第六章 時劫の迷い子(6)
東の大国大聖堂領の東域に位置している捨山は低山であり、雪を被っていても登頂は難しいことではない。山頂へ達した後、マイル、クロム、ラーミラの三人は目的の洞窟を探すため山中の捜索を続けた。五日ほどすると件の洞窟らしきものが見付かったので、マイルは入口を前にラーミラを振り返る。背丈の倍ほどもある横穴の入口を見上げていたラーミラはマイルの視線に気がつき、頷いた。
「たぶん、これのことね」
言うと同時にラーミラは洞窟の内部へと侵入して行った。松明も点けていないのでラーミラの姿は洞窟の闇に紛れてゆく。
それほど積雪量がない低山とはいえ、こうした洞窟は雨風を凌ぐ住居と成り得る。内部に人がいる可能性を考慮していたマイルはラーミラの軽はずみな行動にあ然としていたが、やがてクロムを振り返った。しかしクロムもまた平然としており、奥行きの分からない闇をじっと見据えている。判断に迷ったマイルは口火を切った。
「これは、着いて来いということか?」
「いえ、ここで待っていましょう。着いて来いということならおそらく呼ぶと思います」
ラーミラの助手をしていただけあってクロムの反応は冷静なものであった。マイルは呆れながら視線を洞窟へ戻す。
「滅茶苦茶な人だな」
「一緒に行動しているとそのうち慣れますよ」
クロムの発言はすでに達観してしまっている。マイルは小さく苦笑を零しながら洞窟に背を向けた。
「それにしても、追いついてこないな」
雪を被った山は静寂を保っていて近くに人間がいるような気配はない。マイルが木々を眺めながら独白するとクロムは顔を傾けて話に応じた。
「リリィさんとコアさんですか?」
「ああ。まったく、何をしに行ったんだか」
別行動の意図を聞かされていないマイルは深々とため息を吐いた。クロムも同じであるが彼はまったく気にしていない様子で話を続ける。
「合流する前に調査が終わってしまいそうですね」
「だがもう、山の中に入っているだろう。調査が終わったからといってこちらは下山出来ない」
「早く山を下りたいですね」
クロムは捨山の特異性よりも露宿にうんざりしている様子であった。マイルもまた、何事も起こらぬうちに山を下りたいと願っていたので深々と頷いて見せる。そこでラーミラが戻って来たのでマイルは話を切り上げて向き直った。
「内部はどうでした?」
「ちょっと、変なものを見つけたわ」
ラーミラは難しい表情をしながらそれだけを答えた。煮え切らないラーミラの返答を不可解に思ったマイルは首を傾げる。
「何ですか?」
「うまく説明出来ない。あんなの見たことないわ」
ラーミラが深刻そうな表情になって何事かを考え始めたのでマイルとクロムは顔を見合わせる。だがラーミラはすぐ、眉間の皺を消して顔を上げた。
「調査はコアが合流してからにしましょう」
現時点では説明をする気がないようで、ラーミラは露宿の準備にとりかかる。「変なもの」が気になりつつも口には出さず、マイルもラーミラの意向に従った。
捨山に入った後、コアは露宿に適した場所を探りながら山頂を目指した。途中でラーミラが残した目印を見つけたので、それからは露宿の後を頼りに進んでいる。次の目印を見つけるため枯れ木に登っているコアは周囲を見渡して苦笑した。
(しかし、なあ……)
目印を残しながら進めと指示したのはコア自身である。しかし具体的な方法はラーミラ任せであり、彼女が考えた目印というのは高木のてっぺんに色布を巻きつけるというものであった。
(こんなの、俺が木に登ると思ってなきゃ出来ないぜ)
山道を歩いていたのでは、なかなか上方へは意識が向かないものである。だがラーミラはコアが木に登ると確信し、おそらく本人が木登りをして色布を巻きつけたのであろう。その姿を想像したコアは一つため息をついてから降下を開始した。地上ではリリィが険しい面持ちで周囲を窺っており、コアは真顔に戻って傍へ寄る。
「夜通し歩けば追いつけそうだ」
コアが声をかけるとリリィは無言で頷いた。リリィの表情は変わらぬ険しさに支配されている。
山へ入ってから、リリィは必要以上には口を開かなくなった。それは疲労のせいではなく嫌悪であることを察したコアも必要以上には話しかけていない。弱さは罪、そう言ったことがリリィに反発心を抱かせているとコアは理解していた。だが弱者が捨て置かれることが世の常である以上、コアには理想を語る気はない。
(現実なんてそんなもんだ)
リリィを刺激しないよう声にはしなかったがコアの胸中は冷めきっていた。価値観は個人が形成していけばいいものであり、リリィと意見を戦わせることに意味はないのである。
