第3巻:第2章 いよいよドラゴンの棲む山へ
水上都市マゼリオン。そこは無数の運河が集まってできた水の都で、グレーシィ地方にある大都市の中でも群を抜いて大きな都である。
だが、水の都であるために地盤が弱く、ほとんどの建物は2階建てか3階建ての高さしかない。そのためソルティス教では大きな聖堂のある教会を建てられないため、マゼリオンでは教会をいくつも建てることで代用しているのだ。
そんな水の都にある広場に、市民たちとは少し雰囲気の異なる男たちが集まっていた。
「前にマゼリオンに立ち寄ってから、今日が7日目ですか。まだ邪教の勇者が戻ってきたという報せはないのですか?」
長髪にメガネをかけた優男が、運河を行き来する平底舟を見ながら部下に尋ねた。
この男はドラゴン教の中にある宗教一派──アサッシニオ派の宗教的指導者ブルーノ・アサッシニオだ。このアサッシニオ派は過激で恐れられている狂信者集団である。
「今のところ、まったく報告はありません」
「そうですか。そろそろあっても良いと思うのですが……」
部下から報告を聞いたブルーノが、物腰の柔らかな口調でそう受けると、静かに目をつむって嘆息した。そのブルーノの周りにいるのは、腰に剣を差した5人の男たちである。
「あのぅ、アサッシニオさま。さすがに7度目はないかと思うのですが……」
「前もそう思っていたら、まんまと裏をかかれたではありませんか」
部下に答えるブルーノの口調は、あくまでも柔らかだ。だが、その声には意見を突っ撥ねるような、どこか冷たいものが混じっている。
「邪教の勇者が、またマゼリオンに戻る可能性はあります。考えてみてください。1度目は中央教会。2度目は北教会。その後も聖アルバ教会、西教会、水門橋教会、聖ウィリダ教会と、これまで7〜8日ごとにマゼリオンへ戻ってきては、それぞれ違う教会に泊まったではありませんか。マゼリオンにはまだルークス広場教会、パーラ広場教会、聖アクア教会、聖エトワール教会、聖ステラ教会、聖ラピス教会、南教会と7つもあります。戻る可能性は十分にあるのですよ」
「はぁ、そういうものですかねぇ」
ブルーノの予測を聞いた部下が、釈然としないという表情を浮かべる。
その後ろでは他の部下たちが、
「他にアーバン通り教会と聖パストラル教会があるけど、言った方がいいかな?」
「やめとけ。どやされるだけだ」
などとヒソヒソ話をしていた。幸い、その声はブルーノの耳には届かなかったようだ。
そのブルーノは、
「勇者くん。次に会う時が3度目です。三度目の正直という言葉にある通り、きみの息の根を完全に絶たせてあげますから、覚悟しておきなさい」
行き交う平底舟を見ながら、勇者の息の根を止めた瞬間を思い描いてほくそ笑んでいる。
そんなブルーノの後ろでは部下たちが、
「7度目の正直で戻ってこないと思うがどうだろう?」
「5回目の時と6回目の時にはもう来ないと思って裏をかかれたから、今度が戻らない方の三度目の正直だったりしてな」
今もまだ無責任なヒソヒソ話を続けていた。
さて、その勇者さま御一行は今、どこにいるかというと、
「うわぁ〜、上がってく上がってく。面白ぉ〜い☆」
水上バスに乗って、グレーシィ地方にある運河を移動しているところだった。
この水上バスは水に浮かぶ乗り合い馬車のようなものだ。船を引っ張るのは馬ではなく、水棲ドラゴンの一種のヒッポス・ドラゴン。水面から上の見た目が何となく馬に見えることから、水上馬車と呼ぶ人もいる。
その水上バスは今、大きな水槽の中にいる。箱形の水槽ごと山を登るケーブルカーで、上にある運河へ運ばれている途中なのだ。このケーブルカーは2つの水槽が交互に上下するつるべ式と呼ばれる方式だ。下りる側の水槽に多めに水を入れることで、その重みの差を利用して斜面を上下させる昇降施設である。
「もう半分昇ったのね。速いわぁ」
水上バスから顔を出すメイベルが、外の景色を見ながらはしゃいでいた。
そのメイベルの前を下りてきた水槽が通り過ぎていく。その水槽に乗って運ばれているのは、水上バス1隻と貨物用の平底舟が3艘だ。
すれ違った水上バスに乗っている子供たちが、身体を乗り出して手を振っている。その子供たちに向かって、メイベルも手を振って返していた。
