第七十四話 進水 1
7449年初秋
「ぐああっ!」
洞窟内部に男の悲鳴が木霊した。
「ヴァルッ!!」
「くっそぉぉっ!」
他にも数人の声が響き渡り、同時に何か恐ろしい獣の唸り声のような音もする。
「そこどいて!」
女の声が響くと同時にバシッと空気を引き裂くような音と閃光が迸った。
「ブゴゥゥン!」
苦痛に塗れた獣の声が上がったのも束の間、すぐに薄れるように小さくなってドサリと大きな体が倒れたような音がする。
「ま、まだ生きてる!?」
「あ、あれでも死なねぇのかよっ!?」
「とどめを刺せっ!」
僅かの間、肉を叩き、突き刺し、斬り付ける音がしたがすぐに止んだ。
そこは、巨大な洞窟の内部に点々と存在している広間であった。
「おいヴァルッ!? 大丈夫かっ?」
フルフェイスヘルメットの後頭部の穴から長めに結った髪をなびかせて一人の男が倒れている男に叫びながら駆け寄った。
「レーン! 治療を頼むっ!」
そう叫びながら別方向から駆け寄る男は鼻筋を防護したオープンフェイスヘルメットを被っている。
そして、すぐに腰からナイフを引き抜いて、倒れている男の鎧の革バンドを切り裂き始めた。
声を掛けられた女もすぐに走り寄ってしゃがみ込む。
「もういいわ、邪魔しないで、静かにしててっ!」
そう言うと鎧を脱がされた男の脇腹に広がる大穴に手を当てた。
五秒と掛からずに女の手が淡い魔術光を宿したかと思うとその光が男の患部に移り、みるみるうちに傷が治癒してゆく。
二度、三度と続けて治癒魔術を使うたびに青白かった男の顔には赤みが戻り、ついには「お~、痛かった」と言いながら重傷を負った筈の腹をさすって立ち上がるまでに回復させた。
「おい、ヴァル。油断すんなっつったろ? ケイブグレートボアーの牙で突かれるとな、本当に一つ間違うと即死なんだ」
フルフェイスの面頬を跳ね上げてミュールが言った。
「そう言うなって。ナバスカスさんはまだ迷宮には慣れてないし、そもそも稽古だってまだあんまり……」
呆れ顔のミュールを宥めるように、バンドを切って無理やり脱がしたナバスカスの革鎧のパーツを集めながらヘックスが取りなす。
「でも、ミュールの言うことも本当よ。まだ迷宮は三回目なんだし、あんまり無理しないで」
治療を施したレーンもホッとした顔をしつつも、申し訳無さそうな顔で治癒魔術の礼を言う矮人族に言った。
その様子を見て、一つ肩を竦めたミュールは刃を拭った長剣を鞘に戻し、盾を地面に置くと「おいお前ぇら、さっさと魔石を取っておけよ。ケイブグレートボアーのは高く売れんだ」と六人の戦闘奴隷達に命じ、自分は部屋の中心からかなり外れた場所に佇む祠のような建造物に向かって歩を進めている。
この部屋にはたった今仕留めたばかりの巨体を誇るケイブグレートボアーの死体が一つ、その他、ケイブボアーの死体が四つ、更にはコウモリの翼を生やした悪魔のような物の死体まで四つも転がっている。
大戦果だ。
記録ではケイブグレートボアーは十年以上前に当時の一流パーティーが数頭仕留めている以外、最近では彼らの他には誰にも仕留められてはいない。
このベンケリシュの迷宮の第四層、炎のブレスを吐くファイアーリザードと並んで厄介な魔物の筆頭とされている。
いや、出現するときは必ず一頭のみであるファイアーリザードよりも余程厄介な相手かもしれない。
「チッ、まぁた何もなしかよ……本当にこっから何か出てくることあんのかね?」
祭壇の上部に設えられており、戦闘終了と同時に自動的に開いた祠の扉の奥を覗きながらミュールが不平を漏らした。
「そう言うなって。ここじゃないとは思うが、二週間前に赤龍の連中が魔剣を見つけてるのは本当なんだ。俺達は試行回数が少ないんだし、出ないときは出ないだろ」
またもヘックスがミュールを宥めるように言った。
「そりゃ解ってるけどよ……」
地面に唾を吐いてヘックスやレーン、ナバスカスがいる所まで戻ったミュールは地面に盾を降ろすと腰から水筒を外して口をつけた。
「ありゃ? もうねぇのか……レーン、氷水頼む」
