子は大粒の涙をぽろぽろと溢しながら言い、最後に笑顔を見せた。美しい花が、ようやく咲いたようなその笑顔に、颯真は思わずその体を抱き寄せた。

 標準を遥かに下回るだろうその細さは、男にしては小柄なほうの颯真の両腕にすっぽりとおさまってしまうほどだ。

「……ありがとう」

 言いながら、一筋、涙が溢れた。

 これからは、幸せになる努力をしよう。人を幸せにする努力をしよう。

 空の高い位置にある月を見上げるよりも、すぐそこにある比奈子の匂いを噛み締めながらそう誓った。



 これから先、辛いことも悲しいこともあるかもしれない。それでも、前を向いて、未来をしっかりと自身の手で掴んでいくのだから。





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