第六章 時劫の迷い子(5)
東の大国である大聖堂の本拠地は雪深い神山の八合目付近に存在する。大聖堂の本部は古代の人々が残した神殿をそのまま拠点として利用しており、神殿の周囲には新設の宿舎などが広がっている。しかしその佇まいは、大国の本拠地としては聊か閑散とした眺めであった。
その大聖堂の神殿を、要人が暮らす奥の院に向かって歩いている者がいた。長い石畳の廊下を規則的な歩幅で進んでいる者は軍服を身にまとい、腰まである長い黒髪を揺らしている。軍人らしく伸びた背筋で真っ直ぐに前を見据えている女は大聖堂の最高権力者である長老衆の近衛軍団長、ヴァイスである。ヴァイスは外部からの出入りを制限している奥の院で歩みを止め、ある部屋の前で佇んだ。
「失礼します」
扉は叩かず、ヴァイスは直立のまま声を張る。内部から返答があって初めて、ヴァイスは扉を開けて一礼した。ヴァイスの黒い瞳が映し出したのは執務机を前に座している一人の老人である。老体から気品を滲ませる彼は長老衆の筆頭に君臨している者であり、名をアベルといった。
大聖堂の創設者であり現在もすべての権力を掌握している長老衆には、厳密に言えば序列は存在しない。五人全てが同格であり、彼らは全員で執政を行っているのである。だがアベルに対してだけは、四人が四人とも一目を置いて接している。ヴァイスは長老衆全てに会ったことはないが、彼らの間に優劣があることは把握していた。
「座れ」
アベルの意を受けたヴァイスは一礼してから椅子へ腰を下ろした。椅子は室内の中央にぽつんと存在しており、対峙した彼らの姿はまるで喚問である。
「準備が整ったと聞いたが?」
先達て報告を受けていたアベルは確認のためにヴァイスを促す。背筋を伸ばしたままヴァイスはゆっくりと口火を切った。
「私が単身、シネラリアへ赴きます」
シネラリアとは大陸の北東に位置する小国である。軍事責任者であるヴァイスが北方独立国群の領土へ赴くということは侵略を意味しているが、ヴァイスが告げた内容が策と言うにはあまりに単純なものであったのでアベルは微かに眉根を寄せた。
「赴き、どうする?」
「これを使います」
ヴァイスが取り出した小瓶を掲げて見せるとアベルはさらに眉間の皺を深くした。
小瓶の中身は淡紅色の液体である。ヴァイスが「ローズマリーの秘薬」と呼ばれるものであることを告げるとアベルは不愉快を露わにしたが咎めはしなかった。小瓶をしまい、ヴァイスは淡々と話を続ける。
「シネラリアの内情はすでに把握しています。オラデルヘルから得た情報を基に探りを入れましたので、ほぼ確実かと」
大陸の西北に位置するポードレール湖に浮かぶ娯楽都市オラデルヘルは主人がシネラリアの出身である。内通者が身内の者であり、かつ、ヴァイスは提供された情報を十分に吟味していた。
軍を動かしての侵略戦争ではないので、アベルの顔には「やってみろ」という挑戦的な表情が浮かんでいた。アベルの意図を理解したヴァイスは立ち上がって一礼し、退出する。その後、ヴァイスは神殿を出ずに奥の院にある一室へと足を踏み入れた。室内でヴァイスを待っていたのは軍服姿の男女である。まだ十代である少女はヴァイスの姿を見るなり立ち上がって一礼したが二十代の青年はソファに足を投げ出したまま見向きもしなかった。
「アドリアーノ、無礼だぞ」
憤った口調でソファに横たわる青年をねめつける赤毛の少女は名をエルザという。軍服の詰襟をしっかり立たせている彼女は真面目な性格をありありと面に表していた。対して、南方に多い褐色の肌をした青年の名はアドリアーノという。彼はエルザとは対照的にやる気の欠片も見えない態度で億劫そうにヴァイスを見上げた。
「死に損ないどもは頷いたのか?」
「貴様! 叩き切ってやる!!」
ヴァイスへの礼を欠いたアドリアーノの態度に激昂したエルザは腰の剣に手をかけた。アドリアーノは目を細めてエルザを一瞥し、のっそりと起き上がる。
「死にたいらしいな」
「死ぬのは貴様だ!!」
エルザとアドリアーノの無意味なやりとりを傍観していたヴァイスは静かに二人の間に割って入り、エルザが抜いた剣を取り上げる。そしてそのまま、ヴァイスは抜き身の剣を己のうなじへ回した。
唐突なヴァイスの行動にエルザはあ然とし、アドリアーノも動きを止める。二人の視線を浴びながら、ヴァイスは涼しい表情で腰まである髪を切り落とした。
「すぐにでもシネラリアへ発つ」
短髪となったヴァイスはエルザとアドリアーノを一瞥して冷たく言い放った。女人禁制の国であるシネラリアへ入るには男装しなければならず、ヴァイスがそのために惜しげもなく髪を捨てたことを察したエルザは顔を歪める。
「ヴァイス様、やはりその任は私が……」
「ローズマリーの秘薬はあなたでは扱えない」
エルザの申し出を一蹴し、ヴァイスは険しい面持ちで二人を見下ろした。
「各々為すべきことがあるでしょう? 行きなさい」
拒絶にも近い態度で背を向け、ヴァイスは無表情に戻って歩き出した。
大聖堂領の東域に位置している捨山へ入ってから三度目となる露宿の火を、マイルは無言で見つめていた。場に緊張感が漂っているのは夜になると無口になるラーミラのせいであり、クロムは疲れた様子で目を閉ざしている。
