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紅茶と珈琲

 


 別に、ミライのことなんてどうだっていい。


 ミライは恵まれ過ぎているし、少しくらい不幸になった方があいつのためにもなる。


 あいつは田辺たちと同じ種類の人間で。つまり「持ってる」側の人間で。


 それは例えば好きな子が自分のことを好きなってくれるような、そういう自分の思い通りに物事が進んでいく人種であって。


 俺みたいに自分の思い通りになることが一つもない人間の気持ちなんか死んでも理解できないのだから、せいぜい愉快な仲間たちと明るい世界で楽しく生きて行けばいい。


 正直関わりたくないし、カッコつけてばかりのあいつのことは大っ嫌いだ。リンさえそばにいてくれれば、それでいい。


 本気でそう思っていたし、今でもそう思っている。


 でも、結局は身体が動いてしまった。


「ちょっといいか」


 俺は勇気とかいうやつを振り絞って、声を掛けた。途端に女子高生集団から笑顔が消え、警戒心が露わになる。彼女たちは「誰?」「メイ、知り合い?」と小声で牽制を始めた。


 本音を言えば、今すぐここから逃げ出したい。けれど、もう今さら引き下がれなかった。ここで撤退しようものなら、本当にただの危ない奴になってしまう。通報されたって文句は言えない。大丈夫だ、「キモイ」とか「ヤバすぎる」なんてセリフ、リンに毎日のように言われるじゃないか。


 友人たちの露骨な拒絶の態度とは裏腹に、平野は困った顔一つせず、「あら、お兄さん」と笑顔を浮かべてみせた。


 その余裕がまた一つ、俺の不信感を煽った。




 それは平野と初めて会った日から、二日後のことだった。


 予備校からの一人きりの帰り道、気分転換にと思って駅までの道を遠回りして散策していたら、甲高い笑い声が耳をつんざいた。思わず声の方を見てみると、コンビニの前でたむろしている女子高生たちがいる。そしてその中に、友達とスマホを見ながら馬鹿笑いをしている平野がいた。


 彼女の笑顔は、親が酒とギャンブルに溺れている人間のものとは思えなかった。それどころか、有り余る幸福と怠惰を享受する、普通の女子高生に見えた。


 俺は一旦その場を離れ、住宅街を行ったり来たりしながら考えた。


 見なかったことにしようか、それとも声を掛けようか。変われるんだろうか、それとも今までと同じ「俺」で居続けるのだろうか。


 同じところをぐるぐると周りながら、自問自答を繰り返す。


 そして十分後、俺はもう一度コンビニの前に戻ってきた。


 やっぱり最初から答えは出ていたのだ。


 どうしても俺は、リンに誇れる自分になりたかった。


 良い人キャンペーンは、延長だった。




 平野は友人たちに「ごめん、私行くね。バイバイ。また明日」と明るく言って歩き出した。でも俺は、その素直ささえも余裕の表れなのだと思わずにはいられなかった。


「どこに行きます?」


「そこの公園でいいか?」


 この近くの住宅街の中に、小さな公園があるのをさっき見かけた。あそこならちょうどいいだろう。


「いいですよ」と平野はニコニコと笑顔を浮かべて、黙って俺の後についてきた。


 道路わきに植えられたツツジが花を付けている。でも、あまり美しいとは言えない。枯れて茶色くなっている花はそのままにしてあるし、咲いているものも水が足りていないのかしぼんでいた。俺はそんな花を見るといつも花がら摘みをしたくなるのだが、近隣住民からあらぬ誤解を受けそうなので絶対にそんなことはしない。