捨山という一つの過酷な現実を乗り切ったなら、リリィは真実を話しても耐えられるようになっているだろう。コアは願望を含ませながらそう思い、無言で歩き出しながら空を仰いだ。
小休止を挟みながら捨山を登っていると、やがて夜が訪れた。だが宣言通りコアは歩みを止めず、松明を掲げながら夜道を進んでいる。体重の半分ほどの重さを上乗せしたリリィの肉体は平素より疲労しやすく、捨山へ侵入してから解くことなく張り詰めてきた神経も限界を迎えようとしていた。
リリィには気力も体力もわずかしか残されていなかったが先を行くコアは速度を落とすことなく歩き続けている。だがふと、コアは足を止めて松明を高く持ち上げた。疑問を口にする余裕もないリリィは追いついて立ち止まり、コアの次の動作を待つ。コアはしばらく周囲を気にしていたが、やがてリリィを振り返った。
「木登り、できるよな?」
コアの発言は唐突であり、リリィは一瞬意味を捉え損ねた。だが状況からして良くない出来事が起こりつつあると察したリリィは体を強張らせながら頷く。コアは鋭く周囲に目を走らせてから言葉を続けた。
「さっき明りが見えた。ちょっと調べてくるからお前はここにいろ。やばかったら木に登って叫べ」
足腰の弱った老人は木に登ることが出来ないので時間を稼げば、一撃で殺されるような事態には陥らないだろう。コアはそう、説明をした。
「俺が間に合いそうになかったら殺せよ。じゃないと本当に死ぬからな」
リリィが佩いている短剣を軽く叩いた後、コアは松明を持ったまま枯れ木の間に姿を消した。明りが遠ざかると闇が訪れ、リリィは硬直する。八方から視線を感じるような恐ろしさに苛まれ、リリィは指の一本も動かせなくなってしまった。
だがコアが姿を消してからしばらくしても、何事も起こらなかった。よくよく周囲を見渡せば枯れ木は見通しが悪くはなく、月明かりも射している。何かが近付いて来ればすぐに気がつくだろうと思いリリィが息を吐いた刹那、人の声が届いた。
子に捨てられ 雀ば追い
草ば食み 飢えばしのぐ
寒風に乗って流れてきた声を、リリィは言葉として聞き取った。全身が粟立ったリリィは両腕を抱きながら周囲に視線を走らせる。全神経を目に集中したリリィは、木々の合間に人影があることを認識した。低い歌声とともに、それはゆっくりと近付いて来る。
地べたば這いずり 行き倒れようども
縋る神さえ 見当たらね
距離が狭まるにつれ、月の光が人間の姿を映し出した。瞠目したことで硬直が解け、リリィは一歩後ずさる。意味もなく開かれた唇からは恐怖のあまり声が出なかった。
ゆっくりと歩み寄って来る人間は、老婆であった。ぼさぼさに乱れた髪は白く、汚れた薄布をまとい、右手には調理用と思われる刃物を握りしめている。だが皺だらけの顔は、身なりに似つかわしくないほど穏やかな笑みを湛えていた。
老婆の顔を見てしまった刹那、リリィの胸には様々な感情が去来した。確実に距離を縮めている狂人を虚ろに見つめ、リリィは為す術なく立ち尽くす。
ああ 無情
この世には 神などいね
母親が我が子を愛でるような慈愛に満ちた表情で、老婆は刃物を振りかざす。死ぬつもりはなかったが老婆を殺そうという気も、リリィにはなかった。
「リリィ!!」
耳慣れた声を聞いたような気がした時から正気に返るまで、どれだけの時間が経過したのかリリィには分からなかった。しかし気がつけば、見慣れた横顔が視界に映っている。リリィはからからに渇いた喉を唾液で潤してから声を絞り出した。
「クロム……?」
クロムは、常の穏やかさからは想像もつかない険しさで空を睨んでいた。だがリリィの声に反応し、クロムは慌てた様子で振り返る。
「リリィさん、大丈夫ですか?」
リリィは半ば無意識に頷き、クロムに体を預けていることに気がつくと自力で立ち上がる。ふらつく頭を一度振ってから、リリィは改めてクロムを見た。
「どうして、ここにいるの?」
しかし問いの答えを得る前に、リリィはクロムの背後に異様な物体があることを認識した。釘付けになったリリィは闇のように黒い物体を指しながら尋ねる。
「あれ、何?」
「あ、リリィさん……!」
クロムが制止の声を上げた時、すでにリリィは物体が何であるかを確認してしまっていた。恐慌と錯乱が容赦なくリリィを蝕み、体がガタガタと震え出す。
「あっ、ああ……」
意味を持たない言葉を零しながらリリィは黒い物体から遠ざかった。だがリリィの目はしっかりと、焼け焦げた人間の末路を映している。
「あ、あああああああ!!」
感情の箍が外れてしまったリリィは夜空へ向け、滅茶苦茶な叫び声を放った。