「ラーミラさん」
三度目の夜にして初めて、マイルは口を開いた。硬い表情を崩さないまま、ラーミラはマイルに目線を傾ける。ラーミラの剣呑な視線に晒されたマイルは小さく息を吐いてから本題を口にした。
「そんなに、警戒するものですか?」
捨山とは、人間を捨てる山である。捨てられる人間というのは働き手にならない老人か病人のことであり、束になってかかろうともラーミラの方が強いだろう。その程度の認識しか持っていなかったマイルにとってラーミラの険しさは不可解なものであった。
ラーミラは少しだけ緊張を和らげ、それでも平素に比べれば硬い表情で答えた。
「この山への侵入者はね、みんな食料なのよ。マイルにならこの意味が分かるでしょう?」
ラーミラが言っていることを察したマイルは戦慄を覚えて硬直する。それは、言われてみれば当然のことであったがマイルには考えが及ばないことでもあった。ラーミラは弱々しい笑みを浮かべて話を続ける。
「飢饉の時なんかには稀に聞くけどね。人間、極限まで追いつめられると考えられないことでもするものよ」
「……確かに、そうですね」
「たぶんね、私の方が強いわ。でも、哀しい人たちを殺したくないじゃない? だから気を緩めたくないの」
ラーミラに諭されたマイルは捨山の異質性を改めて認識しながら己を恥じた。ラーミラは少し肩の力を抜いたまま話を遺物にまで言及する。
「もう少し行けば着くはずなんだけどね」
「そういえば、どういった経緯で発見された遺物なんですか?」
答えられない場合はラーミラも言わないのでマイルは気兼ねせず尋ねた。だが今回は秘密事項でもないらしく、ラーミラは簡単に口を割った。
「捨山がどういう場所か知らないで入った人がね、命からがら逃げ戻って来たの。山の中を逃げ回ってる時に遺物らしき物を見たんですって」
「それはまた、不確かな情報ですね」
「そうね。でも大きな洞窟にあるって言ってたから探すのは難しくないんじゃないかしら」
「洞窟、ですか……」
「横穴みたいだから、洞窟さえ見つければ調査は簡単よ。さ、そろそろ休んでちょうだい」
一晩中火を絶やさないために交代で見張るので、ラーミラはマイルを促した。マイルも話を切り上げて頷き、目を閉じることに微かな恐怖を覚えながら横になった。
ミラーの町をたった一日の滞在で後にしたリリィとコアは昼夜を問わず歩き詰めで北上し、捨山へと辿り着いた。リリィは口もきけないほど疲れきっていたがコアは平然とした調子で口を開く。
「けっこうしんどいだろ?」
コアが暗に言っているのはリリィが新たに装備した防具のことであった。両前腕には篭手、両足には脛当てを装備するとリリィの場合は総重量が二十キログラムも増すのである。そのため疲労が尋常ではなく、リリィはコアに反応を示すことも出来ないまま両手足を引きずるように歩き出した。
「やる気なのはいいがちょっと待て」
すれ違いざま、コアはリリィの襟首を掴んで引き止めた。勢いを止められてしまったことでわずかに残っていた気力が費え、リリィはその場に膝をつく。
「……仕方ねーな。少し休憩だ」
呆れたように言い置き、コアは荷物から取り出した水袋をリリィに差し出した。首を垂れたまま水袋を受け取ったリリィは口元まで運んだが顔を上げることが出来ず、諦めて脱力する。
「おいおい、そんなザマじゃ殺されるぞ」
「……誰に?」
コアの物騒な発言を不可解に思い、リリィは億劫ながらも顔を上げながら尋ねる。
「ああ、そういやお前には何も言ってなかったな」
呆れ顔をしていたコアは真顔に戻り、目前の低山を振り返って口火を切った。
「この山は捨山っつってな、働けなくなった老人や助かる見込みのない病人を捨てる場所なんだよ」
惨いという言葉では片付けられない現実を告げられたリリィは疲労を忘れた。衝撃的な内容のせいで頭は冴え、リリィは歯噛みする。
「弱者に拒否権はないって言っただろ? 酷いとか言うなよ」
リリィはコアの辛辣な言葉に己の体験を重ねたが、それでも納得は出来なかった。
「……それとこれとは違うと思うわ」
「弱さは罪だ」
コアの語気は鋭く言葉は断定的であった。リリィは憤りを感じながら閉口し、闇色の低山を睨み見る。
怠惰な弱さは罪である。しかし老いや病は自然のことであり、一緒くたに扱うべきではない。リリィはそう思ったがコアに反論するだけの言葉は持っていなかった。
「ここに捨てられた連中は体が不自由だ。つまり、狩りもままならない。そういう連中にとって遭難者は格好の食料ってわけだ」
人間は空を飛んだりしないしな、とコアは言う。コアが語った内容があまりに悍ましいものであったのでリリィは外気によるものではない寒さを感じた。リリィは思わず山から顔を背けたがコアは真顔のまま言葉を続ける。
「餓えと渇きは強い原動力だ。襲われたら、殺せ。躊躇したら死ぬぞ」
コアの教えはもはや戦場と変わらないものであり、リリィは再び低山を睨み見る。世の中の理不尽さに怒りが募ったが自身が無力であることを知っているリリィは震えながら拳を握りしめた。




