第5巻:第5章 戦争なんて大嫌い
南アルテースで暫定休戦協定が結ばれてから、更に4日の時が流れていた。
今は12月の半ば。帝都サクラスの背後にある蒼の山脈は麓まで雪化粧し、今では白い山脈になっている。
サクラスの街は、どこも色とりどりの飾り物で華やかになっていた。1年でもっとも華やかな祭──冬至祭まで、あと10日を切ったからだ。レンガ造りで落ち着いた街並みも、この時ばかりは派手に飾りつけられている。
そんな街並みを通ってきたクラウが、手に紙切れを持って聖サクラス教会にある集配施設へ入っていった。
「あ、クラウ。良いとこに来たわね」
建物に入ってきたクラウに、レジーナが手を振って声をかけてきた。そのレジーナに軽く手を振り返したクラウが、
「レジーナちゃん。どうしたのですか?」
と尋ねながら、コートを脱ぎつつ近づいていく。
「実はね。今朝、メイベルから大荷物が届いたのよ。それも木箱が5つも!」
クラウに広げた手を向けたレジーナが、笑顔で良いことを伝えた。
「木箱が5つ……ですか? 中身は?」
「ほとんどが設計図とか技術資料よ。メイベルらしいわ。それで今パセラに、設計図なんかを帝国技研にいるアウル博士に届けてもらってるの」
レジーナがカウンターに肘を突いて、にかっと白い歯を見せる。そして、
「それと、ちょっと早いけど、クラウに冬至祭のカードよ。メイベルと勇者くんから」
と言って、クラウに2枚のカードを渡してきた。
「おおおおお〜っ☆ メイベルちゃんから、僕に冬至祭カードですか♡」
カードを受け取ったクラウが手早く差出人を見て、メイベルのカードの方を高く掲げた。そのカードには青い服を着た魔法使いの老人が描かれている。その絵を見ていたクラウが、
「僕に会えなくて寂しい胸の内を、長々とつづってませんかねぇ♡」
などと1人で盛り上がってから、くるっとカードを裏返した。そこに書かれてたのは、
「あ……。『霜じいさんに食べられないでね♡』だけ……ですか。これだけ?」
短い一言だった。
ちなみにカードに描かれている青い服の老魔法使いは霜じいさんといい、「良い子にはご褒美をあげよう。でも、悪い子は食べちゃうぞ」が決め言葉の祭の主役だ。この霜じいさんには炭ばあさんという黒服を着た魔法使いの連れ合いがいて、こちらは「良い子にはご褒美をあげるよ。でも、悪い子には炭しかあげない」が決まり文句である。
そして、その炭ばあさんの絵のカードは、レジーナに送られていた。
「ところでクラウ。何を持ってきたの?」
カードを渡したレジーナが、そこで初めてクラウの持ってきた物に気づいた。
「あ、そうそう。これは街で配られてた、インペリアル新聞の号外ですよ」
カードをポケットに入れたクラウが、代わりに持ってきた号外をカウンターに広げる。
「見てください。『救世の勇者と聖女。今度は南アルテースの内戦を止める』と書かれてるんですよ」
「えっと、『さる12月9日午後2時頃。南アルテース第2の都市ラクスにおいて、歴史的な調印式が行われた。この調印はラクスと南アルテース最大の都市サンスタグの暫定的な休戦協定であるが、翌日までにメルキアとセリアなど27の都市と地域が協定に加わることを表明。後日、調印式が行われる予定で、調印後は互いにこの冬はすべての争いが停止することになる。今後は話し合いによる和平交渉が進められるであろう。これにより数世紀にわたって続いていた南アルテースの内戦が終結すると期待される。なお、この協定への道筋を作ったのは、絶望病から世界を救った救世の……勇者と聖女……と、2人の友人であるマウンテン・ドラゴンである』……だってぇ!? なによ、これ??」
号外に目を通したレジーナが、あまりにも突飛な話に裏返った声を出した。
