第一章 旅立ちは性急に(2)
礼拝堂へ到着して丸一日が経った夜が更けてから、コアはモルドの自室を訪れた。
「よお、オッサン。どうだい? 解読の方は」
「大方終わった」
疲れた様子で顔を上げ、モルドは傍へ来るよう手招きをする。蝋の薄暗い灯りの中、コアは目を細めてその内容を見た。
「……へえ。結構なことが書いてあんじゃん」
「ああ。そうだな」
「で、どうすんの? 引き続き黙示録を探せばいいのか?」
「先に発掘されている物と照合すると、おそらく黙示録を持っているのはキールだ」
「愚者の一人っすか……」
白旗を揚げたくなり、コアは頭上を仰いだ。
太古の昔、世界を統べていたのは全知全能の神であったと伝えられている。そして愚者とは神を殺した者たちであり、彼らの居場所を記すとされる書物が黙示録である。
堂々巡りの現実にコアは脱力したくなったがすぐに思い直し、体勢を立て直す。
「キールっつーと、箱艇の番人じゃん」
「そういうことになるな」
「あのお嬢ちゃんが血眼になって探してる奴だろ? どうすんだ?」
「好きにさせる。あれは止めて聞くような娘ではないからな」
「ま、確かに……」
気の強さが滲み出ているリリィの顔を思い浮かべコアは苦笑した。一言二言交わしただけでも、その性格はよく判る。
ふと、モルドが真面目な顔つきでいることに気が付きコアも表情を改めた。
「あの子を頼めるか?」
真顔のモルドにコアは少し唇の端を引いて答える。
「愚問だぜ、オッサン。一体何年の付き合いだ?」
「……そうだったな。すまない」
「一般人が単独で行動するには危険すぎる。そう思ったからこそ、今になって引き取ったりしたんだろ?」
「あの子達には知る権利がある。それを阻むことは誰にも出来ない」
「あんたみたいな奴が口にしなきゃ分かる訳がないことだぜ? 人の好さも相変わらずだな」
「人間の運命など既に決まっていると言うのなら、そういう生き方も悪くあるまい?」
「……まあな。オッサンのそういうとこ、嫌いじゃないぜ」
「礼を言うべきかな?」
自分達のやりとりに苦笑に似た笑いを交してから、コアは表情を改めた。
「んで、大聖堂には何て?」
「ありのままを伝えるさ」
「お堅い連中がオッサンの半分でも柔和になってくれたらな。俺も気苦労はないんだが」
「仕方のないことだ。誰でも死にたくはないだろう」
「あの年齢でまだ生に執着するかね。 ……おっと、これは失言だったな」
「嫌味はわたしのいない場所で叩いてくれ」
不敬罪の共犯にされてはたまらないと、モルドは言う。真顔の冗談にコアは渇いた笑みを浮かべながら差し出された紙片を受け取った。
「じゃあ、これは受け取っておくぜ」
「よろしく頼む」
古びた紙切れを丁重に懐にしまい、コアはモルドの部屋を後にした。寝静まって誰もいない廊下に出るなり、煙管に火を入れる。
(厄介だな……)
黙示録を探す手掛かりを求めて、辿り着いたのは愚者の一人。愚者を探す為に黙示録を探していたのに、これでは意味がない。
(振り出しに戻った、ってことか)
ちっと舌打ちをして、コアは煙を吐き出した。白い靄の向こうに月が見えて、何とはなしに足を止める。
手を伸ばせば届きそうなのに、それは遥か彼方にあって掴むことは出来ない。そのくせ、逃げても逃げても追ってくる。
(嫌な奴だ)
右手の中指を立て反抗するコアの耳に暗闇から笑い声が届いた。
「あんた、何やってんの?」
呆れたように声をかけてきたのは、リリィ。一緒にいるのはチョコレート色の髪をした女で、コアはカレンという名を記憶から引き出した。肺に吸い込まれた煙を細くなびかせ、コアはそ知らぬ顔で口を開く。
「いいじゃねーか。憎たらしい奴だと思ったんだから」
「何が?」
「月」
キョトンとした表情をした後、リリィも吹き出した。
「馬鹿じゃないの?」
笑い続ける二人をよそに、コアは煙管を逆さまにし燃え尽きた灰を地に落とした。直後、突然降ってきた衝撃にコアはあ然としながら瞬きを繰り返す。
「神様のいらっしゃる所ですから無作法はいけません。青の間を汚したのもそれですね? 掃除をする者が大変ですので汚さないで下さい」
ニッコリ笑って水桶を隅に置き、カレンは闇に姿を消した。煙管を腰に差し濡れて張り付いた前髪を掻き上げてから、コアは正直な感想を述べる。
「……こえーな」
「逆らわない方がいいわよ。あの子、結構過激だから」
応えたリリィの口調に棘は含まれていない。しかし視線を感じたのか、すぐに仏頂面に戻ってしまった。
「……何?」
「いや、先が思いやられるなと思って」
「何の話よ?」
「明日にでも解る」
解せないといった表情のリリィを促して、中庭へ出た。観賞用に置かれている巨石に腰を下ろし、コアは視線を転じる。
「一つ、聞いておきたいことがあるんだが」
「何?」
「あんたの覚悟ってのは、どのくらいのもんなんだ?」
「どのくらいって言われても……」
「何でもいい、あんたの覚悟とやらを俺に見せてくれないか」
「どうしてアンタに見せなきゃいけないのよ?」
少し憤った口調で振り返ったリリィはすぐに口を噤んだ。コアは真顔のまま答えを待つ。
「……言う通りにすれば、教えてくれるの?」
しばらくの沈黙の後、リリィはそう切り出した。答えにはなっていなかったがコアは応じる。
