第二百四十話 誕生
7450年10月21日
負傷者救助の想定訓練が終了し、暫くの間ウトウトしながら馬車に揺られた後、ウィード駅に到着したのは一六時頃だった。
駅舎にはゆるい麦粥とスープ、そして待望の冷たい水が用意されていた。
脱水症状どころか栄養失調まで起こしかけていたのでこれはありがたい。
本当は脂の滴る肉や魚を食べたかったが、すっかり弱ってしまった胃腸には消化に良いポリッジが最適なのは確かだ。
それ以前に何か飲み食い出来るだけで有り難い。
まずは水だ。
冷たい水が喉を通って胃に落ちていくのが感じられる。
すぐさま胃が蠕動するように働き、水分の吸収を始めたのがわかる程だ。
そしてスープを一口。
飲み込むと同時にポリッジにスプーンを突っ込んで口に運ぶ。
……ああ、美味い。
スープの方は具こそ入っていないが丁寧に出汁が取られ、牛のエキスだけでなく野菜もしっかりと溶け込んでいた。
それに、ポリッジも何かが混ざっているという訳でもないのに僅かに甘みすら感じられる。
麦粥って美味いんだな。
食ったことあるなら知っているだろうけれど、お湯だけで作った麦粥って本当に不味いんだ。
でも、栄養失調を起こした身体にはこれ以上ない程に美味く感じられる。
空腹は最大の調味料なり、か。
温かなスープを一口飲めば滋味が胃の腑を優しく撫で回し、一口ポリッジを啜れば滋養が体中を巡って濁った思考をスッキリとさせてくれる気すらした。
当然ながらまだ眠気は残っているが、それなりの栄養を摂ったためか多少は頭も回り、冷静になれたような気がする。
少し冷静になると、途端にポリッジが不味くなった。
もう少し、こう、マシなもんはなかったんかね?
もっともっととけしかける胃や腸を宥め、ゆっくりと味わって食事に専念する。
食べ終わったらすぐに特別列車で発つという。
列車には例の豪華客車が接続されていたので、これでやっとまともな睡眠が摂れると思ったのは浅はかだった。
ボックスシートに書類が積まれているのを見てしまったのだ。
展開済みの折りたたみテーブルの上には筆記用具の他、赤い蝋やぶっとい蝋燭、印璽なんかの封蝋セットまで用意されている。
確かに俺はエムイー訓練学生ではあるが、その前にこの西ダートの領主であることを忘れていた。
ついでに、さっきの食事は――普通の人の一食分程度よりも少し少な目で、あっという間に消化出来る程度の量だった――これが狙いだったかと思い至る。
思い返せば、訓練開始以降……三週間くらいか? 行政府で行う仕事には全く関与していなかった。
ミヅチも出産が迫っているので俺の訓練開始と前後して行政府には出仕していないことも思い出す。
溜まってる筈だよなぁ……特に報告書類なんかは。
げんなりとした気持ちになり、顔の方もきっとしかめっ面もいいところをしてしまったと思う。
騎士団の連中も傍にいるというのに背嚢などの荷物を網棚に放り投げ、大きな溜め息まで吐いてしまった。
尤も、このところ訓練にかまけて行政府の仕事についてはほぼ完全に放り投げていたので「想定訓練で鉄道を使うなどでの遠出をする際には予め行政府とスケジュールを相談して必要な書類などを列車に用意しておいてくれ」と教官連中に頼んでおいたのは俺だったのだから逃げようがない。
べグリッツに到着するまでの間にしておかなければならない決裁をしたり、報告書を読んだりしなければならず、その合間合間にちょっとウトウトする事ができるだけで御の字だと考えるしかないだろう。
多少マシになったとはいえ、栄養不足でぼーっとした頭が不安になり、積まれた書類をざっと見てみた。
……。
報告書は目を通す(重要そうなのは後日に回してもいい)だけで済むし、数の多い陳情書とかは「承認可」と「却下」とで分けられている。
これもきっと、本当に重要なものは混ざっていないと思われる。
