第二百七十六話 百鬼夜行 2
7451年4月1日
夕刻。
ロンベルト王国南部。
ガソレイン子爵領にある街、ギルゼン。
ギルゼンの街は南北に走るコリドーク街道によって縦断されている。
今、そのギルゼンの周囲に広がっている耕作地に、北側から近づく者がいた。
一頭の軍馬を駆る女だ。
女は片手に幼児を抱え、必死の形相で手綱を操っている。
見れば、矢傷や刀傷も受けているようで、着ているものも鎧ではなくただの平服だ。
「おい、あれ」
「ん? ありゃ、キリスお嬢様か?」
畑に麦の種を蒔いている農奴達が女の名を口にする。
女はこのギルゼンの街の領主、バイルズ准男爵家の長女であり、五年近く前にガソレイン子爵騎士団を退団してギルゼンの北にある村に輿入れしていた筈である。
そして二年半ほど前に待望の男子を産んでいた。
「お嬢様!」
農奴達の声に硬い顔を向けつつも返事はせず、しかしどこか安心した表情を浮かべて女は乗馬に鞭を入れた。
「なんだぁ、ありゃ? お怪我をなさっていたようだが?」
つい先日、息子のお披露目に里帰りをしたキリスは始終ニコニコ顔であり、農奴達にも気さくに声を掛け、また声を掛けられたら笑って応対をしていた。
だが、今の様相は以前とは全く違っている。
「何にしても、ただごとじゃねぇな」
「魔物の襲撃か?」
「逃げて来られたのか? でも、供もつけずに?」
「ご主人様ンとこ、行って来る」
「おう、頼まぁ」
「もう時間も時間だし、こっちは念の為に片付けて上がっとく」
魔物の襲撃は滅多にないが、それは裏を返せばごく稀にはあるという事でもある。
四〇〇〇を超える人口を擁する街に住んではいても、年長の農奴なら今までの人生で一度くらいは魔物の姿を見た事のある者も珍しくはない。
ただならぬ様相であったキリスの姿を見て、農奴達の行動は素早かった。
また、キリスの方も実家である領主の館に向かって馬をひた走らせていた。
夕暮れが迫る街なかを、彼女と息子を背にした軍馬が駆け抜けていく。
いつもなら下々にも愛想よく振る舞っていたお嬢様の鬼気迫る様子に、街の者は進んで声を張り上げて道を空けている。
そして、実家の門を守る衛士がものすごい勢いで駆けてくる軍馬に気がついて槍を交差させた所でやっと止まった。
「お、お嬢様!?」
驚く衛士達にキリスは「報告が。お父様は!? お兄様でもいい! 居るの!? 通しなさい!」と怒鳴る。
顔を見合わせる衛士達もキリスの勢いに押されるかのように手にした槍を持ち直し、母屋に向かってキリスの来訪を叫んだ。
「おい、キリスじゃないか? 一体どうした?」
騎乗したまま母屋に向かおうとするキリスに声を掛けたのは、タイミングよく厩から出てきた彼女の兄である。
今は街の衛士隊の隊長をしているが、もうあと一〇年もしたら父親の跡を継いで准男爵として襲爵する事が内定している豪の者だ。
「お、お兄様! 一大事です! 村が、村が襲われました!」
キリスは兄に向かって叫ぶ。
彼女に抱えられていた男児が目を覚まし、泣き始めた。
「何だと!? 魔物か!?」
兄は顔色を変えて問い糾すが、内容が内容なので無理もないだろう。
「魔物……そう、魔物でしょうね、あれは」
「どういうことだ? しっかり話せ!」
「お義父様もお義母様もアシュレーも、私とこの子を逃がすために……ううっ」
「怪我をしているじゃないか! 降りろ。ディーンは……無事みたいだな」
兄はキリスから甥を受け取ると、何事かと遠巻きに見守っていた衛士達に命じてキリスを馬から降ろさせた。
「これしきの傷、私は大丈夫。それよりも早く村に……アシュレーを助けて!」
「それは任せておけ! だがその前に詳しく話すんだ。まず、カイエル村を襲った魔物の種類と数だ」