「あの2人、いったい、何をしちゃったわけ?」
「たったこれだけの記事では、何があったのかさっぱり……」
2人がカウンターを挟んで、事態を呑み込めずに混乱している。
そこに、
「ただいま戻りましたぁ」
と言って、コート姿にマフラーをしたパセラが集配施設に入ってきた。そのパセラも、
「ああ、クラウさんも来てたのですかぁ。大変ですよぉ。街で帝国タイムスが号外を配ってまして、それでメイベルたちが……」
と、街でもらってきた号外を見せてきた。
「帝国タイムスも号外を出したのですか?」
「あれぇ!? クラウさんも持ってきてたのですか? そちらはインペリアルですぅ」
パセラがカウンターに置かれた号外に目を落とした。そして、
「なんでもメイベルが、とんでもない防壁構造と新兵器を発明したらしいんです。それで勝てないと踏んだサンスタグが休戦協定を申し入れてきて……」
と内容を話しながら、その横に自分の持ってきた号外を並べる。
「パセラ。新兵器と防壁……何? それって何なの?」
「さあ、そこまでは書いてませんけど……。あぁ、そちらは協定の中身が詳しいですぅ」
2つの号外は同じ休戦協定を伝えていたが、伝える断片が微妙に異なっていた。
しばらくの間、3人は2つの号外を読み比べている。だが、
「でも、メイベル、今もラクスにいるみたいですぅ」
パセラが、一番気になることを読み取った。それは何よりもメイベルの居場所だ。
それに微笑みながらふうっと息を漏らしたレジーナが、
「ところでパセラ。メイベルからの久しぶりの荷物を受け取って、アウル博士は大喜びしてなかった?」
と、別の話題を振ってきた。
「あ、そうそう。アウル博士、喜ぶは喜んでたんですけど、それよりも技研中が大騒ぎになってました。メイベルの設計図と報告書のことで専門家たちが集められて……」
「専門家? 何かすごい設計図だったの?」
「それが……ですね……」
そこまで言いかけたところで、パセラが思い出したように首に巻きつけていたマフラーを取り、羽織っていたコートを脱いだ。そしてコートのポケットに手を入れ、中から紙の封筒を出してくる。
「メイベルからの手紙が、設計図の中に紛れてました。それで、この手紙に、どんな設計図を送ってきたかが、いろいろ書かれてたんですぅ」
そう言いながら、パセラがニコニコと微笑みながら封筒から便箋を出して広げた。その手紙を横から覗き込むクラウが、
「ゔ……。やっぱりシルヴ文字ですか。僕には読めません……」
と零して、残念そうに肩を落としている。
そんなクラウの反応にくすっと微笑んだパセラが、
「それでは手紙を読みますね」
と言って、軽くコホンと咳払いした。
「『パセラ。元気にしてる? かなりのご無沙汰になってゴメンね。わたしの今いる場所は南アルテースのラクスって街よ。これを書いている今日は11月15日だけど、これがパセラの手許に届くのは、いつぐらいになるかしらね。たぶん1か月はかかるかしら。その頃には、もしかしたらラクスから別の場所へ移ってるかもしれないわね。
それはそうと、ラクスに来て驚いたわ。この街は先端技術の宝庫よ。そちらでも動力船のことぐらいは知ってるでしょうけど、それを動かすエンジンや燃料はここラクスで作ってるものなの。あのエンジンのうち蒸気エンジンを発明したのが市長さんでね、その市長さんと話をしてて、蒸気エンジンで陸上を走れる機械を作れないか、一緒に研究することになったの。サクラスには水力列車が走ってるけど、ラクスには鉄道という概念がなかったのね。だから、2つの技術を合わせたら、きっと走れる機械が作れると思うわ。
他にもラクスにはたくさんの素晴らしい技術があるの。火を使わずに水車でお風呂を沸かす技術とか、水車で冷暖房する技術、それから空を飛ぶ技術もいろいろあるのよ』」
