第二百四十八話 聖遺物
7450年11月9日
「ん……ちゅ♡」
「くぅ……はぁ……はぁ……ミヅチ……」
真っ暗な寝室に荒い吐息が木霊する。
いい感じになったその時。
「ぶあああぁぁぁっ! ああぁぁぁっ!!」
夜の静寂を引き裂くよう泣き声が屋敷に響き渡った。
その声は分厚い寝室の扉をすら貫いて二人の鼓膜に届く。
「あ、アルソン!? ちょ、ごめん、お腹空いたのかも……」
「え? 哺乳瓶二本あんだろ? サストーレもテフラコリンもいるんだし、任せとけよ」
「でも……」
「んっ、何のために女中がいんだよ?」
「そ、そうだ……あっ♡ ……けど、あんっ♡」
「な? 大丈夫だって……ちゅ、はむ♡」
「もう、よしてって言ってるでしょ? お乳あげてくるから。ほらどいて」
「えっ?」
「早くどいてよ、ほら。あとガウン取って」
「ええ~?」
「もう、飲ませたらすぐ戻ってくるから。ね?」
「だって……」
「ちょっとの間だから我慢してよ。私だって……」
「ん、そうだな……すまん」
灯りの魔道具に光が灯り、女は手早くガウンを引っ掛けると足早に寝室を出ていった。
「……こういう事がないように住み込みで雇ったんだけどなぁ……もっと防音考えるべきだったな、こりゃあ……なんとかしないと」
男のぼやき声だけが寝室に虚しく響く。
・・・・・・・・・・
7450年11月10日
デーバス王国の首都、ランドグリーズ。
その一角に建つダンテス公爵の王都屋敷の客間に、一人の壮年の男が招かれていた。
男の名はロボトニー伯爵。
王国の金杯と呼ばれる宮廷魔術師達の長を務める人物だ。
細いペンシル型の口髭の中央に隙間を入れる、俗に“ゾロ”と呼ばれる口髭と平均的な身長ながら筋肉質のがっしりとした体型が特徴的である。
「それで、人数の確保については進んでいるのだろうな?」
屋敷の主であるダンテス公爵が尊大な口調で尋ねた。
「は。既に一二パーティー、合計一〇四名から参加の確約を……」
「ふむ」
「勿論、全員の背後関係を洗った上で、口が固そうな者を選んで声を掛けています。従いまして半数程はベンケリシュでも中の下程度の実力にしか過ぎませんが、最低でも攻撃魔術が使える者を複数抱えている事を条件にしていますし、一人殺す毎に懸賞金を払うと言っていますから、全く役立たずで終わることはないでしょう」
伯爵は片方の口の端を釣り上げるような顔をして言った。
それによって歪んだ口髭が、年齢相応に苦み走った印象を加えている。
「ほう? と言うと、残り半数は中以上の実力ということか?」
公爵は少し意外そうな顔と声音になった。
「ええ。金で靡かない者も多いのですが……」
「……信頼できるのか?」
「信頼? そんなこと、できる訳がありません」
「どういう事だ?」
眉間に皺を寄せ、更に不可解そうな顔をする公爵。
どうやら公爵は言葉が持つ意味についてはあまり造詣が深い質ではないようだ。
「信頼はできませんが、一定の信用は置けます」
「?」
「ある程度以上の実力のある者達は金よりも価値のあるもので釣りました」
「金よりも……?」
「今回の仕事が終わったら仕官させてやるとも言いました……」
「なるほど」
金よりも価値があるとは仕官の口であったかと公爵は納得しかけた。
「……それで靡いた者は少なかったのですがね」
「少なかったのか?」
「ええ。ですが、まぁ、これは予想通りでもありました」
驚いたような声を上げる公爵に対し、伯爵は事も無げな様子で肩を竦めつつ返答した。
公爵としては王国軍の軍人、又は役人として務められるのであれば、確かに金よりも価値がある、と思ったのだが、どうやらそうではなかったようだ。
「とすると、残りの大部分は一体どうやって……?」
「ですが、なぁに。もっと魅力的な提案をしたら、ベンケリシュのトップクラスは全部食いつきましたよ」
「……と言うと?」
「魔術です。魔術を餌にしました」
「は? 魔術だと?」