あとは最近急増している商会の設立申請書くらいなので、こんなもんは三号の商会なら一切の思考をせずに全部承認で問題ない(流石に二号や一号というのはまずないし、あったところでこの中には混じっていないだろう)。
ある意味で盲判でも大丈夫なものだけを用意したのだと思われる。
……考えて判断を下さなければならない物は一つもない。
良かった。
今の俺にはまともにモノを考えられる頭なんかないからね。
さて、やるか……書類にざっと目を通している間に、クローやマリー、バリュート、カムリといった教官連中が揃って高いびきでぐっすりと眠り始めたのが恨めしい。
……そういえば、人間の妊娠期間は最終月経日から二八〇日くらいが普通だ。
以前ミヅチと一緒に計算した事もあるのだが、それによると出産予定日は今月の半ば頃である。
本当はもう生まれててもおかしくないし、ちょっと長めだね。
書き物をしなければならなかったのもあって、馬車鉄道は時速一〇㎞とかなり低速で走っていたのでべグリッツに着いたのはすっかりと夜も更けた二一時頃だった。
そして痛む足を引きずりながら騎士団の駐屯地までランニングさせられて戻り、今度はゆるくない普通のポリッジを二杯食って冷たい井戸水で汗を流す。
眠気でぼうっとしているところにまともな飯を食ったもんだから、エムイー訓練施設の宿舎のベッドに転がり込んだところまでしか覚えていない。
・・・・・・・・・
7450年10月22日
深夜。
「集合ッ!」
明かりの魔道具が灯されると共に反射的に飛び起き、真新しい下着類や鎧下を身につける。
同時に、開け放たれた入り口から見える外がまだ真っ暗な事も確認した。
今何時だよ、糞が。
心のうちは不満たらたらだ。
なにせ、今日……もう昨日かな? は三日間に及ぶ想定訓練を行ったばかりなのだ。
馬車や馬車鉄道での移動中は碌に眠れなかったから、帰ってから今まで……この感じだと四時間くらいは眠れたとは思うが、とてもじゃないが寝足りない。
なにせ、ウィード駅で麦粥を食うまでは栄養失調すら起こしていたのだ。
そんな状態でもう次の訓練か……。
せめて朝になって、肉や野菜ありのまともな食事を食わせてからでもバチは当たらないんじゃない?
エムイー訓練なんか本気で止めたくなる。
なんだって伯爵閣下でご領主様、ついでに竜殺しの俺がこんな兵隊みたいな事しなきゃならんのよ!?
鎧下のベルトを締めながら一人小声で毒づくが、腹が減り過ぎて上手く声にならない事に気が付いた。
ああ、こりゃあ正常な思考になって……出来ていない。
はい、今考えてるのは全部なし! 終わり!
そんな事よりさっさと支度を整えないと腕立ての追加になっちまう。
でも、本当に今晩だけは勘弁して欲しかった……。
可能な限り急いで外に出た。
と、馬車が停まっていた。
それもサスペンション付きの俺が作った馬車だ。
御者台には煌々と光る大型のランタンも二つ備えられてあり、勿論馬も四頭繋がれている。
はいはい、どこへでも行きますよ。
どうせすぐに「鎧を着けて来い」と命じられるんだ。
帰ってから丸洗いして水滴を拭ってはいるが、バンドが一箇所切れかかっていたのは明日起きてから直そうと思って放置していたのが悔やまれる。
絶対に腕立て案件だ。
でも、この馬車なら移動中は眠れないこともないだろう。
……あれ?
教官役が一人しかいない。
昨日までの想定訓練には参加していなかったバルソン准爵だ。
まぁいいや。他の皆はもう現地に行っているんだろ。
はいはい、教官殿もご苦労なこって。
准爵の前まで小走りに駆け寄って直立不ど……およよ?
「閣下、たった今お屋敷から連絡が」
バルソン准爵は俺に跪いて臣下の礼を取りながら言った。
「?」
頭がついていかない。
「奥様が産気づかれたそうです。こちらの馬車でお屋敷までお戻りください」
あんですと!?