「水車でお風呂を沸かす技術に、空を飛ぶ技術!? そんなことが可能なのですか??」
手紙を聞いていたクラウが、いきなりそんな声を上げた。それで読み上げを中断されたパセラが、肩をすくめて苦笑する。
「クラウは黙ってて。パセラ、続きを読んで」
レジーナが不愉快そうな声で、邪魔をしたクラウをたしなめた。それにクラウが手の仕種だけで「ゴメン」と伝えてくる。
「え〜と……。『だけど何よりもエンジンの技術がすごいわ。サクラスのモーター技術といい勝負だと思うの。
それでラクスで見た技術を、寝る間も惜しんで設計図や報告書にまとめておいたわ。
ホントはラクスに着いたのが11月3日だから、パセラにはもっと早く手紙を書こうと思ってたんだけどね。せっかくだから設計図と報告書も一緒になんて思ってたら、10日以上もかかっちゃった。てへっ、ゴメンね。ということで一緒に送った設計図と報告書は、技研にいるアウル博士のところに』……」
「ったくぅ……。こっちが心配してるのに、メイベルはよろしくやってたわけね」
今度はレジーナがぼやいて、パセラの読み上げを止めてしまった。それで2人から視線を向けられたレジーナがら、口を押さえて2人に手で「ゴメン」と合図する。
「え〜、『アウル博士のところに送っておいてね。これは報告書にも書いたけど、ラクスの機械や金属加工の技術は、サクラスをはるかに凌駕してるわ。でも、電気や冶金の技術はサクラスより遅れてるみたいなの。だから、両方の進んだ技術を融合できたら、世の中が今以上に発展できると思うわ。わたしとしては、できればその最先端で技術に触れていたいけどね』と……。ここまでが本文ですぅ」
そこまで読んだパセラが、乾いたくちびるを舌で軽くなめた。そして読み終えた便箋を後ろに回し、最後の1枚を上にする。
「で、『追伸。これを書いてる3日前の11月12日。ラクスにサンスタグが攻めてきたの。蒸気ジェットで水上を時速60km以上で走る強襲揚陸艇とか、空に浮かぶ熱気球と空を滑るように飛ぶグライダーの空中戦とか。とんでもないものを見ちゃったわ。それでラクスの街に被害が出て、わたしも死にそうな目に遭ったけど、取り敢えず無事に生き残れたわ。それで今、どうやったら次の攻撃をしのげるか、街の土木係の人たちと検討中なの。新しい防壁構造とか、その建設工事に使う土木機械をいくつも発明してるから、これらの設計図はまた次の機会に送るわね。
追伸その2。これを書いてる今、熱気球を並べて蒸気エンジンに風車をつけたら空飛ぶ船ができないか、ふと思いついちゃった。これも形になったら送るわ。
ということで、またね。11月15日、メイベル・ヴァイス』と、以上ですぅ」
「メイベル。本当に楽しそうね」
レジーナがカウンターに頬杖を突いて、不機嫌そうな表情をしていた。
ずっと心配してたのに、当の本人は能天気に最新の技術に魅せられてウカレている。そう思うと、やり場のない怒りが湧き上がってきたようだ。
「メイベルちゃん。死にそうな目って……」
対照的にクラウは文中の一言に、ますますメイベルへの心配を強めたようだ。
さて、その頃、ラクスにいるメイベルは、
「あ〜、良いお湯じゃ。身体の芯まで温まるのう」
「そうねぇ。このお風呂にいる時間だけが、ゆっくり休める時間だわ」
人の姿になったフェレラと一緒に、大きな湯船に浸かっていた。
「メイベルは忙しいようじゃからのう」
「そうなのよねぇ。聖女だからって、休戦が決まってからあちこちの会合やお祭りに引っ張りまわされて、なかなか自分の時間が持てないのよ。市長さんと一緒に蒸気エンジンで動く鉄道機関車、設計したかったんだけどなぁ」