「…… 。そうよ、あれはアンデッドだわ。沢山の、一〇〇人以上のアンデッドが村に……ああ、早く、早く助けに行って!」
「な!? アンデッドが一〇〇以上だと……!? そんな……」
キリスの報告に兄が絶句する。
人里から少し離れた場所に現れる魔物の中には亡者もいると言われている。
それらは関所破りをしようとして魔物に捕捉され、殺された者の中でも大きな未練を抱えたような者の成れの果てとも言われており、数年に一度くらいは深い森の中などで発見の報告が上がる魔物だ。
ゴブリンやノール程にポピュラーな魔物とまでは言い難いが、人里に近づくような事は滅多になく、事実としてこのガソレイン子爵領内ではアンデッドが村などを襲ったという記録はない。
アンデッドは大別して幾つかの種類に分類される。
分類方法も何種類かあるが、オースで一般的なものの一つに移動範囲に基づく分類がある。
一つは出現しても出現位置からあまり遠くまで行かない物。
そしてもう一つは何らかの理由がない限り出現位置にはあまり拘らない物である。
先の例は生ける屍や骸骨、食屍鬼、幽霊などで、アンデッドの中でも比較的与し易い――走って逃げれば逃げられる事が多い――物が多いが、当然例外も多い。
また、後の例は悪霊、死霊、亡霊、吸血鬼など、前者と比べて討伐が困難な物であると同時に複数体が同時に出現する傾向も低いのだが、こちらも当然例外はある、と言うより前者も後者もむしろ例外だらけとも言える。
あくまでも「強いて言うならその傾向が強いと言えなくない。かろうじて半数よりも多いだろう」というだけだ。
「本当なの!」
「ああ、本当だろうさ。落ち着け」
兄は妹がつまらない嘘を言うとは思っていない。
「ごめんなさい……落ち着いたわ」
元々兄と同様に子爵領の騎士団で正騎士の叙任も受けていたキリスである。
深呼吸一つで慌てた様子はなくなった。
「……それでアンデッドの種類は?」
「あれは……多分ゾンビね。ゾンビだと思うけど初めて見たから良く分からないわ」
妹の答えに兄は内心で僅かに安堵した。
ゾンビは動きが鈍く、頭もゴブリン以下。
多少はタフだが結構簡単に退治が可能な、謂わばアンデッドの中でも一番倒しやすい魔物だからだ。
例え一〇〇以上の数であろうと、騎士団で教わった通りのゾンビならば彼の率いる合計三〇名になる衛士隊ならば何とか出来るだろう。
「わかった。他には居ないんだな?」
兄の声には願望の色が濃い。
だが、それも当然だろう。
「……居る。ゾンビを操っている人が居たわ」
「何だと!? 人がアンデッドを!?」
アンデッドは種類にもよるが、基本的にあらゆる生命を憎んでいるというのは、どこの騎士団でも教えている。
「ええ。そして、ゾンビ達に声を出して命じていたわ。ゾンビみたいに傷だらけの体じゃなくて、ちゃんとドレスも着ていたし、だから生きている人だと……」
「どういう事だ?」
言いにくそうに言うキリスの言葉に兄は僅かに苛つき、つい口調もそれを咎めるような感じになった。
「ごめんなさい。でもすごく言いにくいの」
「だからどういう事だと聞いている。お前、そいつに心当たりでも……」
「うん」
「何?」
「ひと月、じゃない……ひと月半? ふた月くらい前だったかな。ダンカン王子殿下が西ダートまで行くと仰られてお通りになられた事を覚えてる?」
「ああ、だがそれどうした? 何か関係が……」
「あの時殿下にご一緒されていた方が、丁度今頃西ダートのグリード侯爵にミマイルという姫が向かうと言っていたわ」
「それは知っている。まさかお前……!」
「そうよ。ゾンビを操っていた人は女性で、自分の事をミマイル……家名の方は何と言っていたかしら……でも、グリード侯爵に会う為にどうのこうのって言っていたわ」
「……」
キリスの言葉に兄は二の句が継げなかったが、直後に我を取り戻した。
