試験本番
なんだか、ドアを開けたくないと思った。
このドアを開けたら、もう引き返せなくなる気がしたのだ。
だが、リンとの待ち合わせの時間がある。
意を決して扉を開けると、すぐ目の前にはいつもの空といつもの景色。そしてリンの姿があった。
「おはよ」
「チャイム押せよ。寒いだろ」
「ううん、今来たとこだから。なんか、ヤマトがそろそろ出てくる気配がしたんだよね」
「そっか」
リンは、ずるいと思う。たったそれだけのやり取りで、俺の心を平常運転に戻せるなんて。俺にもその魔法の使い方を教えてほしいと思った。
リンとは駅で別れた。
――「頑張ってこいよ」。
リンはそう言って、俺の肩に容赦のないパンチをした。
俺はよろめきながらも、どうにかその衝撃に耐え、「いてーよばか」という言葉をぐっと飲みこみ、「行ってくる」とだけ答えた。
見送りについてってやると言い出したのはリンのほうなのに、最後の最後に照れくさくなったのだろう。
目的の駅までは、音楽を聴きながらぼーっと窓の外を眺めていると、すぐに着いた。
冷たい風が吹き抜ける冬真っただ中を、マフラーに顔をうずめ、てくてくと歩く。空気がぴりりとして、どこまでも遠く澄み渡っている。
この澄み切った空気に自分の白い吐息が混じるのが嫌で、息をあまり吐きたくなくなる。鼻のあたりまで紺色のマフラーを持ち上げると、もう寒さはあまり感じなかった。
入試を冬にやると、インフルエンザにかかったりで受験ができない人がいるから可哀想で、冬に入試をやるのは良くない……。みたいな話を何かで聞いたことがあるが、俺は逆に冬にこそ入試をやるべきだと思う。冷たさで脳みそがきりっと引き締まり、いつもより頭の回転が速くなる気がするのだ。
開門まであと五分という時間。大学にたどり着くと、予想通りすでに大勢の人が入り口から列を作っていた。その最後尾に連なり、同じく敷地の壁沿いに並ぶ。
去年はあまりに早い時間に着いてしまい、外でずいぶんと待たされて寒い経験をしたから、今年はその反省を活かしてのタイムスケジュールだった。
列に並ぶ受験生たちは、みんな思い思いのテキストを持って、最後の数秒まで無駄にしないぞとばかりに暗記の確認をしていた。
俺は今さら足掻いたって結果に影響はないし、直前に記憶を焼き増そうとしても、脳が混乱するだけだと考えているから、制服姿の彼らを横目に静かにカイロをポケットの中で弄び、手先の感覚を保つことに終始する。
これまで模試会場とか試験会場で制服を着ている奴は全員くたばればいいと思っていた。お前ら服装で浪人生を威圧するのやめろ、と。
でも今は、自負があった。現役生よりも一年間、自分には積み上げてきたものがあると。彼らよりも少なくとも一年は長く勉強に費やしてきたのだと。
今なら胸を張って言うことができた。それは無能の証明で、弱さの受容でしかないのだろうけれど、この一年に俺はプライドを持っていた。
開場の時間ちょうど、人の列がゆっくりゆっくり進み始める。
いよいよ、俺の二度目の受験が始まろうとしていた。そして、終わろうとしていた。
ここのところ、なんだか勉強が楽しくなって、ずっと今が続けばいいのにとさえ考えるようになっていた。どんな形であれ、この日々がもうすぐ終わってしまうということが、急に名残惜しく、さみしく思われた。あれほど浪人生活を嫌い、疎んでいたというのにずいぶんと都合の良い話だが、目標に向かって一心不乱に努力する日々は決して悪いものではなかったから、この日々が終わることに、勝手に郷愁の念を抱くことくらいは許してほしいと思った。
無事、教室にたどり着き、自分の受験番号が張られた席についた。いよいよ試験監督官のアナウンスが始まり、問題冊子が配られ始めた時、急に緊張し始めている自分に気が付いた。
朝からどうにか思考を紛らわせ、平静を装っていたが、現役のときより緊張していたのは事実だった。堪えていないと、心臓が口から飛び出してしまいそうなプレッシャーがあった。
――よく考えれば当たり前のことだ。一年間、この日のためだけに頑張ってきたのだ。ここで失敗したら、すべての努力が水泡に帰し、何もかもを失うことになる。緊張するのも無理はない……。
そこまで考えて、俺はそんなネガティブな思考をすぐに掻き消すことができた。
この一年は勉強をたくさんした一年だったけれど、それは受験のためだけじゃない。この先の人生のために努力をした時間は、不合格になったからと言え、消えてなくなったりはしない。
それに何より、予備校でリンに謝罪をした時が、俺の人生で一番緊張した瞬間だった。その時に比べれば、こんな緊張は何でもない。
そう思うと、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
仲直りは。人と人との関係は、努力だけじゃどうにもならなかった。
受験は。勉強は。努力でいくらでもどうにでもできる。やり直しもできるし、失敗したって終わりじゃない。
そう思ったら、ぐっとお腹の底から力が湧いてくるような気がした。
今なら、どんな問題でも解けるような気がした。




