幕間 第三十五話 類家義人(38)の場合(前編)
うん、まぁ、何というか、そろそろだと予想していた方、正解です。
「痛っ……」
バスの座席に腰を下ろす際に、思わず息が漏れてしまった。
義人は一年ほど前から椎間板ヘルニアを患っているのだが、完治させるには手術と入院が必要だとの診断を受けている。
予想される入院期間は二か月弱であり、転職して三年も経っていない今、会社にそれだけ長期に亘る休みをくれとは言えなかった。
せめて丸五年は経たないと言い出しにくいため、これを知っているのは家族だけだ。
――ふう~、やっぱ座ると落ち着くな……。
二〇分も連続して立っているだけで腿の外側が痺れるように痛くなり始め、そうなると以降は一〇分も立っていられない。
座ったりしゃがんだりすると痛みは引いていき、数十秒から一分程度休めば再び立って歩けるようになるので、どうにかこうにか仕事を続けていた。
――会社に戻ったらプレゼン資料の続きを作んなきゃ……でも同じ業界だからって、去年作った東都販売さん向けのを改造すればいいとか、部長も無茶を言うよな……。
少し憂鬱そうな表情がよぎる。
義人としては来週にある新規顧客へのプレゼンについては絶対に成功させ、どうしても契約に結びつけたかったのだ。
いい加減な資料は作りたくなかった。
「……でさー、そん時隆史先輩、何つったと思う~?」
「いや、知んね」
「も~、何度も言ったじゃん!」
バスの中にも拘わらず、はしゃぐように姦しく喋る高校生たちの声が義人の耳に障る。
――まぁでも、あの年頃はあんなもんだよな……今のうちに楽しんでおけよ。
スーツの内ポケットに手を入れ、小さな手帳を取り出すと表紙を開き、挟まれていた小さな写真を眺める。
写真には人工呼吸器をつけた中学生くらいの女の子が映っていた。
二〇年以上も前に病気で亡くなった妹の写真だ。
――お前もあんなふうに喋りたかったよな……。
赤ん坊や幼児の頃の泣き声以外、あのような大きな声は一度も聞いたことがない。
チラリと視線を向け、羨ましそうな顔をした後、義人は手帳を閉じ、再び内ポケットに納めた。
――今の子ってあんなに綺麗なんだな……。
先程から一番元気そうに大きな声で喋っている女の子は、黙って口を閉じていさえすればはっとするほどの美人と言える。
その隣で相槌を打っている子も、面白くなさそうな顔つきをしているものの、相当に可愛い部類だろう。
彼女らの横にも二人座っている。
二人共立っている男子生徒の陰になって顔つきまではよくわからないが、きっと可愛いに違いない。
――ふ。ウチの子も負けちゃいないけどな。
来年中学に上がる長女の顔を思い出し、スマホに入れてあった写真を見ようとスーツの胸ポケットに手をやり、取り出して操作を始めた瞬間、バスとは異なる大きなスキール音を耳にした。
反射的に進行方向左側に目をやると、義人は目と口で三つのOの字を描いた。
・・・・・・・・・
――ぐっ……息が……苦し……。
目も開かず、呼吸すらままならない。
と、体が逆さになった感覚に驚く間もなく、ドン、と背を張られた。
その御蔭で飲み込んでいたらしい生臭い水を吐き出すことができ、呼吸が出来るようになった。
同時に、張られた背中ではなく、腹……臍のあたりに大きな痛みを感じることが意識される。
今までは呼吸出来なかった事と目が見えない事でパニックを起こし、意識の埒外にあったのだろう。
痛みの感じ方から臍の傷はまだ相当に新しいもののようだ。
と、思う間もなく……。
「ぎゃあああっ! あああぁぁっ!」
痛みに耐えかねて年甲斐もなく喚き散らしてしまう。
吐き出したのは俺の血だったのだろうか。
そしてついさっき、乗っていたバスに電車が突っ込んできたんだった、と思い出す。
ああ、大怪我をして病院に運ばれたのか。
こうして泣き喚いていられ、人工呼吸器が取り付けられた感覚もない以上、命に別状はなさそうなのが救い……どうせなら腰の手術も一緒にして貰えないかな。
そうだと助かるな。
しかし、この腹の痛みはどうだ?
痛いは痛いし、何かが突き刺さったのか、臍ごと抉られたかのような感覚だが、本来なら我慢できない程じゃない……ような気もする……けど痛ぇわ!
くっそ、痛ぇぇぇっ!
何とかしてくれぇっ!
あれだけの事故に遭ったんだ!
泣き喚いて痛みを訴えたところでそれ程みっともなくなんか……どうでもいいわ!
痛いんだよぉぉぉっ!