「はい。迷宮に潜っている冒険者にとって、有用だとされている魔術は幾つかありますが、特に治癒系統の魔術について、彼らは生命線と捉えています」
「ほう……」
怪我の治癒を可能とする治癒魔術は、一般的な迷宮冒険者にとって最重要と言われている。
勿論、攻撃魔術や水を作り出せるという事も重要ではあるのだが、探索中に失われると絶対に補充の利かないものがある。
戦力だ。
戦力の維持という点を重要視する冒険者にとって最重要なのは怪我人を戦線に復帰させることを可能とする治癒魔術なのだ。
迷宮内で怪我を負い、治癒できないと生命の危険は元より、その冒険行はその場で終了を意味する。
しかし、多少時間が掛かったとしても治癒が可能なのであればもっと先へ進む事が可能になる。
また、その場での治癒を諦めて退却したとしても再挑戦までのインターバルは治癒魔術が使えない者達と比較して劇的に短くて済む。
これが治癒魔術が最重要とされる所以である。
伯爵はそれらのことを説明し公爵に理解させた。
「私はこう見えて治癒魔術もそれなりに得意でしてね。御存知の通り完全治癒を使える事は結構知られています」
伯爵は過去に出征した戦場において、完全治癒の魔術で何人かの命を救っている。
勿論、彼程の大物が貴重な、そして大量の魔力を注ぎ込むに値するのは貴族階級に限られてはいたが。
しかしながら、かなり酷い重傷患者をもたちどころに治し、どうにか自力で歩ける程度にまで回復させる魔術の技は、限られたごく僅かの実力者にしか使うことの出来ない、奇跡に近い非常に高度な魔導の技なのだ。
何しろ発動までに多少の時間が掛かったとしても完全治癒の魔術さえ使えるのであれば即死級を除く殆ど全ての傷に対処が可能となる。
本当にごく一部の上澄みを除く、ほぼ全ての冒険者が欲する魔術知識と断じても言い過ぎではない。
治癒師も致命傷治癒以上の治癒魔術を使う際には毛布などで使用現場を目隠しするのは当然であるし、弟子に対しても目隠し耳栓を要求する程に重要な飯の種だ。
「致命傷治癒と完全治癒、そして各種バリスタクラスの攻撃魔術の実演と指導を餌にしたんです。思った通り、結構簡単に釣れました。入れ喰いと言っても良かったですね」
これだけの魔術の実演はともかく、指導までをセットにされたら大抵の冒険者は釣られてしまうのはある意味で当然と言えた。
また、冒険者なら誰もがその名を知る国家の中枢人物自らが直接声を掛け、報酬を約束した事も大きい。
話を聞いた冒険者達は全員が「国にとってそれ程に重要な仕事である」と認識し「だからこその高報酬だ」と納得した。
当然だが、高度な治癒魔術は別に秘匿などされていないし、知識の流布に制限などはない。
だが、相応の礼もなしに教える程のお人好しなど存在しないのもまた確かであった。
そもそも実演して見せたり、指導したりしたところで、魔法の特殊技能が必要レベル未満であれば……。
全く、とまでは言えないだろうが、殆ど意味はないのだ。
しかしながら、魔法の特殊技能が必要レベルに達していたり、もう少しで達する辺りであればその価値は大変なものだと言える。
まさにトップクラスの冒険者であれば喉から手が出る程だろう。
「……そうか。では頭数は揃ったのだな?」
「勿論です」
「そなたの方の準備はどうか?」
「いつでも行けますよ」
「わかった。では冒険者共を纏めて、集結地へ行っておけ。これがストールズ公爵領内の通行証だ」
「は。有り難く」
「うむ。集結地へは追って伝令と案内の者が往く。それまでは適当に連携訓練でもさせておくがよい」
「わかりました。では」
「ああ、期待しているぞ」
「この金杯に、安んじてお任せあれ」
伯爵は気障な一礼を残して公爵邸を後にした。
「……ダークエルフ共も明日明後日には報告できると言ってきたし、なかなか順調に進んでいるな」
執務室へと移動しながら公爵は小さな声で呟いた。
「何か?」
ぼそぼそという小声が聞こえたのか、公爵付きの側仕えが疑問を口にする。