 建物の中に埋もれるようにひっそりとある公園には、日暮れが近いからか誰もいなかった。せいぜい頭の悪そうな鳩が数羽いるくらいだ。


 ベンチの隣の自動販売機まで来て、俺は財布を取り出した。


「なにがいい?」


「わぁ、ありがとうございます。じゃあ紅茶でお願いしますぅ」


 親指でぐっとアイスティーのボタンを押した。飲み物を手渡し、俺は平野の隣に座る。


 ベンチはなぜか少し湿っていて、気持ちが悪かったが気にしないことにした。


「いただきますぅ」と平野は腑抜けた笑顔を浮かべてプルタブを引く。


 俺は一刻も早くここから去りたくて、すぐに本題に入ることにした。


「なあ、こないだの話なんだけど、ぜんぶ嘘なんだろ?」


 平野はゆっくりと口元に持って行った缶を傾けることなく、膝の上に戻した。


「嘘ってそんな。何のことですか、いきなり」


 鳩とカラスと野良猫だけが、こちらを見ていた。動揺や不安を悟られないように、俺はあえて断言することにした。


「もし、お前が二度とミライに関わらないって言うなら、俺は何も知らないふりをする。でも、このまま詐欺師みたいなマネを続けるって言うなら全部あいつに言うぞ」


「詐欺師ってそんな」


 彼女は即座に笑顔を消し、目を伏せて困った顔をした。手に握った紅茶の缶を見つめるそのアンニュイな姿や、長いまつ毛に少し見惚れてしまいそうになる。


 ここまできても、まだ確信はなかった。自分が俗に言う「痛いヤツ」であることも十分わかっていた。でも、これをきっかけにしたかったのだ。


「俺は君が嘘をついていると断定してこの場にいる。もし万が一君が本当のことを言っているとしても、俺は構わない。だから取引をしようと言ってる。もし君が本当のことを言っているのだとしたら、君は別に何も損をしない。でも、もし嘘をついていたら、君は大きな損をする。どうする?」