フェレラの横に並んで、メイベルが鼻のあたりまでぶくぶくとお湯に沈んでいく。そんなメイベルを離れたところから見ているジェニフィが、
「それは聖女さまが、何世紀も続いた内戦を止めた功労者だからですわ」
と笑顔で言ってきた。お風呂にはもう1人、時計を持ったキャロルも入っている。
「功労者!? わたしが何をしたの?」
「サンスタグの最新兵器を、あっさりと無力化した大発明じゃないの? 防壁だけだった街の守りが、聖女さまの発明でかなり強化されたじゃない。それにグライダーを空高くまで飛ばす新しい射ち出し方。あれで一気に戦局が変わったもんね。ラクスの守り神よ」
ちょっと不貞腐れるメイベルに、キャロルが時計を見ながらそんなことを言ってきた。その言葉に続くように、
「でも、やはり一番の理由は、聖女さまがフェレラさんと親しかったからと思いますわ。フェレラさんも聖女さまがこのラクスにいなかったら、あまり頻繁にはいらっしゃらないでしょう。となればサンスタグとの戦いの時、フェレラさんがドラゴンの姿に戻ることも、それを見てサンスタグから休戦の申し出がくることもなかったと思いますの」
と、ジェニフィが付け加えてくる。
「だったら、フェレラも功労者じゃないの。フェレラも式典に引っ張り出そうよぉ」
「わらわも出ておるではないか。晩餐の時だけじゃが」
「そうね。お食事目当てだけど……」
メイベルがフェレラの腕を引っ張って、怨めしそうな顔をする。
「それに内戦を止めた功労者と言われても、休戦はこの冬だけの暫定でしょ」
「あ、それは建前じゃないかな」
ぼやくメイベルに、キャロルがそんなことを言ってきた。
「戦争が続いて喜ぶのは、一部の戦争バカな軍人貴族と、武器商人ぐらいよ。他のみんなは、いい加減に戦争をやめる口実が欲しかったと思うのよね。でもほら、お祖父ちゃんが言ってたんだけどさ。最初にちゃんとした理由もなく休戦を言い出したら、あとで南アルテース内での立場が弱くなるそうなの。それで誰も言い出せなかったらしいわ」
そこまで言って、キャロルが大袈裟に肩をすくめてみせる。そして持っていた時計を湯船の外に置いて、
「それに休戦協定と言ってもさ。表向きはあくまでもラクスとサンスタグの間だけの協定だよ。サンスタグはドラゴン教の国だから、マウンテン・ドラゴンが現れたラクスと戦うことはできないでしょ。だから、ラクスに休戦を申し出るのは当然……というか、サンスタグはドラゴン教にとって聖地だし、中核となる聖スタグ教会があるから、立場上、ラクスと戦わないことを公言する必要があったらしいのよ。
それで他の国はあくまで休戦協定への参加ではなく、ソルティス教の国は南方教会の中心──聖ラクス教会と歩調を合わせる、ドラゴン教の国は聖スタグ教会と歩調を合わせるって口実で、今回の調印を進めてるそうなの。ちょっとした政治的な駆け引きみたいね。
ま、あたしには政治なんかわからないから、今のはお祖父ちゃんの受け売りだけどさ」
と解説してきた。
「うぇ〜。裏ではそんな政治のやり取りがあるの? そんなのは政治家だけでやってよ」
「うふふ。でも、ラクスで式典がある以上、聖女さまが出席されるのは義務ですわ」
不愉快そうな顔でお湯に沈んでいくメイベルに、ジェニフィが笑顔でそう言ってきた。
そのジェニフィに、しばらく不機嫌そうな視線を送っていたメイベルが、
「それにしても、フェレラが『一緒にお風呂に入ろう』なんて言ってくるとは思わなかったわ。ドラゴンにもお風呂に入る習慣はあるの?」
と話題を変えてきた。その質問にフェレラが、
「温泉に入ることはあるが、人間のようにお湯を沸かしてまで入る習慣はないぞ」
と、肩までお湯に浸かりながら答える。
「ところで、どうして急に一緒にお風呂なんて言い出したの? 人間のお風呂の入り方を観察したいの?」