そんなメイベルとは対照的に、
「お、またドラゴンが飛んできたぞ」
ナバルの興味は空に向かっていた。
今日の空は青く澄み渡っている。そこに浮かぶ綿雲の下を、先ほどから何体ものマウンテン・ドラゴンが飛び交っているのだ。
「ヴァレーの町が近づいてきた証拠ね」
水槽の動きが止まったため、メイベルが船内に視線を戻してきた。そのメイベルが隣のナバルに倣って今度は空を見上げる。
「旅に出てから、今日で何日目だ?」
「今日は9月19日だから……、64日目よ」
ナバルの求めに、メイベルが軽く暗算して答えた。
「旅立ったのが7月18日だから、昨日で2か月経ったのか」
「すっかり忘れてたわね……。ああ、ひょっとして水面が高くなってない?」
またメイベルの視線が船の外へ向かった。
水槽に水が流れ込んできている。そのため、船に乗るメイベルたちの目線も高くなり、水槽の外が広く見渡せるようになってきた。
「うわぁ〜。竜の山脈が見えてきたわ!」
水槽の前には水門がある。その上に、岩だらけの山脈が見えてきた。
その直後、外からカンカンカンと鐘の音が聞こえてくる。
「そうか。水面の高さが違うから、下りる水槽の側に水が多く入るのね」
鐘の音は水門を開ける合図だった。水上バスの前にある水門が左右に開き、目の前にこれから進む運河が見えてくる。
メイベルが気づいたのは、昇降施設が動く仕組みの1つだった。水槽に対して下の運河では水面が低く、上の運河では高くなるように設計されている。そのため自然と下りていく水槽の側に多くの水が入り、それによる重みの差で水槽が上下するのだ。
ちなみに水門の開閉は水車により行われている。これにより、まったく電気などの力を使わずに、この昇降施設は動作できているのだ。
水上バスは水門が開き切る前に動き始めた。水門の前では、これから水槽に入ろうとする船が、運河の左側に並んで待っている。運河ではすれ違う平底舟が互いの櫂がぶつからないように右に避けた習慣から、右側通行が基本なのだ。
「面白ぉ〜い。船が山の上を走ってるわ☆」
水槽から出た水上バスは、山脈から長く伸びている尾根の上を進んでいた。運河からは左右どちらを見ても眼下に景色が見える。なんとも不思議な光景である。
その運河が途中から2つに分かれていた。尾根の左右へ分かれているのだ。水上バスは左側の運河へ進み、やがて右側に斜面を見ながら木立ちの中へと入っていった。
木立ちに入ると見える空が狭くなり、あたりが薄暗くなってきた。そんな運河に落ちた木漏れ日が、水面に乱反射してキラキラと七色に輝いている。
「見て見て、あそこにシカがいるわよ」
メイベルがそう言って運河の水ぎわを指差した。
このあたりの運河は、側面が斜めに削られている。そのため水ぎわには草が生い茂り、森に棲む生き物たちの水飲み場になっているのだ。
「うわぁ〜、子ジカもいるわ。可愛い☆」
水上バスから上半身を出したメイベルが、子ジカの姿に黄色い声を上げた。
子ジカとメイベルの間が、わずか1mまで急接近する。だが、シカたちは船がそれ以上近づけないことも、そして乗客が襲ってこないこともわかっているのだろう。耳をピクピクと動かしながらも、逃げるような素振りはまったく見せていない。
「メイベルさん。危ないぞ」
振り返ってシカを見ていたメイベルの腕を、ナバルがぐいっと引っ張った。直後、
「……あれっ!?」
不意にメイベルの視界が真っ暗になった。
「洞窟に入ったようだぞ」
とはナバルの説明だ。ナバルはメイベルの頭が岩にぶつかりそうだったので、中へ引っ張ったのである。そのナバルに、
「洞窟じゃなくて、これはトンネルっていうのよ……。うわぁ!!」
と訂正しようとしたメイベルが、何かにつまずいてすっころんだ。船内が真っ暗だったため、足許がまったく見えなかったためだ。
しばらくして、水上バスはトンネルを抜けた。運河は草花の咲き乱れる草原の中を通っている。
「……ひゃあっ!?」
周りが明るくなり、メイベルの視界にも光が戻った。そのメイベルは、
「ご、ごめんなさい! ナバルさん!!」
ナバルのひざの上に倒れ込んでいた。メイベルがつまずいたのは、ナバルの持つ勇者の剣だったのだ。