「なんでもない」
冷たい返答を返しながら、公爵は「この件が上手く運べば、大臣級とまでは行かぬかもしれぬが、副大臣級なら一つくらいは我がダンテス家に連なる者に取って替えられるだろう」とほくそ笑んだ。
・・・・・・・・・
7450年11月12日
屋敷で昼食を摂った後、アルソンにおっぱいをやっているミヅチと一緒にお茶を愉しんでいた。
「あ、そういえば」
右胸から左胸へとアルソンを抱き変えながらミヅチは突然何か思い出したように声を出した。
「ん?」
『私、どのくらい体力戻ってる?』
『ああ……ん? 俊敏が一ポイント戻ってる。これで全部マイナス二になったな』
一応毎晩鑑定して確認しているが、出産直後は半分くらいに落ち込んでいた各能力値は最初の一週間くらいで四分の三くらいに戻り、次の一週間でどれも元の値から三~四低い程度まで回復していた。
その後も少しづつ戻り続け、昨日の晩確認した時には俊敏だけが元の値のマイナス三で、後は全てマイナス二にまで回復していたのだ。
因みに腕力や俊敏などが回復するタイミングは睡眠中であることが殆どのようだが、最初の頃は真っ昼間、起きている時でも回復していたみたいなので正確にどうなのかはよくわからない。
姉貴やシャーニ義姉さんと比較すると出産で失われた体力の回復速度はミヅチの方がずっと早い。
彼女らも普段からそれなりに体を鍛えてはいたと思うが、毎日二〇㎞のランニングや各種体操まではしていなかったし、模擬戦だってミヅチは俺を相手にしていたのだから、鍛え方が違う、と言うところだろうか?
それとも、転生者だからか?
思い起こせば親戚や会社の女性でも出産後二週間程度で見た目は普通に働いていた人が多かったように……それはオースの人も同じだった。
これは、多用途の指輪の回復効果もあるのかもしれない。
そうではないかもしれないが、何にしても他の経産婦の回復速度の何倍もの早さで回復してくれたのは単純に喜ばしいことだ。
だからこそ、充実したナイト・ライフが復活できたのだろうし。
ん? 勿論ミヅチの方から誘ってきたからこそ俺もその気になったんだ。
流石に俺から手を出したりなんかしないさ。
『そう。なら来月くらいからまた訓練に戻れそうね』
『ん~、そうかも知れないけど、くれぐれも無理はすんなよ?』
生前、出産後に大きな病気を患って入院し、それに伴って子供への授乳ができなくなった事で出産後一年程度でおっぱいが出なくなったと泣いていた従姉妹を思い出した。
焦って無理な事はさせたくない。
家令のバルトロメの言葉によると、平均的には生後半年くらいまで授乳させる事が一般的だそうだ。
マリーやグレースによると日本人の平均だと一歳半から二歳くらいまで授乳させるのが普通らしい。
俺の場合は一歳になる前に卒乳できていたが、それもマリーやグレースに言わせると単純に母親の食事が栄養満点ではなかった事が原因だろうと言われた。
確かに貴族とはいえ、普段の食事が燕麦の麦粥が主体で、ちろっと肉類が混じっている程度だったんだから、言われてみればその通りなのだと思う。
市井の民だとバルトロメが言う通り生後半年くらいで卒乳してしまう者が大半だという。
赤ん坊はおっぱいを欲しがって泣くが、母親の方が出せなくなってしまうそうだ。
自分の妻にそんな思いはさせたくないし、ミヅチの食事も今迄以上に気を使ってメニューを組み立てるべきだろう。
イミュレークの牧場では乳牛も育てているし、この春には数十頭のヤギを買い付けられたために少量だが本物のチーズの製造も始まっている。
まぁ、製造されたチーズの大部分は俺が買ってるんだけど……ん? チーズはミヅチも結構食ってたし牛乳も飲んでた。
三日に一回はヨーグルトも食べてた。
ひょっとしたら、乳製品はミヅチの回復を早めた原因の一つかもしれないな。
まぁ、肉類や魚介類、卵、野菜類に豆類など結構バランス良く食べていたというのが本命かもしれんが。