こうしちゃいられん!
馬車? 走った方が早いわ……って今の体力じゃそれはないか。
・・・・・・・・・
屋敷は各所に明かりが灯されており、女中や下男なんかがばたばたとしていた。
知らない顔は産婆とか医者とかそういう人だろう。
「あ、おかえりなさいませ」
いち早く下男のグアイレが俺に気がついてくれる。
「ああ、どうだ?」
靴を脱ぐのももどかしく尋ねる。
「詳しいことは私には……あ、パット様、お屋形様がお戻りになられました!」
盥に白い布を山盛りに抱えた家令のバルトロメが通りかかった。
彼女は住み込みではないので誰かが呼びに行ってくれたのだろう。
「まぁまぁ、お屋形様。おかえりなさいませ。今は丁度陣痛が始まったばかりです」
「も、もう生まれるのか?」
「それはわかりませんが、普通ならもう暫くはかかるかと」
そう言えば陣痛の長さは短いと数分、長いと一日以上続くと言われていたな。
「ミヅチの所に行っても大丈夫か?」
「確認してまいります」
そう答えるバルトロメと一緒に分娩室となっている客間へと向かった。
中からはうーうーとミヅチが唸る声がしている。
「少々お待ち下さい」
バルトロメは片手で扉を開け、するりと入り込むとすぐに扉を閉じてしまった。
ちらっと見えたところだと中の明かりは充分に確保されているようだ。
ミヅチの姿は見えなかった。
すぐに婆さんが一人、扉を開けて顔を覗かせる。
「お屋形様ですね?」
「ああ」
この婆さんは産婆なのだろうが、無遠慮に頭の天辺から爪先まで眺めた後で「騎士団で野戦訓練中だとお伺いしたものですから、もっと汚れているかと思いましたが……」と言いながら俺を分娩室へと招き入れてくれた。
この婆ぁは軍隊をなんだと思ってるんだろうね?
他は知らんが、少なくとも俺の軍隊ではシャワーを浴び、清潔な格好をしなければ就寝は許されないのだ。
まぁ、今の今まで山野を駆け回っていたと勘違いしたんだろう。
っつか、そんなことよりお産だお産……?
あれ?
まだ布団被って寝てるじゃん。
「ミヅチ」
一言声を掛け、ベッドの枕元に置いてある椅子に腰を下ろした。
「う~。あ、おかえり……なさい」
「ああ。どうだ?」
「痛い。けど我慢できない程じゃない」
そりゃそうか。
「おい、まだ布団被ったままだが、いいのか?」
「ん。もっと陣痛の間隔が短くなるまでは大丈夫だって」
そういうもんか。
「あなたこそ大丈夫? 昨日まで三日間訓練であんまり寝れてないんでしょう?」
「ちょっとは寝れたから大丈夫だよ」
「ご飯食べた?」
「ああ。ポリッジとスープだけだけど食った。それより、手とか握ってやろうか?」
周りに他人がいるが、恥ずかしいのを押して尋ねた。
それでミヅチが安心して出産できるならいいのだ。
「え? まだ始まった訳じゃないし、いいよ」
「そうか……」
手を握りたかったのは俺の方か。
出しかけた手を引っ込め、ミヅチの顔を覗く。
額にはうっすらと汗が噴き出しており、拭いてやろうとしたが何も持っていない。
そんな俺に気がついたのか、さっきの産婆が軽く濡らしたタオルで拭ってくれ、新しいタオルを手渡してくれた。
「この様子だともうちょっと掛かりそうだから少し寝てきたら? 寝たと言ってもちょっとだけなんでしょ?」
「いや、大丈夫」
そう答えたら「大丈夫そうな顔色じゃないよ。疲れてるみたいだし」と言われてしまった。
確かにまだ出産が始まってはいないので、傍でこんなしけた顔を下げてたら苛つくかも。
正直なところ、まだ大丈夫だと聞いて眠気もぶり返してきている。
こりゃお言葉に甘えて少し寝た方がいいな。
「わかった。なら、ちょっとだけ休ませて貰うよ……あと、頑張ってくれ」
「うん。ゆっくり休んで」
額の汗を拭ってやり、席を立った。
最後に鑑定してみたが、特に変わったところはなかった。
・・・・・・・・・
朝方に起こされた。
どうやら遂に破水し、出産が秒読みとなったらしい。
正直なところ、まだ眠たかったが破水したと聞けば意識はあっという間に覚醒する。
すぐに着替えて分娩室まで駆け出した。
女中たちはお湯を沸かしているようだ。
そんなもの、俺がいくらでも作り出してやるからとは言っていたが、どうも温度の調整は産婆が直接手で確かめると言うので予め断られていた。
分娩室ではミヅチは夜よりもずっと大きな声を上げていた。
「ミヅチ、大丈夫か!?」
思わず駆け寄って声を掛ける。
「んあ゛あ゛ぁぁ~っ!」
ミヅチはベッドの上で四つん這いに近い体勢になり、低めのヘッドボードに手を掛けていた。
これじゃ手を握ってやることもできん。
どうしたらいい?