「教えるのは俺じゃない。だが無関係ではないことだけは言っておく」
「何をすればいいの?」
少しでも明確なものには縋りたいらしく、リリィは真っ直ぐに見上げてきた。方法を尋ねたのは、言葉では何を言っても薄っぺらいものになってしまうと思ったからだろう。
なかなか肝が据わった発言に、コアは薄く笑んだ。それから腰に差している短刀を引き抜き、白刃を放る。
無言で、リリィが抜き身の短刀を拾った。そのまま地に膝をつき、見せるように左手を広げ地面に押し付ける。震えているかどうかは、距離があるので判らなかった。
右手に短刀を握りしめ、リリィは地面に押し当てた己の左手に意識を注いでいた。
緊張が高まり息遣いが荒く、次第に視界まで窄まってきている。それでもリリィは目を背けなかった。
得体の知れない男とモルドは、何かを知っている。もはや確信として、リリィはそう感じていた。そしてこの男の言うことに従えば情報が得られるかもしれないという思いだけが、震えそうになっている心を支えている。
故郷は焼け野原となっていたが、リリィは死体を見ていなかった。そして、空飛ぶ艇と村が焼かれたことと関係があるのかもはっきりとは分かっていない。だが大切なものを一瞬で奪い去られたという行き場のない恨みは、何年経っても消えはしなかった。
(私は、カレンのようにはなれない)
カレンはすでに過去から一線を引き、割り切っている。だがリリィはどうしても、故郷が壊滅しなければならなかった理由を知りたかった。
(真実を、知りたい)
深く息を吸った後、リリィは己の手の甲に短刀を突き立てた。
「……あんたの覚悟、見せてもらったぜ」
余裕のある声には笑みが含まれていた。リリィは気に食わないと思ったが初めて経験する痛みが頭をかき混ぜていて、右手の震えが止まらない。
冷たい指が右手に触れて、リリィは顔を上げた。なかなか焦点の合わない視界に映ったのは、前髪を後ろに撫で付けた男の影。
物の輪郭がはっきりしてきた頃には左手が解放されていた。右手は短刀を握った形のまま固まっていて、しかしリリィの手中に刃はない。
「傷がある方の手を高く上げろ。そうすりゃあんまり出血しない」
指示されるがまま、リリィは左腕を高く上げた。手の甲からの出血が垂れ流れてきて、肩口まで赤く染まっていく。
「ああ、そこまで高くしなくていい。心臓より高けりゃいいんだ」
男の言葉に、今度は肘を曲げる。顔の横に据えた左手の傷が視界に入り、リリィは寒気を覚えた。
「傷口が膿むかもしれないな。後でちゃんと手当てしてもらえよ」
平然と声を投げてくる男の顔を、リリィは改めて見た。目が合って、男はニッと笑う。
「まだちゃんと自己紹介もしてなかったな。俺はコア、よろしく」
この男は、最悪だ。その呟きは声にならず、リリィは無言で顔を引きつらせた。
モルドが自室として使用している部屋は礼拝堂や宿舎がある場所からは離れた所にあり、石畳の通路で繋がっている。人気のない夜の通路に佇み一つ息を吐いてから、カレンは扉を軽く叩いた。
「失礼します」
室内に侵入すると同時に振り返ったモルドの顔に蝋の淡い影が揺らぐ。疲労の色を感じ取りカレンは少しだけ眉根を寄せた。
「カレンか、どうした?」
「お休みになられるところでした?」
「いや」
「お茶を……良い物を戴きましたので、お持ちしようかと」
「それはいい。扉を閉めてこちらへ来なさい」
「……はい」
振り向いて扉を閉めてから、カレンはゆっくり傍へ寄った。
モルドはすでに、来訪の理由を察している。そう感じ、カレンは息を吐いてから問いを口にした。
「リリィのことですが……お尋ねしてもよろしいですか?」
「ああ」
「彼女をお引取りになったのは、真実を教えるためなのですか?」
モルドが一瞬、躊躇したようにカレンは思った。だが再び目を上げた時にはモルドは何の感情も表してはいなかった。
「カレン、お前も知りたいと思うか?」
少し考えてから、カレンはありのままの想いを伝えることにした。
「私は……確かに知りたいという気持ちもありますが、それよりも大切なことをここに来て教えられました。私は、今の生活に満足しています。けれど、あの子は違う。放っておいても自ら求めるものの答えを探しに行ってしまうでしょう。 ……昔から、そういうことには頑固なんです」
「あの娘との付き合いは長くはないが、それはわたしも承知している」
「では、どうお考えなのですか? リリィをどうなさりたいのです?」
「あの娘にもお前にも、当事者として知る権利がある。明日、それを話そう。それからどうするかはお前達が自身で決めることだ」
息を呑み、カレンは言葉を失う。明確な答えをもらったのは初めてのことで、それはモルドの覚悟を示しているように思えた。
「明朝、リリィと共にここへ来なさい」
「……はい。そう、伝えておきます」
話を終え、カレンは一礼してから背を向けた。立ち去る前に扉に手を掛けたまま、動きを止める。
「少し、痩せましたね」
「かもしれんな」
「ちゃんとお休みになられて下さいね。倒れでもしたら、大変です」
「心配ない」
「おやすみなさい、モルド様」
「ああ、お休み」
どんな感情も含まない科白を少し寂しく思いながら、カレンはゆっくりと扉を閉ざした。