「ふむ。そういう人間観察をしたい気持ちもあるのじゃが……」
そこまで言いかけたところで、フェレラがメイベルに顔を向けた。
「実はそれよりも人間観察をしていて、どうしてもわからないところがあってのう。それをメイベルに見せてもらえないかと思ったのじゃ」
「わからないこと?」
フェレラの言葉に、メイベルが軽く首を傾げる。そのメイベルをジッと見ながら、
「わらわはこうやって人間の姿に変身しておるが、やるならばできるだけ人間に似せたいのじゃ。しかし、どうも細かいところがわからなくてのう」
とフェレラが切り出してきた。
「細かいところって……?」
「服に隠れてるところじゃ。じゃから、服を脱ぐお風呂で……」
「ちょ、ちょ、ちょ……。ちょっと待ってよ!!」
慌てて手で身体を隠したメイベルが、フェレラから離れていく。少し離れたところでは、ジェニフィも同じように手で身体を隠そうとしていた。ただキャロルだけは堂々としながら、湯船の外に置いた時計に手を伸ばして時間を確かめている。
「メイベル。何を慌ててるのじゃ?」
「あのね、フェレラ。世の中には、あまり他人に見せるものじゃないものが……ね」
顔を真っ赤にしたメイベルが、口ごもりながらフェレラに泣きそうな声で文句を言う。
そのメイベルに代わるように、キャロルが、
「それでフェレラさんは、いったい何が見たいの?」
と尋ねた。
「ヘソじゃ」
「…………へっ!?」
フェレラの答えに、メイベルが間抜けな顔で固まった。そのメイベルと顔色が入れ替わるように、ジェニフィの顔が真っ赤に変わっていく。
「ヘソはわらわたちドラゴンにはないからのう。どんな形なのかさっぱり想像できなくて、困っていたのじゃ」
「あ、そうなの……」
身体を隠してたメイベルの手が、呆れて脱力したのかぶらんと下がった。
そのメイベルの前で、フェレラがざばんと湯船から立ち上がった。そのフェレラのお腹は、物の見事に真っ平らだ。それをジッと見ているメイベルとジェニフィに、
「そろそろ式典の時間だから、お湯から上がりましょ」
と言って、キャロルが時計を見せてきた。
「ったく、フェレラには驚かされたわね」
お風呂から上がったメイベルたちは、赤い絨毯の敷かれた豪華な廊下を歩いていた。
メイベルの服は、左肩と右脇腹に焦げ跡の残る聖女服だ。
そのメイベルが廊下の角を曲がったところで、
「おお、聖女さまがいらっしゃったぞ!」
「守護聖者さま、バンザ〜イ!! ラクスの守り神、バンザ〜イ!!」
メイベルの姿を見つけた人たちの間から、拍手や万歳の声が聞こえてきた。そんな中、
「おい、メイベル。時間ギリギリに来るなんて、聖女としての自覚が足りないぞ」
と文句を言ってきたのはナバルだ。それに続いて、
「まあ、主役というものは、最後にゆっくりと登場するものですよ」
と、ブルーノが冷めた口調で言ってくる。
ブルーノは過激派とはいえ、ドラゴン教の一派をまとめる宗教的指導者だ。そのためメイベルと同様、出席が義務づけられている1人である。
このブルーノとナバルが並んでいる姿は、ほんの少し前なら考えられない光景だ。
「まさか、あなたと同じ式典に出ることがあるとは思わなかったわ」
「その言葉は、そのままお返ししますよ」
メイベルの一言に、ブルーノが不敵な笑みを浮かべながらメガネの位置を正す。
その2人が大きく開けられた入り口から、式典の会場へと入っていった。
会場は天井が高く、広い部屋だった。天井からはシャンデリアが下がり、その光が部屋の隅々まで照らしている。そのシャンデリアは、かつてたくさんのロウソクを載せる燭台だったようだ。今は中央でアーク灯が輝き、かつてロウソクを立てていた部分に置かれた多角形のガラスが光を乱反射させている。