「あはは。痛くなかった?」
慌てて起き上がったメイベルは、なぜか座席の上で正座していた。そのメイベルに、ナバルが「はしゃぎすぎ」と、短く釘を刺してくる。
「山の中を運河が走ってるでしょ。それに感動してたら、つい……ね」
言い訳するメイベルが、吹き出た汗をハンカチでぬぐう。
「まもなくプラトーの集落に到着します。お下りの方は準備をお急ぎください」
客室乗務員がアナウンスを告げながら、水上バスの前の方へ歩いていった。水上バスを陸につける準備をするためだ。
その時、運河の先からカンカンと鳴る鐘の音が聞こえてきた。その音の出処は、運河に架けられた真っ白な橋だった。
「うわぁ〜。跳ね橋だわ」
また船から顔を出したメイベルが、はしゃいだ声を出した。そんなメイベルの様子に、ナバルが「やれやれ」と零して深い溜め息を吐いている。
「すっご〜い。橋が開いてくわ」
橋の中央が割れて左右に橋桁が跳ね上がっていく。鐘の音は橋が上がることの警報だ。
「メイベルさん。跳ね橋なら、ここに来るまで何度も見ただろ」
「なに言ってるのよ。跳ね橋は1つ1つ違うのよ。ここはどんな仕組みか、それを見るのが楽しいんじゃないの」
「楽しいのか? それが……」
メイベルの楽しみどころが、ナバルには今1つ理解できなかった。そんなナバルの嘆きなど気にも留めず、
「ああ、ナバルさん。次の駅が見えてきたわよ」
と、メイベルのはしゃぎっぷりは止まることがなかった。
「ようやく、ヴァレーに到着できたわね」
水上バスを降りて桟橋に立ったメイベルが、感慨深そうに零した。
2人を乗せた水上バスは昇降施設で山を登ったあと、更に2つの閘門で段差を昇ってきた。そして、西にある山脈に太陽が隠れる前に、ようやく終着のヴァレーの運河駅に到着したのだ。ここはマウンテン・ドラゴンたちの住み処にもっとも近い町である。
「今日は、やけに疲れたわね」
「あれだけはしゃいでたら疲れるだろ」
メイベルの零した言葉に、ナバルがツッコミを入れた。
2人の降りたヴァレーの運河駅は、町の郊外に建てられていた。町は丘陵地帯の斜面に作られているため、運河は中まで入っていけないようだ。
「教会はどのあたりにあるんだ?」
駅前には大きな案内地図が立てられていた。それによれば運河駅があるのは町の北東側。そこから運河と並行に作られた大通りを進めば、右側に教会が見えてくるらしい。
「それにしても、不思議な感じよね」
地図を見るナバルに、メイベルがそんなことを言ってきた。
「不思議って、何が?」
「だってさ、このヴァレーはサクラスから直線距離で2,400kmも離れてるのよ。ほんの数十年前だと、ここに来るまで徒歩で2か月はかかってたわ。それなのにあちこち寄り道したのに同じ2か月で来られるなんて、とても不思議な感じとは思わない?」
「思わない」
メイベルの共感を求める言葉を、ナバルがあっさりと否定した。
「それじゃ、行こうか」
もう一度地図を確かめたナバルが、そう言って荷物をかつぎ直した。ナバルのリュックサックは必要最小限の物しか入っていないため、ほとんどペチャンコに潰れている。
「ナバルさんには技術発展の素晴らしさがわからないの?」
少し遅れて歩き始めたメイベルが、ナバルに文句を言い始めた。
ナバルとは対照的に、メイベルのリュックサックは大きく膨らんでいた。しかも外にはフライパンやお玉などがぶら下がり、カチャカチャとにぎやかな音を立てている。もっともメイベルは荷物を魔法で浮かしているので、あまり重さは苦にならないようだ。
「この旅の間に、立派な馬車道や運河を通ったでしょ。交通技術の発展による恩恵がどれほど大きなものなのか。ナバルさんは享受しておきながら何も感じないわけ?」
すたすたと歩くナバルの後ろを、メイベルが肩を怒らせながら追いかけていた。
2人の歩く通りは、左側に運河を臨む大通りだった。運河があるのに手前に運河駅が作られたのは、駅から先の運河が貨物の揚げ卸しをする埠頭であったことと、船を休ませる係留場所になっていたためだ。そして一番奥では、水上バスを引くヒッポス・ドラゴンが、のんびりとくつろいで疲れを癒していた。