俺に何が出来る?
「お、おい」
産婆の一人に声を掛け、どうしたらいいか尋ねてみたのだが、声を掛けてやるくらいしか出来ることはないという。
「回復魔術は?」
「全てが終わるまで必要ありません」
そう言えば聞いたことがあった……。
『う~っ、痛い。痛いよぉ~』
ミヅチは俺が傍に居ることすら気がついていない感じで唸っている。
日本語で叫び、目をきつく閉じて顔を歪めながら頭を振ったりしている。
「奥様、はい、息を吸って~」
でも、産婆の声には反応しているようだ。
産婆の言うことに合わせて息を吸ったり吐いたりしている。
く、くそ。
なんとかしてやりたいが、なんにも出来ない。
手を握ってやることすら出来ないのがもどかしい。
俺やミヅチが知っている分娩台を絵に描いて産婆に尋ねたことがあったが「そんなのイキめない」と一言で切って捨てられ、そうかと諦めてしまったのが悔やまれる。
あの形なら手くらい握ってやれたのに。
「ミヅチ、ミヅチ、頑張れっ!」
本当に声を掛けてやるくらいしか俺に出来ることはない。
そうして何度か声を掛けていると、ミヅチはやっと俺が傍にいることに気がついてくれた。
『う……居てくれたのね』
『ああ、勿論だ』
俺も日本語で返す。
ミヅチは汗をびっしょり掻き、薄い肌着が透けている。
『ありがと……痛っ!』
痛みに顔を歪めた。
『お腹さするか?』
四つん這いのミヅチのお腹はベッドに着きそうになっているが着いてはいない。
手を入れてさすってやることくらいは出来るだろう。
『だいじょ……ぶ……うう~っ!』
背中を弓なりに反ってミヅチは吠えるように大声を上げた。
『うあ! 痛~い! あああああっ! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い!』
『痛いのか? 頑張れ!』
『ううううぅっ! いあぁっ! いった~いいいいいいいっ!』
『そうだ、ミヅチ、ヒッヒッフーだ! ヒッヒッフー!』
お産のときには息を何回かに分けて吐くと良い、と聞いたことがある。
ヒッヒッフーと三回に分けるといいんだ。
ラマーズ法だっけ?