その部屋には丸テーブルがいくつも用意されている。式典のあとに開かれる、晩餐用のテーブルだ。そして部屋に作られた壇の上には長テーブルが置かれ、そこに7人の政治家たちが座っていた。そのうち1番右に座っているのはラクスのフランク市長だ。それに対して1番左の席にはサンスタグの市長代理が座っている。
「あれ? 今日の調印は、4つの都市だったんじゃ……」
「先ほど、レイムの市長が到着されました。なので、今日は5つですよ」
メイベルの疑問に、ブルーノが歩きながら答えた。
「それじゃ、昨日までに調印したのは38の都市と地域だから、これで43になるのね」
サクラスには27の都市が調印の意思を表明したと伝えられていたが、すでにラクスでは調印が済み、更に調印に参加する都市と地域が増えていた。その数は今日の式典が終われば43。南アルテースには60を超える都市と地域があるので、その7割前後が調印を済ませたことになる。
「どうしたの? 暗い顔をしてるけど……」
ふとメイベルが、横を歩くブルーノの表情が曇っていることに気づいた。それで尋ねられたブルーノが、
「わたしの生まれ故郷が、まだ協定参加の意思をハッキリしてないんですよ。カルシボという炭鉱と銅鉱山の小さな町ですけどね」
と、気になっていることを話してきた。
「調印を取り仕切ってるのが、ソルティス教の中核教会を持つラクスだものね。それだからドラゴン教の人の中には調印に来たくない人がいるんじゃ……」
「それも考えられるのですけどね。意思を表してない都市の中には、ソルティス教の都市もあるのですよ」
そこまで話したブルーノが、不意に足を止めた。それに気づいたメイベルが、数歩先で立ち止まって後ろを振り向く。そのメイベルにブルーノが小声で、
「先ほど政治家たちが話してたのを耳にしたのですが、どうやら意思を表してないのは、どれも南アルテースの北西にある超多雨地域の都市ばかりなんですよ。しかも、そこのどことも連絡が取れないようで……」
「何かあるのかしら?」
「さあ? まさかとは思いますけど、互いの戦争に忙しくて、こちらの呼びかけに気づいてませんかねぇ」
大袈裟に肩を上下させたブルーノが、再び歩み始める。その言葉にメイベルが、
「ったくぅ……。これだから戦争なんて大嫌いだわ」
と零して部屋の前まで歩いていった。
それを待っていたように、壇上にいた政治家たちが立ち上がって一礼してくる。
これより今日の調印式の始まりだ。
その頃、南アルテースの北西にある超多雨地域では、
「さあ、この降伏書に調印してもらおうか……」
大規模な軍隊に踏み込まれて、次々と併合されていた。
今、降伏を迫られている都市でも外敵を防ぐ壁が崩され、街の一部が焼けて廃虚と化している。そんな光景を背景に建てられた仮設テントでは、その都市の市長が断腸の思いで降伏文書に署名調印させられていた。
「ビーズマス卿。これで18個目の都市を占領しましたぞ」
「くっくっくっ。この調子で南アルテースを一気に併合して、帝国一大きな国になってやろうじゃないか。それで、このわたしを見下したヤツらを見返してやる」
調印を離れた場所で見ていたビーズマス卿が、不気味な笑いを浮かべている。
「さあ、これから更に東へ向かうぞ。好都合なことに、この先にあるラクスには、小憎らしい従者の小娘がいるそうだ。よい機会だからわたしが直々に出向いて、小娘の息の根を止めてくれるわっ! ぶわぁ〜っはっはっはっはっ……」
どこか狂気を帯びたビーズマス卿が、軍司令に命じてバカ笑いを始めた。
しかし、ラクスを初め南アルテースの人たちはそんなことも知らず、数世紀ぶりに訪れた平和をお祭り気分で享受していた。