「わたしは移動が楽になったとか、速くなったことを言ってるんじゃないわ。交通技術の発展で一番恩恵を受けるのは物流よ。品物の流れよ。遠くから物が運ばれてくることによって、社会はますます豊かになって、更に発展が加速されるの。それがわからないの?」
前を歩くナバルの足が、逃げるように速くなっていく。そのナバルの後ろを、メイベルが大股歩きで追いかけるが追いつかず、離されまいと魔法で足を浮かせて加速した。
そんな2人を、町の人たちが好奇の目で見ている。水面から顔を出したヒッポス・ドラゴンも、運河から騒がしい2人に不思議そうな目を向けていた。
「んっ!?」
いきなり何かに気づいたナバルが、その場で立ち止まった。その背中に、
「ぶぎゃん☆」
メイベルが派手にぶつかって、そのまま後ろにふっ飛ばされてしまった。
「いったぁ〜い……。いったい何よぉ〜……」
鼻っ柱を押さえながら、メイベルが上半身を起こした。そして地面に座ったままの恰好で、ナバルを怨めしそうに見上げる。
「メイベルさん。咳してる人が多いと思わないか?」
ナバルが気づいたのは、通りを歩く人に咳をしてる人が多いことだった。中には咳が止まらず、むせ返っている人もいる。
「咳!? そう言われると……」
ナバルの言葉を聞いたメイベルが、初めて周りに目を向けた。
「そっか、ここは最初にデスペランの報告があった町だものね」
服についたほこりを掃いながら、メイベルがゆっくりと立ち上がる。
「病気の流行が始まってるのか?」
「それはわからないわ。でも、もう余裕はないかも……」
周囲を見まわしたメイベルの目が、通りと運河の間にできた小さな草むらに向かった。そこに倒れて息も絶え絶えになったネコがいる。本来ならばネコは人前で弱った姿をさらそうとしない。体調が悪くなったら、本能で身を隠すからだ。しかし、それができないのは、身を隠す余裕のないほど急速に体調が悪くなったとしか思えない。
「可哀想だけど、何もかまってあげられないわね。ナバルさん。教会に急ぎましょう」
メイベルが非情な決断をした。
メイベルには手当てを施せるような知識も経験もない。しかも、もしもネコが弱っている原因がデスペランであったら、感染する恐れがあるのだ。
ネコ1匹に情けをかけたために使命を果たせなかったとしたら、本末転倒な話である。
「たしか、その坂を上がったところが教会だったと思うが……」
運河駅にあった案内地図を思い浮かべて、ナバルが通りの先を指差した。
大きな交差点があり、そこから丘の上に向かって緩やかな坂道が続いている。その先にヴァレーの町の教会があるはずだ。
「ん、メイベルさん。何してるんだ?」
歩き始めようとしたナバルが、草むらへ入っていくメイベルに声をかけた。
「植物採集よ。これを見てよ。この町にあるシャーマは黄色い花を咲かせるのね」
「おいおい、急ごうと言っておきながら……」
メイベルの行動に、ナバルが呆れた顔をする。メイベルが入っていった草むらは、倒れているネコのすぐそばだ。
近づいてきたメイベルから逃げようと思ったのだろうか。ネコが最後の気力を振り絞るように、身体を引きずりながら草の陰へ隠れていく。
「先に行ってるぞ。……ん、なんだ!?」
先に通りを曲がったナバルが、思わずそんな声を漏らした。
教会は交差点からほんの70〜80mほど坂を登ったところにあった。ところが、その教会の周りを大勢の人たちが囲んでいたのだ。
「何かの抗議活動かしら?」
人々は手にプラカードのような物を持っていた。しかも教会には石が投げ込まれ、窓や壁がボロボロになっている。
「ちょっと行ってくる」
手でメイベルにここに残るように伝えて、ナバルが坂を登り始めた。そのナバルを、
「ちょっと、ナバルさん!」
とメイベルが止めようとするが、止まる気はないようだ。
「病気はソルティス教が軍隊を送ってきたせいだ!」
「そうよ! それでドラゴンさまがお怒りになってるのよ」
「きさまらは、この責任をどう取るつもりだ!?」