・・・・・・・・・
入院して二日?三日?数日?が経った。
心配していた通り、視力はかなりどころか、失明寸前にまで落ちてしまった事がわかる。
何を見ても滲んだように輪郭がぼやけており、看護師も辛うじて男女の区別が付く程度にしかわからない。
相変わらず腹は痛んでいるし、その傷口を触らないようにするためか、両手は包帯のような布で胴体ごと巻かれてしまっている。
一日に一度、ぬるま湯に浸した布で清拭してくれるのが大変に心地が良い。
風呂に入りたいが、腹にでかい傷があるのなら、風呂は暫くお預けだろう。
……ああ、ヘルニアの手術を頼まなきゃ!
それに、家族に連絡を!
祐実! 礼亜!
く、くそ、家族の事を思うだけで涙が、声が……抑えられない!
「ゔあああぁぁっ! あああぁぁっ!」
いつもこれだ!
家族のことに限らずいちいち何かに付けて感情が高ぶり、会話すらままならないとは!
ついでに耳まで悪くなったのか、看護師や医者が何を喋っているのか全くわからない。
尤も、言葉のところどころに聞き覚えのある英単語が混じっていることは判るので、完全に聞こえない訳ではない。
聞き取れないことが多すぎる……いや、気が狂ったのを認めたくないだけなんだが。
・・・・・・・・・
更に数日が経つ頃、俺は事実を受けいれるしかないと思った。
まぁ、悟りの境地に達したようなものだ。
生まれ変わったのだ。
そう、俺は別の体に生まれ変わった。
本当はちょっと前から気づいていた。
あれは母親のおっぱいだ。
大して美味いものではないのだが、飲むと不思議と安心し、眠たくなる。
滲む視界から推測するに、病院ではない。
それどころか日本ですらない、恐らくはどこかの発展途上国、それもかなりの僻地だと思われる。
・・・・・・・・・
一月か二月後(食っちゃ寝の毎日で日数なんか覚えていない)、突然母親がいなくなった。
代わりに知らない女が俺の面倒を見てくれるようになった。
その女も俺のような赤ん坊を生んだばかりらしく、乳を飲ませてくれる。
その女が生んだと思しき赤ん坊と分け合うように乳を飲み、眠りにつく。
当初は堪えようのない不安感からえらく泣きじゃくったものだが、数日もしたら慣れた。
自分でも現金なものだと不思議に思うくらいだが、新しい乳の匂いに慣れたのだろう。
ここでふと思い返してみたら、父親に相当するような男性が側にいた記憶がない。
いや、生まれ変わった直後にはいたっけ?
そうこうしているうちに、一年以上が経った。
流石にある程度の言葉について、その意味も解するようになる。
そして、ようやく大体の状況が掴めてきた。
俺達(乳母の子とは兄弟のようなもんだ)の父親は出稼ぎに行っているところらしい。
俺の母親も父親のところにおり、乳母は雇われているような感じかな?
捨てられた、とか、売られた、という訳ではないことは確かだ。
何故なら俺の兄や姉、また他の幼児も一緒に暮らしていることが判明しているし、極稀に父親や母親が来て抱いてくれたからだ。
ん~、うまい言葉が見つからないが、全寮制の保育園ってところかね?
そして何年もが経過した。
・・・・・・・・・
「バスコ! また槍が立ってるわよ!」
二つ上の姉、サリバンが小声で叱責してきた。
「あ? ああ、ごめん」
初陣に臨み、自分でも意識しないうちに浮ついていたようだ。
まぁ初陣と言っても、絶対に戦闘があるという訳ではない。
有り体に言うなら、単なる斥候を兼ねたパトロール任務だし。
俺は手にしていた槍の穂先を下げて寝かせるように持ち直した。
「ここらはまだロンベルトの勢力圏だからあまり神経質にならなくてもいいが、サリバンの言う通り、槍は立てるなよ」
斥候部隊の隊長を務めるダリーが振り向いて言った。
槍は、立てているとかなり遠くからでも陽の光を反射してしまい、敵に(敵とは限らないが)気付かれてしまうことがあるという。
それに、立てていると木の枝にぶつかったりもするから、街道を行軍していたり街中を歩いているのでもない限りは寝かせたままでいるのが当たり前だ。
敵はともかくとして、魔物なんかは木の陰や茂みの中からいきなり襲いかかってくることもあるので、すぐに援護をしやすいよう、常に寝かせて構えておくのだ。
構えたまま移動するのは結構骨が折れる。
加えて最後尾に位置していたからか、無意識のうちに槍を担いでしまっていた。
待ち望んだ初陣だというのに、気を抜いてしまうとは情けない。
しっかりと構えながら、俺は再びサリバンの周囲に視線を飛ばし、警戒して進み始めた。
今回の任務はジュンケル侯爵領との境界のパトロールで、全行程は二泊三日を見込んでいる。
国土の南方に戦力を振り向け、不戦協定を結んでいるグラナン皇国の方に正規軍を割く余裕のないロンベルト王国に二年契約で雇われているのだ。
暫く進んだとき、先頭を進んでいたジースが右手を上げ、右方を指差した。
「戦闘用意! フィアボルグだっ!」
ダリーの命令を聞いて耳を疑う。
フィアボルグはオーガの親戚のような巨人の魔物でかなりの強敵だというが、このあたりでは大分前から見かけなくなったと聞いていたからだ。
右手の方、木立の間にこちらへと駆けてくる巨体が見えた。
ゴブリンやコボルドなんかは過去に見たことはあるが、それらとは比較にならない大きな体躯や、動物か何かの毛皮を纏い、無骨な棍棒を担いで駆け寄る姿に圧倒される。
――やっぱり聞いてた話は誇張でも何でもない! でかい!
