【16】届かない声と、不穏な影 side:優哉
ドラマ『オフィス・ラブ』スペシャル番外編の撮影は、日付をまたいでも続いていた。
スタジオの空気が重く澱んでいるように感じるのは、単に身体的な疲労のせいだけではないだろう。
配信ライブのときのテンションの高さと打って変わって、絵恋は微妙な不機嫌さを隠さない。NGも増えていた。疲れているのはわかるが、それを表に出すこともコントロールできない幼さに、周囲も疲弊している。
優哉はなるべく普段通り、テンションを一定に保ったまま撮影に臨んでいたが、心のなかのもやは全く晴れない。否定も肯定もできぬまま「理想の彼氏」という記号の中に閉じ込められ、虚構の熱狂に晒される時間。それも仕事だと理解してはいるものの、長丁場のスケジュールも相まって、精神的に摩耗していることは否定できなかった。
スタッフが次のセットの準備に追われる待ち時間は、貴重な休憩時間だった。優哉はパイプ椅子に深く腰掛け、そっとため息をついた。
さすがに疲れた。
誰かと話をしたい。
でも、その相手はマネージャーの斎藤でも、ましてや隣で甘ったるく話しかけてくる絵恋でもなかった。
(……花梨ちゃん)
数日前、電話で「しばらく会えない」と拒絶されたときの、彼女のどこか突き放すような、けれど震えていたようにも聞こえた声が、耳の奥にこびりついて離れない。
一度拒まれた以上、しつこく連絡を入れるべきじゃない。そんなことはよくわかっている。
けれど。
今、自分が自分を保つためには、彼女の凛とした存在がどうしても必要だ、と思った。
優哉はスマホを取り出す。画面が放つ無機質な光が、疲弊した、しかし美しく整った顔を青白く照らす。
『夜遅くにごめん』 『起きてる?』
送信ボタンを押し、そのまま画面を見つめ続ける。
しかし、数分経っても、期待した既読の文字は現れない。
時間はもう、12時を回った。彼女は毎日サロンの仕事があるのだろうし、もう眠っていてもおかしくない。むしろ、すぐに返事が来るなんて期待しないほうがいい…
そう自分に言い聞かせるが、指先は無意識にメッセージアプリを一度閉じ、再び開くという動作を繰り返してしまう。
(……本当に、迷惑なだけなのかな)
返信が来ない一分一秒が、自分たちの住む世界の距離を突きつけてくる。 その距離を感じるたびに、自分が自分じゃなくなるような焦燥感が増していく。
たまらず不安を掻き消すために、優哉はスタジオの死角へと移動し、彼女の番号をコールした。
迷惑だとわかっている。寝ているのかもしれない。でも、どうしても、声が聞きたかった。彼女の存在を感じたかった。
今の自分を現実に繋ぎ止めてくれる、あの落ち着いた声が聞きたかった。
『――ただいま電話に出ることができません。電源が入っていないか、……』
しかし、耳に届いたのは、彼女の声ではなく、冷たい機械音声だった。
優哉の指先が、微かに震える。
しばらく信じられなくて、そのまま突っ立っていた。機械音だけがむなしく耳に反響する。
彼女が電源を切っていたことは一度もなかった。
というか、そんなことほとんどないだろう。
…となると。
(ブロック、されたのか……?)
その可能性を考えた瞬間、喉の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚に陥った。
日々の仕事。虚しいプライベート。そこに差し込んできた光、自分が自分らしくあれる存在。
虚像に塗りつぶされる中で、唯一、誠実でいたいと願った相手。
その彼女にまで、自分はもう届かなくなってしまったのだろうか。
俳優としての冷静な判断力は、彼女という存在を前にすると、驚くほど簡単に崩れ去る。
電話を切り、よろよろと椅子に座り込む。
そのまま頭を抱え、目を閉じた。幸い、まだ呼ばれていない。今は、ここにあるものすべてを見たくなかった。セット、スタッフ、共演者。自分の虚像を作るものたち――少しだけ、それらを遮断したかった。
時間にしては数分ほどだったと思う。
「撮影再開しまーす!」
スタッフの呼びかけに、優哉は頭を上げた。いつまでも遮断していられない。目の前でやるべきことがある。
優哉は唇を噛み締め、決めた。
スマホを開き、未読と応答のなかった着信履歴の次に、メッセージを打ち込んだ。
『かりんちゃん』
『会いたい』
見てくれるかどうかわからない。でも、もう飾れない。自分の気持ち。素直な、演じていない気持ちをどうしても今、伝えなくてはと思った。
送信を終え、スマホをポケットに沈める。
「西原さん、スタンバイお願いします!」
「…はい!よろしくお願いします!」
優哉は再び完璧な「西原優哉」の顔を作り、スタッフに笑顔で応えた。
「お願いしまーす」
いつの間にか横にいた絵恋も、優哉に続いて答え、二人でセットに入った。
この流れは、一見すれば、集中力を高めてから現場に入る、俳優としてプロフェッショナルな姿だと感じただろう。
絵恋以外は。
絵恋は遠目でずっと見ていた。
どこか苛立ちを見せながらスマホを打つ仕草、何度も何度も画面を確かめる様子、そしてさりげな現場の隅に移動して電話したのに、電話で話す様子なく茫然とする姿、絶望に近い瞳の揺れを見せながら椅子に座り頭を抱える優哉を。
何に落ち込んでいるのだろう?
あんなに必死になって、誰に連絡をしているの?
絵恋は音もなく彼に近づいた。普段人の気配に敏感な彼が、ある程度まで近づいても反応する様子なく、頭を抱え続けている。
スタッフが撮影を再開すると呼びかける。
その時、優哉はぱっと頭を上げた。話しかけようとしたその時、彼は勢いよくスマホを開き、何かメッセージを打った。絵恋は、その画面が見える場所にいた。
『かりんちゃん』
『会いたい』
(…かりんちゃん?)
知らない名前だった。今まで優哉の交友関係でも聞いたことのない名前だ。でも、明らかに女の名前。
(…さっき、電話しようとしたのもその子?)
絵恋の中で、一気に暗い感情が燃え出した。
12時過ぎた時間に、電話をかけ、そこに出てもらえないからさらにメッセージを送る。
どう考えても、普通の関係の女の子ではない。
優哉はずっと、特定の彼女を作らないはずだった。しょっちゅう夜遊びはするが、本命はいない、というので有名だったのだ。絵恋もしょっちゅうそういった場には顔を出しているから、知っていた。かっこよくて優しい、遊びもスマート、でも誰にも心を開かない。それが彼だったはずだ。
その彼が、わざわざ会いたいと自分からメッセージを送る相手。
(…絶対見つけるから、かりんちゃん)
セットに入った二人。
再び照明が焚かれ、本番の合図がかかる。
優哉はすでに、絵恋を愛おしそうに見つめる「理想の彼氏」を完璧に演じ切っている。
けれど、その微笑みの裏側に、もう自分たちの世界とは別の場所を見ている彼の心を、絵恋は感じ取っていた。
そして、絵恋はそれが許せないのだ。
<つづく>