教会を取り囲む人たちの間から、そんな声が聞こえてきた。言葉の端々から、どうやら帝国が軍隊を送り込んできたために、怒ったドラゴンがドラゴン病を広めようとしていると思い込んでいるらしい。発生と軍隊が来た順番を考えるとあべこべだが、かつて人類の3分の2を死に追いやった病気への恐怖が、そんな思い込みを後押ししてるのだろう。
それを物語るように、取り囲んでいる人の中には咳をしてる人が多いのだ。
ドラゴン病ことデスペランは、発症すると致死率が高い。そんな世の中に伝わっている風説から、逃げられない死への恐怖を教会にぶつけているようである。
「ナバルさん。どうする気かしら?」
身の危険を感じたメイベルは、教会に1区画だけ近づいたところで、通りの陰に身を隠していた。そして顔を出して、ナバルの行動を心配そうに窺っている。
そのナバルがデモ隊に近づき、一番後ろにいる者の肩にぽんと手を置いた。
「すまないが、道を空けてくれないか」
「ナ、ナバルさん!?」
ナバルの言動を見ていたメイベルが、その場で卒倒しそうになった。
教会の前ではデモ隊の視線が、いっせいにナバルへ向かっている。
「なんだ、おまえは?」
「見ての通りだ」
デモ隊の1人の言葉に、ナバルが挑発するように答えた。
「どうして、ここに近衛士官が……」
ナバルの服装を見て、教会を囲んでいた人たちがどよめいた。
ナバルがまとっているのは、近衛小隊長用の軍服だ。しかも腰に下がっている大きな剣が、見ている者たちを威圧している。
「まさか、もう次の軍が来たのか?」
抗議に集まっていた者たちが、ナバルの前からザザザッと離れていく。教会に怒りをぶつけているとはいえ、その背後にいる帝国や軍とは事を構えたくないのだ。
デモ隊が2つに分かれて、教会にある礼拝堂までの道ができた。そこをナバルが悠然と歩いていく。
「よかったわ。何もなくて……」
ナバルの手ぎわを見ていたメイベルが、ホッと胸をなで下ろした。そして通りの陰から出て、教会へ入っていくナバルに続いて自分も中へ入ろうとする。
ところがその時、デモ隊の中から何かがナバルに向かって飛んできた。
逸早く何かが飛んでくると気づいたナバルが、剣を抜いて叩き落とそうとする。
「ぐちゃ……だと!?」
飛んできた何かを、ナバルは見事に空中で捉えていた。だが、それは空中で弾かれることなく、ぐちゃりと音を立てて潰れた。
その中身がナバルの顔にぶちまけられた。その黄色い物が肌を伝い、地面にポタポタと落ちていく。
「生タマゴ…………だと?」
黄色い物から漂ってくる匂いをかいで、ナバルが投げられた物の正体を悟った。
飛んできたのは生タマゴだった。地面に落ちた殻を、ナバルが不愉快そうに見ている。
その光景を見たメイベルは、歩く恰好のままその場で固まっていた。
「救世の勇者に向かって、なかなか粋なお出迎えじゃねえか……」
顔についた生タマゴを袖でぬぐいながら、ナバルが不機嫌そうな言葉を漏らした。その言葉を耳に挟んだ者たちの中から、
「軍じゃないだと!? 脅かすな!」
「勇者っていったら、新聞で2人旅って話だったな。たった2人で何ができる」
というヤジが飛んできた。
更に後ろから飛んできた生タマゴが、ナバルの背中でぐちゃっと潰れる。その事態に、
「てめぇら、なかなか良い度胸してるじゃねえか……」
ナバルの目が、すとんと据わってしまった。
「今、タマゴを投げたヤツ。そこに直れ、成敗してやる!」
剣を振りまわしたナバルが、そう言って大声を張り上げた。直後、左右に分かれたデモ隊の持つプラカードが、柄のところから上がすとんと地面に落ちた。一瞬の早業で計3枚のプラカードを斬っていたのだ。それも握った手から、わずか数cmの場所を……。
プラカードを持っていた者たちの顔が、見る間に蒼褪めていく。だが、
「おおっ! 成敗できるもんならやってみやがれ!」
それでも数で優ると思った者たちが、ナバルに向かっていっせいに石を投げてきた。
「じょ、冗談じゃないわよ!」
我に返ったメイベルは、慌てて通りの陰に引き返していた。
教会の前で大乱闘が始まった。救世の勇者が黒勇者に変わる瞬間だった。
「うわっ! こいつ、メチャクチャ強いぞ」
「きゃあ、あたしに石を投げないでよ!」
「いててててて……。俺を殴るなぁ〜!」
暴動の中から何人もの市民が逃げてきた。そのうち何人かは坂を駆け下りてくる。