身長は二m半以上もあるだろうか。
喉を鳴らしてつばを飲み込む。
「クインシー! かましてやれ!」
ダリーの命令にクインシーが右手を伸ばしてフィアボルグへと向けた。
「サリバンとバスコはクインシーを守れっ! ジース、行くぞっ!」
ダリーはジースと二人、獅人族特有の先に房のある尻尾を揺らしながら剣を抜いてフィアボルグの方へと駆け出した。
足場の悪い山の斜面なのに、革鎧を着て盾を構えたままどうしてあれだけ身軽に走れるのか不思議でならない。
――落ち着け……!
槍を構えたままサリバンとクインシーを挟むように立ち、鞣した豚革で作られた戦闘用ブーツの踵を上げ、僅かに前傾姿勢を取る。
万が一、フィアボルグがダリーとジースを抜けて来るようなら、俺とサリバンがクインシーの最後の砦なのだ。
ダリーとジースは俺達から一〇mくらい先でクインシーの視界を塞がないように分かれて迎撃態勢を整えている。
「ンダァァァーーーーッ!!」
訳のわからない叫び声を上げ、フィアボルグは襲いかかってきた。
あいつには俺達全員が美味そうな獲物にでも見えているのだろう。
口の端から涎が垂れているのがわかる。
――こ、怖い!
どんどんと近寄ってくるフィアボルグを見て、原初的な恐怖に囚われる。
あんなでかい奴にたった五人で勝てるのか?
勝てる? いや、殺せるのか?
体格差はライオスのダリーやジースと較べても大人と子供である。
凶悪な表情で顔を歪め、殺意を撒き散らしながら駆け寄ってくる巨人。
話に聞いてはいたが、あんなに、あれ程にでかいとは思わなかった。
十歳の俺よりも一m以上高い。
倍の身長だと言われても、それよりもでかく感じる程だ。
自然と歯の根が合わなくなる。
そっとサリバンの方を窺ってみると、彼女も膝が笑っているのが分かり、それを見てなぜだか少し冷静になれた。
――皆だって怖いんだ。落ち着け! 落ち着くんだ!
目に力を込め、フィアボルグに意識を集中する。
そして……。
駆け寄るフィアボルグの前にもう一匹の半透明なフィアボルグが出現した。
すぐにその半透明なフィアボルグはダリーに襲いかかる。
同時にダリーも分裂し、半透明なダリーは盾を上手に使って棍棒での攻撃をいなした。
それを見て一気に精神が落ち着いた。
俺の【未来視】があれば、どんな相手でも怖くはない!
固有技能レベルがMAXになった今、一〇〇秒間もの間、俺の周囲で起こる全ての一秒先の未来を同時に見ることが出来る(MAXになるまでは生物しか見えなかった)のだから。
半透明なジースが横からフィアボルグに斬りつけ、半透明なフィアボルグの右の上腕から血が吹き出る。
一秒遅れ、事態はその通りに進行していく。
そして、半透明な魔術弾頭が半透明なフィアボルグの胸に命中……。
「よ(し)!」
思わず声を上げると同時に苦痛の表情で胸に突き立つ魔術弾頭を睨んでいた半透明のフィアボルグは一瞬でひねるように姿勢を変え、半透明の魔術弾頭はギリギリのところで半透明のフィアボルグに躱されてどこかへ消えていった!
「くっ……」
今度は小さな声で後悔の息を吐く。
俺が声を立てたことで、フィアボルグはクインシーが放った攻撃魔術に気づいてしまったのだ!
今のは当然俺のポカだ。
しかし、誰もそうは思わない。
原因が俺の声だと思わない、考えない以上、俺のポカではない。
――くそっ!! 久々にやっちまった! これが本物の戦闘か!