「そんくらい自分で出しなさいよ。氷水はいい練習になるんだから」
「へいへい……」
ミュールも火魔法と水魔法は使える。
しかし、氷だけを出したり、お湯を出したりするのは訳なく出来ても、氷水はそこそこに難しいのだ。
「いやぁ、面目ない。皆の働きを見てたら俺にも出来そうかなって思っちゃって……」
革製のヘルメットを脱いで頭を掻きながら改めてナバスカスが頭を下げた。
一度目の迷宮行は昨年の暮れにほんの数日だけだったが、その時は魔物と殺し合うと聞いて恐怖心からほとんど何もできなかった。
二度目は今年の晩春。
最初の迷宮行の様子を聞いた王子から「レベルアップに励め」と言われただけでなく、妻のミーメも強く希望したこともあって、行きたくなくとも行くしかなかった。
王子達から説明を受けているものの、ナバスカスはレベルアップするなどと本気では信じていない。
だがこれから先、領地を預かる貴族となった場合には戦争に行くこともある。
その時に、せめてビビらないでいるためにも生き物を直接殺す経験を積む事に意味がある、と言われていた。
また、熟練の冒険者や戦闘奴隷達に加え、宮廷魔導士や時には公子である自らも彼と一緒に迷宮に挑む事になるので安全には最大限の配慮を行うとも説明された。
迷宮行についてすっかり怯えをあらわしているナバスカス本人ではなく、その妻であるミーメにそう説明したのはセルだ。
王子の親衛隊員に抜擢され、農奴から自由民になっただけでも大変なことなのに、王国でも屈指の名家であるストールズ公爵家の跡取りから「将来の貴族」と聞かされたミーメは素直に喜んだ。
三人の子供を持ち、子供達の将来に対して確かな希望が見えた母は強い。
そして、そういう立場に立つ旦那は弱い。
あれだけ恐ろしい思いをしていながらも、女房子供の為に行かざるを得なかった。
一ヶ月近くもの間、毎日毎日、ベンケリシュの迷宮でゴブリンやノール、オークなどを相手に戦闘を重ねれば、誰でも生き物の命を奪う感覚は麻痺する。
戦闘時の度胸だってつく。
怪我などしょっちゅうするし、その度にレーンの治癒魔術を受けて回復してきた。
お陰で糞度胸とそれなりの槍の腕だけは備わったものの、彼も含めてそれ程ひどい怪我を負った者は居なかった事もあり、危機感は薄れてしまったようだ。
そして三回目である今回、すっかり危機感の薄れたナバスカスは「一層で弱い魔物と戦うだけでなく、奥まで行ってみたい」という気持ちになっていた。
前回の迷宮行で、迷宮の下層からは貴重な物品や貴金属の鉱石などが得られると聞いたことも理由の一つである。
レーンやヘクサーは「まだ早い」と反対したが、ミュールは「その意気や良し」と許可を出した。
ミュールとしては、持っている固有技能も含めて今のところ大して役に立っていない農奴出身のナバスカスを哀れに思っていたこともある。
せめて人並みに戦える力を付け、自信に繋げるべきだと思っていたし、本人が希望するのであれば多少強い魔物が出てくる迷宮の下層に行くのも悪いことではないと考えたのだ。
勿論、レーンの魔術があってこそなのだが、彼は勿論、王子や公子も彼女の治癒魔術には散々世話になっているため、実感として「レーンさえ同行しているならまず死ぬことはない」という印象が強く心に焼き付いているという理由もあった。
彼らも今回のナバスカス程ではないが、かなりの重傷を負ったこともあったのだ。
そしてナバスカスは転生してから初めて大きな怪我を負った。
しかし、「これはまずい。ボロボロの腸が見える!」と思ったのも束の間、レーンが患部に触れるだけであっという間に傷は塞がり、いつもの通り瞬く間に激痛は引いていった。
大怪我をしても碌に危機感を抱く暇さえないまますぐに治ってしまったナバスカスとしては、これでベンケリシュの迷宮、と言うよりも戦闘行為自体を舐める事にも繋がるのだが、やはりあくまでもレーンが居てこそ、という事についてだけはしっかりと記憶に焼き付いた出来事であった。
く……さわり部分しか書けなかったので題名に困りました。
土曜日の内容のアップの後、本来のに変えようかな。