「それが本当なら大問題だ。もっと詳しく話せ。事と次第によってはガソレイン閣下から王家に抗議して頂く必要がある」
兄の言葉は貴族として当然のものだ。
これで何も言わない貴族は貴族ではない。
「大丈夫。それは父上に話せ。俺はすぐに衛士隊をまとめてカイエル村に急行する」
妹に甥を返しながら兄は優しい顔で微笑んだ。
そして、すぐに表情を引き締め直すと衛士達に「半時以内に衛士隊を全員、完全武装で集合させろ! アンデッドに襲われたカイエル村を救いに行くぞ!」と命じた。
また、一時間もしないうちに事情を把握したバイルズ准男爵によって、三名からなる伝令がガソレイン子爵に対して進発していった。
・・・・・・・・・
夜。
べグリッツの領主の館。
半月後に迫ったミマイルとの婚礼の打ち合わせを終え、アルとミヅチが護衛を伴って帰ってきた。
「お帰りなさいませ」
玄関まで出迎える家令のパットに二人が帰宅を告げようとした時。
「申し訳ございません。アルソン様がお怪我を……」
パットが全部言う前にアルとミヅチは「な!? 何があったっ!?」と靴も脱がずに家の中へ駆け込んだ。
護衛についていたダークエルフの一位戦士、カルサスロスすら反応が出来ない程の勢いだ。
「アルソン!」
息子の名を叫びながら二人は居間へ向かう。
彼らの脳内に展開された【部隊編成】によれば居間にいるはずだからだ。
居間ではメイドのアイーダがアルソンの寝ている揺り籠の脇で立ち上がった所だ。
二人の叫び声や家内を駆ける物音に驚いたのだのだろう。
アルソンの護衛についていたダークエルフの戦士も剣の柄に手を掛けて腰を落としている。
「あ~」
サストーレが持ったままのガラガラに向けて手を伸ばすアルソンは楽しそうに笑っていた。
「「怪我は!?」」
血相を変えて居間に飛び込んだ二人は同時に叫び声を上げながら息子に駆け寄った。
二人の勢いに押され、しどろもどろになりながら報告するサストーレによると、僅か三〇分程前に居間の中を這っていたアルソンが机の脚に頭をぶつけてしまったとの事であった。
アルソンの額には、事情を聞いた上で良く見てもわからない程に小さな傷があった。
「大したことがなくて良かった……」
二人は胸を撫で下ろし、家令に叱られるまま靴を脱いで戻る。
彼らの後をメイドのソフィーが拭き掃除をしながら追っていた。
居間に戻った二人にアイーダが頭を下げて詫びるが、二人は「大したこともないし、気にしないでくれ。それより、驚かせて済まなかった」と逆に詫び、アルソンを抱き上げて撫でている。
アルは「アルソ~ン、父ちゃんだぞ~」と抱いた我が子に頬ずりをして泣かれ、ミヅチにもぎ取られた。
「おお、お父さんのお髭は痛かったねぇ。よしよし」
同じ頬ずりでもアルソンはアルよりもミヅチを好むらしく、すぐに機嫌が良くなる。
アルは「もう夕方だしな……でもそんなに痛いかね」と自分の頬を擦りながらもニコニコとしてアルソンの顔に微笑みかけた。
「赤ちゃんの肌は敏感だしね……」
そう言いながらミヅチはアルソンを抱いたままソファに腰を下ろし、治癒魔術への精神集中を始めた。
毛の一筋ほどの傷すらも容認できないのであろう。
それはアルの方も同様であったようで、魔術光を宿したままの右手を持て余している。
「痛かったねぇ。でもよく我慢できてえらいねぇ~」
そう言いながらミヅチは息子の顔を見つめる。
アルソンもミヅチを見ている。
「アルソ~ン、父ちゃんの方も見てくれよぉ」
だらしのない声でアルが話しかけるが、二人は見つめ合ったままだ。
「ん? どうした?」
僅かに真剣味を帯びた声でアルがミヅチに尋ねる。
【部隊編成】がキャンセルされたためだ。
「ん、別に……アルソンは今日もかわいいね。そろそろおっぱい飲む?」
