山姥山の向こう、フタゴフジの中腹から
人生とは。という問いに、僕はいつも『流れと表現すれば、その流れの中でどれだけ流れる向きを変えられるか。とにかくそれに尽きる。』と返すようにしている。
そう話せば、額当てを満足そうに触る僕の婆ちゃんの、長ったらしい哲学を語られる時間を躱せるのだ。
自分の哲学を披露したいのであれば、講演会でも開けば良いものを。彼女はいつも僕にだけ難しい話をするから困る。
まぁ、別に、どうしたって変えられない流れというものも存在していて、その中で僕たちがどう足掻けるか。それに尽きるのだ。
だから、僕がユウスケの見張りを変わってあげた日に厄介事が降りかかってくるのは仕方のないことで、この流れは些か変えられそうにないと思った。
背負う彼女の冷えた体が、僕の背中越しに伝わった。
「ごめんなぁ。こんな年寄りを背負わせてなぁ」
「大丈夫だよ。いつも山道を歩いているからどうってことないさ」
「本当かぁ? それなら甘えさせてもらおうかなぁ」
あまり人気のない峰が二つあるフタゴフジの警戒任務は、その割に給料が良い。だから、ユウスケは一人で無理なシフトを組んで、僕に助けを求める。
僕が丈夫だから良かったものを。便利屋として毎日頑張っている僕に『一生のお願いだよぉ。頼むよぉ。』と泣きつくユウスケとは縁を切ろうとしても、あいつとの縁は腐っているから、どこから解いていけば分からない。
そして、僕の背中越しには、明らかに喉が開いていない老婆がいる。
「もうすぐ、道に出るから歩けるかい?」
「道? 山姥山に道なんてねぇよぉ?」
「あぁ、そっちでは山姥山って言うんだ。こっちはフタゴフジって言ってね」
「フタゴのフジ? おかしな名前だねぇ」
そう言ってカラカラ笑う彼女がなぜ、僕の背中にいるのか。
見張り中の洞窟で見つけたのだ。最初は獣のうめきだと思った。暗い洞窟の奥、岩に座り込んだ人影を見つけたのはそのあとだった。
声をかけてみれば、返ってきた年老いた人の声に安堵して、おもむろに差し出した手を掴んでくれた時には、この人を置いていけないと思った。だから、おんぶで彼女を背負って歩いている。
「フタゴフジの中腹を回って、下りているからもうすぐだよ」
そうだ。ユウスケのおかげで中腹から麓まで、何度歩いたか分からない。もう目をつぶっても下りられる。
「へぇ、見掛けによらず物知りなんだなぁ。駄賃をやりたいところだけど、六文も持たせてもらえなかったからなぁ」
「それはそれは」
「まぁ、口減らしをされたババアだからなぁ」
背負う老婆の体重は軽い。軽すぎた。
前に掛けたリュックサックの方が重たいとは、彼女を背負う前は思わなかった。
そのせいでか、バランスを崩しそうになったのは初めてのことだった。これほど軽い人は初めてだったから、フタゴフジの向こう側はどうなっているのか少しだけ気になった。
「洞窟で一休みは駄目だよ。熊とか狼の縄張りじゃなかったから良かったけど、縄張りならもう食べられていてもおかしくなかったんだからね」
「悪いねぇ、こんなババアを気にかけてくれて」
「僕にも婆ちゃんがいるからさ。他人事とは思えないんだ」
人一人、おんぶで背負って歩いていてもあまり息が上がらない。フタゴフジは麓辺りまでは整備されているけれど、中腹から頂上は何も手をつけていないらしい。
なにか不都合なことがあったかどうか、教科書にも載っていない話だ。ただ、給料が良い仕事にはそれなりの理由はあるようだ。
「良い子だねぇ。嫁はいるのかぁ?」
「よ、よめ? いないよ。彼女もいないし」
「彼女? よく分からんがぁ、村にいるユリと縁談でもどうだいぃ?」
「……口減らしされたんでしょ? もう無理じゃない?」
「そうじゃった。ワシもボケてもうたぁ」
ボケているなら、ここまで話が通じるはずない。それは分かる。だが、この人がなぜ怖がらないのかは、まだ分からなかった。
ユウスケは言っていたが、山の向こうから来た人はみんな、最初は僕らを『オニ』と呼ぶらしい。
だが、この人は僕が見つけた時からずっと一人の人間として扱ってくれている気がした。
服装から話し方まで全く違うのに、なぜ冷静でいられるのだろうか。
「ねぇ、聞いて良い?」
「なんだい? ババアに分かることならいくらでも聞きなぁ」
「いや、いくらでもってわけじゃないんだけど、僕とおばあさんの服装って全然違うよね。なんでそんなに冷静なの?」
「……冷静? ……服? ……そう言えば、お前さんの着物はちょっと変わっとるな」
そう言った彼女は、僕が見えないことをいいことに、服を指先で掴んでその感触を確かめている。「なんじゃぁ、こりゃ」と呟く彼女に僕は「普通の服だよ。店で売ってる丈夫なレジャー用だけど」と返した。
「ほげぇ、お前さんは色んなことを知っとるんじゃなぁ」
「ここじゃ普通のことだよ」
彼女はまだ、僕の服を見たいようで、「れじゃあ?」と呟く声に、ユウスケの言葉が正しかったのだと改めて分かった。
「痛いところとか、ない?」
「ないよぉ、優しくおんぶしてくれてるからねぇ」
「良かった。ちょっとさ、道に出たら歩けるかな?」
「あぁ、道ねぇ」
「うん、もうすぐだから」
「ババアは遅いよぉ? いいのかい?」
「いいんだ。でもさ、ちょっと決まりがあってさ」
「そうかぁ、じゃあ歩けるところまで歩くなぁ」
「しんどくなったらまた背負うからさ」
彼女と話をして、少し嘘をついた。
別に決まりとか何もない。僕が住んでいる麓の町まで一人で歩く決まりなどあるわけがない。
そんな嘘をついてまで言ったのは、今まで学んだだけで、本物を初めて見た少しばかりの動揺と、僕の心を覆う好奇心に従っただけだ。
年老いた彼女には悪いが、暗い洞窟では見えなかった彼女の服装に興味があった。藍色の着物で裾に模様はない。貧しい暮らしが服にも出ているようだった。
生きる教科書を背負っていると思ったが、どこか懐かしい雰囲気もあるのは何故だろうか。
「上等な服なんだねぇ」
僕の服を触って感触をみていた彼女は満足したようで、僕の首元に腕を回す。
「上等なんかじゃないよ。誰でも買える服だから」
それに、僕の首にかかる温かい息は、背負っている彼女が生きていることを知らせてくれる。
目を下に向けば、老婆の年相応なシワクチャの手と腕も見えた。
どっちが『バケモノ』か僕には分からない。
軽い体重と肉付きの悪い体。最初だけは気になった酷い体臭と薄汚れた服。だが一番は、洞窟で見た彼女の目つきだ。
恐怖、というより、射竦められた。底のない目だった。
かつて鏡で見た自分の目と、よく似ていた。
だから、なんでそんな目ができるのか気になった。