『ふぬぬぬ……痛い……痛い……はぁっ……いったっい!』
俺の言うことなんざ全く聞いちゃいねぇ。
だけど、ヒッヒッフーは大切だろ。
『ミヅチ、息を吐く時はヒッヒッフー……』
『イ゛タ゛イ゛!』
「奥様、もう全開だからイキんでいいんですよ!」
『痛い痛い痛い!』
『ヒッヒッフーだぞ!』
「イキんで~、足に力を入れて~」
ミヅチの叫び声と複数の産婆の声、そして俺の声で誰が何を言っているのかよくわからないだろう。
『うわ~~~~っ! ひっ! いたぁ~い!』
「はい、イキんで下さい!」
『息を分けて吐くんだ! ヒッヒッフー!』
『うるせー! 耳元でくだらねぇこと言ってんな!』
『え?』
ミヅチに怒鳴られあっけに取られる。
『痛ぇんだよ! 骨盤割れそうなんだよ!』
『あ、ああ』
『それよりこの痛いの何とかしてよ!』
『……(すまん。それはどうもできない)』
『痛いよ、痛いよぉ!』
『だからヒッヒッフー……』
『もうとっくに子宮開いてんだよ、ヒッヒッフーとか終わってんだよ! ガチャガチャうるさい! どっかいけ!』
しょんぼりと傍を離れた。
産婆や女中たちには日本語は理解できないだろうが、言葉の勢いや雰囲気からどんなやり取りがあったのかは察したらしい。
視線が痛い。
が、現実の痛みに耐えて戦っているミヅチに比べれば……。
「息吸って~、吐いて~、吸って~、はいイキんで!」
『ふお~っ! 痛い! 痛い!』
手に汗を握るとはこのことか。
『頑張れ! ミヅチ、頑張れ!』
俺に出来るのは声援を送ることくらいだ。
俺も一緒に戦うぞ、ミヅチ!
「はいまた吸って~、吐いて~、吸って~、吐いて~、吸って~、はいイキむ!」
『ぬ゛あ゛あ゛~~~! ……はあっ、はあっ、はあっ』
ああ、見ちゃいられないが目を離すことも出来ない。
『頑張れ! ミヅチ、頑張れ!』
『誰かあのうっさいのつまみ出して!』
『え?』
「あのバカをつまみ出して! うるさい!」
そ、そんな……。
「おお屋形様、別室でお待ち下さい」
女中のテフラコリンが厳しい目を向けてきた。
いつもと違ってあんまりどもってない。
「はい……」
肩を落とし、今度こそがっくりと来て居間へと向か……わずに廊下で立っていた。
庭師のラセルナと厩番のグアイレも手持ち無沙汰で立っている。
「お屋形様、出産では男は役に立ちませんや……」
「じっと待つしかありません」
「そうだな……」
そう答えながらも、俺は腕を組んで同じ所をぐるぐると歩いていた。
時折、少しでもミヅチ同様に痛みを感じようと指先を噛んだり、自分の頬を張ってみたり、深呼吸をしたりする。
どうも落ち着かない。
イライラする訳ではないが、気ばかりが焦り何かしていないととてもじゃないが落ち着ける訳がない。
「お屋形様、椅子をお持ちしましょうか?」
そんな俺を見兼ねてラセルナが声を掛けてくれた。
「いや、いい。座ってなんかいられないんだ」
相変わらず分娩室からはミヅチの唸り声や叫び声が聞こえてくる。
そんな状況でじっと座ってなんかいられない。
訳もなく屈伸運動を始めたりもしてみるが、すぐにこんなことやってる場合じゃない、と耳をそばだてる。
シャーニ義姉さんの出産の時、親父や兄貴が全く役に立たなかったことを思い出した。
時折、盥を抱えた女中や家令のバルトロメが出てきて、お湯を変えていた。
その際に部屋の中を覗こうと思ったが、グアイレもラセルナもさっと扉に背を向けていたので俺も冷静になることが出来た。
――ああ、神様! ミヅチが無事に出産できますように……!
――子供も五体満足で……どうか……!
――俺はどうなってもいい……!
――ミヅチと子供が無事なら、他に何も……!
――無事に生まれてさえくれるなら、エムイー訓練とか何回だって出来る……!
――全て差し出しても構いません。神様仏様、どうか二人をお助け下さい……!
――南無妙法蓮華経、南無阿弥陀佛、アーメン、ソーメン、ヒヤソ……じゃない、アッラーフアクバル……どうか……!