「じゃあ、俺は風呂入れて来るわ……」
苦笑いを浮かべてアルは居間を出ていった。
・・・・・・・・・
深夜。
ガソレイン子爵領、カイエル村。
「ふふ。全く眠くならない体というのも考えてみれば便利ね……」
馬車から移動させた明かりの魔道具を灯し、領主の館の居間でミマイルが爪を研ぎながら寛いでいる。
その肌は血の気が失われており、まるで蝋のように白くなっている。
が、未だヒュームの範疇を出てはいない。
一見しただけでは病的な程に肌が白いだけの人に見える。
「お腹も空かないし、これはこれで……」
薄笑いを浮かべる顔には金色に変色した瞳が輝いているが、眼球の強膜(白目)の部分は充血しているのか赤黒くなりつつあった。
「ああ、アレイン様。今暫くです。ミマイルはダート平原に巣食う魔物をすら打ち倒せる程の力を手に入れました。必ずやお役に……」
その時、ゴンゴンと居間への扉を叩く音がした。
「誰?」
扉の方には目を向けず、明かりの魔道具の光に爪を当てながら答える。
「……」
非常に小さな声で返事がなされたようだ。
「まぁいいわ。入りなさい」
許しを得て居間に足を踏み入れたのは馬車隊の護衛隊長だ。
あちこちに刀傷を受け、体中に乾いた血液がこびりつき、着ている鎧も傷や汚れが目立つ。
「……」
隊長はミマイルの傍に跪き、何事か報告をしているようだ。
「ふぅん。まだ生きてるんだ。連れてき……いいわ、私が行く」
ミマイルは椅子から立ち上がると優雅な足取りで居間を後にした。
館の外では傷を負った一人の男が、これまた傷だらけの兵士らしきものに両腕を拘束されたまま跪かされている。
男はアンデッドからカイエル村を解放するために手勢を引き連れてやってきたキリスの兄であった。
「ぐっ……も、もしやミマイル様か?」
「ええ」
「な、なんと! ミマイル様、これは一体どういう事ですか!?」
「何がです?」
「うっ……この者らは亡者ですよね?」
「そうみたいですね」
「何故です!?」
「神の思し召しかしらね」
「な……?」
「あなた、うるさいですね」
そう言うとミマイルは左手で男の髪を掴んで固定し、右手の人差指を男のこめかみに突き立てた。
男が抗議の声を上げる間もない、眼を見張るほどの早業である。
指はほとんど抵抗なく男のこめかみに潜り込む。
「あっ、あっ、あっ……あがががっ!」
ミマイルが右手の指先を動かす度に男の口から声が漏れる。
「あなた、お名前は?」
「へあっ……バイルズ……ハーダー・バイルズ……」
「変な声が出るわね……これ、やっぱり難し……」
ミマイルは男の頭に差し込んだ指をぐりぐりと動かす。
その度に男は声を漏らす。
「……ん、ここかな?」
何か異なる感触でも受けたのか、ミマイルは表情を変えた。
「ステータス・オープン……ん、合ってる。士爵……貴族か」
視界に浮かぶ男のステータスウィンドウを見て僅かに満足気な表情が浮かぶ。
「家族はいる?」
「……妻と息子が一人……」
「それだけ?」
「両親も……あとは嫁に出た妹が一人」
「ふーん。それで、ここには貴方を含めて何人で来たの?」
「……三四人……」
そこまで聞いたミマイルは傍に控えたままの隊長に夕方襲いかかってきた男の仲間は何人だったか尋ねた。
三四人、との答えに十分な満足感を得られたようで笑みを深める。
「ふふ。生きてると随分楽ね……」
そう言いながらもミマイルは表情を僅かに不満気なものに改めると、男の頭から指を引き抜いた。
男は「あひっ……へうっ……」と声を漏らしつつ痙攣している。
「情報は取らなきゃ……ロボトニーを連れてきて」
数分後に現れたロボトニー伯爵の側頭部には幾つもの穴が空いているが、大量の血は垂れていないようで、着ている服に汚れは目立たない。