「意味わかんないです。いい加減にしてください。ひどい」


 今にも泣きそうな声で言う。彼女は簡単に手折れてしまいそうな花のように儚げで。持っただけで割れてしまいそうなガラス細工のように繊細だった。


 これで冤罪だったら、俺はわりと最低なやつだ。


「……疲れないか? そういうの」


 もしこの濡れ衣がきっかけで弟の恋路を妨害してしまうとしたら、多少は申し訳ないが、悪気はなかったと謝ろう。


 挫けそうになる気持ちを支えるために、言葉を重ねていく。


「俺は疲れる。大っ嫌いな弟の顔を見るのも嫌だし、好きな女の子と友達ごっこをしなきゃいけないのもしんどいし、何もかもが疲れるよ。君はそういうの、疲れない?」


 一幕の静寂。


 カラスのしゃがれた鳴き声が公園に響いた。バサバサと木々から飛び立つスズメの群れが見える。夕暮れ時の公園には薄気味悪い静寂が広がっていた。


 どこからか、「フフ」という小さな笑い声が聞こえた。


 人を小ばかにするための、鼻で笑った音。


 俺はそれを一瞬、聞き間違えかと思った。

 だが平野の方を見ると、すぐにそれは確信へと変わった。


 不幸なんて微塵も感じさせず、むしろ世の中のすべてをなめくさったような、どこにでもいる若い女の顔がそこにはあった。


「もちろん疲れますよ」


 平野は化けの皮を剥がしたと伝えようとしているのか、大袈裟に口元を歪め、毒婦のような卑しい笑顔を浮かべてみせた。そこに先ほどまでの、少女特有の儚さは微塵もない。


「そりゃ私だって疲れますって。だから弟君でストレス発散してるわけですし」


「キャラが崩壊してるぞ」


 平野はすっと立ち上がると、アイスティーを口に運んだ。ごくごくと音を立てて、中身を飲み下す。俺はそれを待つことしかできなかった。


 傾けられた缶の角度はどんどん増していき、最終的に百八十度になると、平野は空になったそれを近くのゴミ箱へと放った。


 缶の山が崩れたらしく、ガラガラときつい音がする。それを気にするふうでもなく、彼女はそのままブランコへ向かって歩いて行った。


「キャラチェンジですよ。お兄さんにはこっちのほうがウケが良さそうなんで」


 平野はにこりと笑うとサッとブランコに飛び乗り、膝を曲げて漕ぎ始めた。


 彼女の変貌ぶりにまったくついていけなかった俺はどうでもいい質問で時間を稼ごうと


「俺とミライと同時に会うときはどっちにすんだよ?」


 と尋ねてみた。


「それはもちろん、優先順位が高い方に合わせるに決まってるじゃないですか」


 と即座に笑い飛ばされる。


 彼女が乗るブランコはどんどん勢いを増していき、ギイギイと音を立てる。俺はそれに負けないように、大きな声を出した。


「結局、なんでお前は金がいるんだよ?」


「アハハ、お兄さん、面白いですね。弟くんはあんなに純粋なのに、お兄さんは腹グロで地味で全然似てないと思ってたら、そういうところは似てるんですね」


 ブランコが動くのに合わせて平野の声に強弱がついた。


「どういう意味だよ?」


「別に、わかんないならいいでーす。で、なんでお金がほしいかでしたっけ? 私、別にお金がほしいわけじゃないんですよ。あ、もちろんくれるっていうならほしいですけど」


 俺はこいつのことを、二日前に出会ったミライの彼女とは別の人間だと思うことにした。彼女はブランコに立ち乗りなどせず、儚げに座っているタイプだと思っていたが、それは単なる幻想だったのだ。本当はアイスティーを一気飲みして空き缶をゴミ箱にダンクシュートするような女だったのだ。


「じゃあなんであんな陳腐な嘘ついたんだよ?」


「私、弟君のこと気に入ってるんですよねぇ。お金もらうのはやめるんで、黙っておいてもらえません?」


 わけがわからない。平野の思考回路は完全に俺の理解の範疇の外にあった。


「気に入ってるって、どういう意味だよ?」


 といちおう確認しておくと、平野は


「あんなに真っ直ぐに生きてる子って今どき珍しくないです? 可愛いんですよねー。だからちょっとからかいたくなっちゃって」


 と楽しそうに答えた。


 聞けば聞くほど意味が分からなかった。「今どき」って、たった十何年しか生きていないこの小娘が、何をもって今を語るのだろう。


 わかったのは、平野が嘘つきで、真に受けたミライがバカだったということだけだ。


 俺は自分の予想が当たったというのに少しも嬉しくなかった。


「わざわざあんな嘘つかなくても、あいつ、彼女にはガンガン貢ぎそうだけどな」


「お、さすが兄弟。わかってますね」


「え? ガンガン貢がせてるってことかよ?」


「ふつーくらいですよ。デートの時はお財布持って行く必要が無かったり、誕生日にはちょっとばかしお高いものを買ってくれたり。まあだから、どこまでいけるかなぁって思って……ちょっとやりすぎちゃいました」


 平野は今までと違う、子どもみたいな顔で笑った。


「他人からもらう金なんて、怖くて受け取れないと思うんだけど? 払うのだって絶対ありえないし」


 無償でもらえるものなんてこの世には存在しない。誰もが見返りを求めている。現金に見合う対価を払うことなど、俺には到底できない芸当だ。


「わかりやすい愛の証明じゃないですか、お金って」


 平野は俺の気持ちを知ってか知らずか、さも当然のように言ってのけた。もう何も言い返せない。というか、言い返す気力もない。平野は宇宙人なのだ。そうに違いない。


「ったく、テキトーに生きてんな、お前」


「はああ?」


 今まで飄々としていた平野の声が少しだけ低くなる。どうやらバカにされると頭にくるらしい。そこは普通の地球人で安心した。


 平野はブランコに勢いをつけると、そのまま華麗に飛び降り、こちらへ戻ってきた。


「私から言わせてもらえば、それはお兄さんの方ですよ。私は好きな人を落とすためならあらゆる手を尽くして一週間で落としますし、嫌いな子はグループから一日で追い出します」


 夕日を背負って立つ彼女から、長い影が伸びていた。


 こんな女を好きになるなんて、ミライはほとほと見る目がない。


「……お前、怖いな」


「普通ですよ、女の子ならこのくらい。あ、お兄さんは女の子の友達少なそうですもんね」


 そのお兄さんて呼び方、何とかならないのか。


 そう言おうと思ったら、


「じゃ、そういうことで。ミライ君には秘密でお願いします。父は心を入れ替えて働くようになったってことにするんで。じゃっ、紅茶ごちそうさまです」


 と彼女は自分の言いたいことだけ言って、去っていった。


 鳩とカラスだけが公園には残された。


 どっと疲労が押し寄せてくる。太陽はマンションの向こう側に消えて、その余韻だけが街を照らしていた。


 俺は缶コーヒーを買って、ブランコに腰かけた。風に揺られ、きぃきぃと小さな音を立てている隣のブランコに目をやる。


 ――おつかれ、お互いよく頑張ったよ。


 さっきまで平野に踏まれていたそいつは、そんなことを言ってくれた気がした。


 缶コーヒー独特のしつこい甘さが脳に染み渡るようだった。






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