妊娠して家に籠もるようになったために、生前のメニューの再現やアレンジなどに力を入れていた事もあって、短期間で食材やメニューが被ることが殆どなかったという事もでかいか。
やっぱ食事は大切だ。
・・・・・・・・・
7450年11月13日
デーバス王国の王城ガムロイに隣接する、ダーリンス宮殿。
その一室には王国の最高幹部が集合していた。
招集者は大蔵大臣ジュール・ダンテス公爵である。
「ライルより報告がありました」
数時間前、ダンテス公爵のところにライル王国より幾つかの報告があった。
襲撃に適した場所やその周辺の地図、適切な集結地点の候補地などだ。
勿論、それらについての具体的な位置や地図自体は提示されていない。
「……」
「……」
国王であるアゲノル・ベルグリッド公爵と外務大臣を務めているロルモート・ストールズ公爵は続きを促すかのように黙したままだ。
「また、ロボトニー伯爵は既に襲撃部隊員となる冒険者達を集め終わり、現在は国内集結地であるラーライル村に向かっています」
その言葉にストールズ公爵は無言のまま頷く。
ラーライル村は彼の領土内にあって、そこに至る領内への通行証を発行していたので現状についての予想はついていたからである。
「ロリバスラル外商長によれば、引き続き輿入れの人数構成や順路調査については継続し続け、判明し次第ロボトニー伯爵へ連絡するそうですが、現在の襲撃候補地は八割方適切であろうとの事です」
ダンテス公爵の言葉に頷く二人。
「では、計画通り、襲撃を行わせます。よろしいですな?」
「ああ」
「わかりました」
了承の言葉を得たダンテス公爵は更に言葉を継ぐ。
「つきましては、襲撃の成功率の向上と、襲撃後の証拠隠滅のため、アレをお借りしたく存じます。勿論、管理運用権はロボトニー伯爵にのみ与えますし、最後の手段であるとも申し伝えます。他の者には指一本触れさせるどころか、使用までは存在すら隠したままにさせます。まぁ、伯爵がアレを使ったのであれば、ロンベルトの輿入れ行列だろうがベンケリシュの冒険者だろうが始末は簡単な筈ですから……」
その言葉を聞いて国王とストールズ公爵の目は徐々に見開かれた。
「アレ? もしや……」
「まさか、アレとは反魂の……?」
絶句する二人を前にダンテス公爵はその顔を邪悪に歪めた。
「ええ、ご想像の通り、ソウル・リバーサーをお借りしたい所存です」
対して二人は苦しそうな顔つきになった。
ソウル・リバーサーはその昔、ダート平原で退治された邪悪なグリーン・ドラゴンの巣から発見された聖遺物である。
使用法なども不明なまま幾人もの魔術師の命を吸い取ってきた、非常に強力な魔法の品だ。
使用には一定以上の魔力量が必要とされ、一度使用されると使用者の周囲に存在する者の生命力を吸い取って即死させる、と言われている。
が、正確には死亡させるのではなくアンデッド化させるのである。
勿論、周囲というのがどの程度なのかは正確な記録が残っていない為に判明していないが、最大二〇〇mくらいであろうと推測されている。
そして、アンデッド化させた人数に比例して使用者は魔力を得る、と言われている。
事実、使用して生き延びた者は全員がその魔力量を増大させていた。
但し、肉体は虚弱に、脆弱になり、その後早ければ数ヶ月で死亡している。
「ロボトニー伯爵は充分な魔力を持つ金杯です。尤も、お二方がどうしてもご不安だ、と仰るお気持ちも理解しております。実は私も同様の心配をしています」
一応現時点で公開可能な情報です(下記は不完全且つ不十分な記述です)。
また、持ち主であるデーバスの人達は下記の内容について知りません。
【反魂の水晶球】
【水晶】
【効果:周囲の魔力存在から生命力と魔力を集め、それを触媒に使用者をアンデッド化させる。生命力と魔力を提供した者もアンデッド化するが、集めた魔力量が少ないと効果は中途半端に終わり反魂は成立しない】