同じような考えが頭の中をぐるぐるとまわり、一周して最初に戻るまで数秒程度。
もう何回まわったかわからない。
そうして何時間かが過ぎた。
・・・・・・・・・
七~八分前、女中のサストーレが新しいお湯を持って分娩室に入っていった。
「はい、見えてますよ! イキんで!」
『うあああっ!! イ゛タ゛すぎる――――――!!』
「そのままいきんで! 声を出さないで、足に力を入れるの!」
俺たち三人は扉に耳を当てる。
これで何回目か。
「はい! そのまま! そのまま!」
……。
「はい、よく頑張りました! おめでとうございます!」
『ああ!』
「あなた、お湯を!」
「はい、ただ今!」
!
「おお……!」
俺の口からも思わず嗚咽のような声が漏れた。
扉を開けようとハンドルに手を掛けたが、その手に別の手が重なった。
グアイレの手だ。
思わずその顔を見るとグアイレはゆっくりと頭を左右に振る。
そして「お屋形様、まだ我慢して下さいまし」と言った。
む、確かにそうだな。
入室の許可がおりた訳ではない。
俺はつまみ出された身なのだ。
「奥様も出産中の事は覚えていらっしゃらないでしょうが、もう意識もはっきりしているでしょう。最初が肝心だと思います。温かいお言葉をおかけになって下さい」
ラセルナの言葉には何か含蓄を感じさせるが、はっきり言って今の俺には馬耳東風だ。
意識は部屋の中に集中し続けている。
「……ぁぁぁっ!」
この声は!?
「ぅぁぁっ!」
赤ん坊の声だ!
「おお……!」
再び嗚咽が漏れる。
扉一枚を隔てた先で、確かに新しい生命が誕生したのだ。
それも、俺の血を引いた。
「お待たせ致しました」
バルトロメが扉を開けると同時に飛び込んだ。
「ミヅチ!」
ミヅチはベッドの上にクッションを重ねて半身を起こし、赤ん坊を抱いている。
「元気な男の子ですよ! お屋形様、おめでとうございます!」
「「おめでとうございます」」
そうか、男の子か。
ミヅチはベッドの上で産着のようなタオルにくるまれた我が子を抱いて微笑んでいた。
「あなた……!」
溢れるような笑みを浮かべミヅチは俺を見た。
疲労で汗まみれ、髪も汗で濡れているが、母親になったミヅチは美しかった。
「よく頑張った! 偉かった! 本当に……!」
言葉に出来ないほどの思いが喉を詰まらせる。
そっとミヅチが抱く赤ん坊を見る。
異様に血色の悪い、しわくちゃの猿みたいな赤ん坊だ。
そう言えば、ゼットもベッキーも生まれたてはこんな猿みたいな顔だったな。
「ステータスは大丈夫だったけど、どう?」
恐る恐るという感じでミヅチが声を掛けてきた。
そう言えば鑑定なんかどっかに飛んでいたな。
【 】
【男性/22/10/7450・普人族・リーグル伯爵家長男】
【状態:良好】
【年齢:0歳】
【レベル:0】
【HP:1(1) MP:0(0) 】
【筋力:0】
【俊敏:0】
【器用:0】
【耐久:0】
【経験:0(1)】
「ステータスオープン……うん、異常はないよ。元気だし、五体満足で生んでくれてありがとう」
俺たちみたいな転生者じゃないんだから固有技能なんか持っている訳がない。
ごく普通の赤ん坊だ。
うす青い皮膚の色を除いて。
多分皮膚の色はミヅチの血も引いているからだろう。
そうこうしているうちに産婆の一人が赤ん坊の耳に墨を塗って紙を押し付けた。
赤ん坊は火が着いたように泣き叫ぶが、これはオースでは当然の行為で、生まれた直後に耳紋を採るのは貴族階級では当たり前とされる。
父親との血縁関係の証明のために、以前採ってある俺の耳紋と照合するのだ。
汚れた頭はすぐに濡らしたタオルで拭き取られ、再びミヅチの腕に帰ってきた。
「俺にも抱かせてくれ……」
壊れ物でも扱うかのように、慎重に我が子を受け取り、顔をよく見る。
愛想もなく泣き叫んでいるが、湧き出す愛おしさが止まらない。