無駄に魔力を消費させてしまったクインシーに対し、心から申し訳なく思うが、魔術弾頭を躱した半透明のフィアボルグの腿に半透明のダリーが斬り付ける事に成功したのが見えた。
クインシーのフレイムボルトを躱すため、無理な姿勢をしたのが命取りになったのだろう。
「サリバンッ! バスコッ! 行けっ!」
クインシーが叫び、俺とサリバンは槍を腰だめにしたまま喊声を上げて突っ込む。
半透明のフィアボルグが半透明の俺とサリバンの槍を半透明の棍棒で叩き払う。
それを見た俺はとっさに進路を変える。
半透明のフィアボルグは先程のように一瞬で姿勢を変え、半透明のサリバンの槍だけを叩き払い、その肩には半透明の俺の槍が深く突き刺さっていた。
・・・・・・・・・
更に二年後。
俺は今までに増して剣や槍の稽古に加えて体力や運動力の強化に身を入れている。
いくら一秒先の未来が見えていても、それに対応するように体を動かすことが出来なければ未来を大きく変えることは出来ないと解ったからだ。
死にたくない一心だったと言えばそれまでだが、俺はオースの人と違って、効率的にトレーニングする方法については大体わかっていたことも大きい。
緩急をつけたランニングや反復横跳び、膝立腹筋や伏臥上体反らしなど、要は学校でやっていた体育の授業や部活動でのトレーニングを思い出せばいいのだから。
今にして思えば初めての実戦がはぐれフィアボルグ相手だったのは本当に運が良かった(魔石を取るために胸を裂き、ついでに不慣れな為、内臓まで裂いたが胃袋や腸には殆ど何も入っていなかったので、奴は相当体力を失っていた個体だったのだと思われる)。
赤兵隊で一、二を争う凄腕のダリーやジースが一緒だったし、魔術が得意な精人族のクインシーが居たことも、あの時俺が落ち着けた要因でもあったろう。
初の任務を迎えた俺に、隊でも実力者である彼らを付けてくれた父上や母上、そして兄上には本当に感謝をしている。
「また鍛えていたのか?」
汗びっしょりになった俺を見て一番上のレグラス兄上が肩を竦める。
「はい。死にたくないですから」
手の甲で額の汗を拭いながら答える。
「ふ、ほざけ。その年でそれだけの腕をしているんだ。もっと誇れよ。こっちが情けなくなるだろ」
確かに現在の俺は白兵戦では隊の未成年者では一番の有望株だと言われている。
だが、所詮はまだガキだ。
膂力は足りないし持久力も大人たちと較べて低い。
実際に剣や槍を扱う技だって未熟極まりないし、未だに馬にも乗せて貰えない。
ガキの中で一番だと言っても大人達に混じれば凡庸な存在でしかない。
その証拠にそれぞれ槍と剣の天才だと言われている二人の兄上からは未だに一本すら取ったことがない。
姉上からはあるが、それは男女の違いも大きい上に年齢も近いので当たり前だろう。
とにかく、実力が隔絶している相手だと幾ら【未来視】が使えると言っても俺の動きに対応され、結局手詰まりになって負けてしまうのだ。
このまま戦場に出たとしても、一人や二人は討ち取れても戦闘が長引けば確実に足を引っ張る存在になるし、味方の援護がなければあっという間に討ち取られてしまうのは目に見えている。
俺は「そんな事を仰らないでください。未だ兄上には遠く及ばないのですから」と答え、トレーニングに戻ろうとした。
「熱心なのはいいが、父上がご帰還なされた……」
レグラス兄上の言葉に勢いよく振り向いた。
「……うむ。決まったようだな」
父上が創設し、ここまで育て上げた赤兵隊。
その評判は高く、外国からも招かれ始めている。
元々ロンベルト王国の内乱鎮圧の為に旗揚げされた経緯から、今までは王国からの依頼しか受けずにいたのだが、今回の契約が切れたら外国に行こうという計画だとは小耳に挟んでいた。
さっきはまだ戦場に出るには早いと言ったものの、本音では自分の腕を試してみたくてしかたがない。
このあたり、自分でも本当に度し難いとは思うが、生まれ変わったことで色々と若返ってしまったらしく、どうしてもそういう気持ちを抑え込む事ができない。
普段思ったり考えたりしている事でも、いざその場面に直面してしまうと全く反対の事を期待し、好んでしまう二重人格のようなものだ。
ロンベルト王国との仕事は、昔は南方のデーバス王国との戦の前面に出たこともあるらしいが、俺が物心ついてからは国境の警備やパトロールと言った、小規模な戦闘はあっても戦場と言えるような場所で活躍したことはなかった。
従って契約金も隊を維持するので精一杯という有様であり、戦死者も殆ど無い代わりに隊の規模も大きくしにくいという、ある意味でのジレンマに陥っていたのだ。
それを打破し、隊を一回り大きく成長させるため、父上と母上は一番良い条件で声を掛けてくれたバクルニー王国まで出向いていたのだ。
兄上の顔つきだと交渉の首尾は上々なものであったようだ。