そんな市民に見つからないようにと、メイベルは更に通りの奥へと身をひそめた。
「ったく……。ナバルさんは後先を考えないから……」
そんな不満を漏らしたメイベルが、少し深呼吸してから魔法の杖を構えた。
メイベルの隠れる通りの前を、逃げてくる数人の市民が通りすぎていく。その姿を見送ったメイベルが、通りの陰から慎重に顔を出した。
「あそこでナバルさんを拾って、一気に教会の裏門へ向かった方がいいかしら?」
メイベルは飛行術を使って、空から教会に入ろうと考えた。その途中、ナバルをどのように拾い上げ、どんな経路で逃げれば良いのかという作戦を頭の中で組み立てていく。
そんなメイベルの背後から、
「すみません。サクラスから来られた方ですか?」
という声がかけられてきた。
「のぎょほみぎょわぁ〜……!!」
驚いたメイベルの口から、意味不明な言葉が飛び出した。
「あ、通りに出たら危ないですよ」
思わず逃げそうになったメイベルの腕を、声をかけてきた若者がしっかりと摑んだ。
「すみません。脅かすつもりとか、そんな気はなかったです」
若者はどことなく気の弱そうな雰囲気のある青年だった。
背丈はメイベルと同じぐらいだろうか。白いシャツにサスペンダーに吊られただぶだぶのズボン。そして頭にはチェック柄の帽子を載せ、手に上着らしき物を持っている。
「いやぁ〜、駅まで迎えに行ったのですが、すれ違いになってしまいました。従者さまですよね? 僕はヴァレー教会の見習い修道士ハンス・スペックいいます」
若者が頭の後ろに手を当てて、ぺこぺこと謝るように話しかけてきた。若者の訛りのある言葉と雰囲気が、妙に素朴さを感じさせてくる。その雰囲気がうつったのか、
「あ、お出迎えの方でしたか。わたしは従者のメイベル・ヴァイスです」
メイベルもぺこぺこしながら若者に挨拶を返していた。そのメイベルに、
「すみません。これ、羽織ってください」
と言って、若者が持っていた上着らしき物を渡してきた。
「これは?」
「ちょっとした変装です。今、修道服で町を出歩くと危ないです」
そう答えた若者が、教会の方を指差した。そこでは今もナバルが、大人数を相手に奮闘している。
それに「でしょうね」と答えたメイベルが、荷物を地面において上着を羽織った。
「でも、あの騒ぎの中、どうやって教会に入れば……」
「教会へは隠し通路を使うです」
メイベルの疑問に、若者がそう答えてくれた。
「隠し通路? そんなものがあるのですか!?」
「あはは。と言っても、ただの地下水路の管理通路です。こういう道、意外と市民は知らないみたいです」
若者が笑いながら、メイベルを革物屋に案内した。出迎えた店の主人が、2人に明かり取り用のロウソクを渡して奥にある工房へと通す。そこから空調室にある階段を下りて、2人は町の下を流れる動力用の水路に出た。
そこはひんやりとした場所で、無数にある水車のきしみ音が壁に反響している。
「あ、ナバルさん、置いてきちゃった」
少し歩いたところで、メイベルがそんなことを思い出した。
「ナバ……。ああ、勇者さまですか。忘れてましたです」
立ち止まった若者が、困ったような声を上げて頭の後ろを掻いている。でも、
「なんか面倒なことになりそうです。後まわしにするです」
すぐに思いっきり後ろ向きな結論を出してきた。
「ようこそ、従者さま。はるばるヴァレーの教会へ」
地下を通って教会に入ったメイベルを、司教が大仰に手を広げて迎えてきた。
隠し通路は教会の台所につながっていた。それでようやく教会に到着したメイベルは、司教の待つ礼拝堂へと案内されたのだ。
礼拝堂の天井は高い。その下にある明かり取りの窓には、色ガラスで作られたステンドグラスが何枚もはめられていた。描かれているのは宗教伝説として語られる物語の一場面だ。しかし残念なことに、ステンドグラスの半分以上は外から投げられた石に割られていた。そこを新聞紙でふさいでいる光景は、なんともみすぼらしい姿である。
もっとも、礼拝堂の奥の窓にあるひときわ大きく立派なステンドグラスが無事なのは、ある意味幸運なのかもしれない。
「ハンス。お務めご苦労さまでした」
「いえ、この程度のお使いでしたら、お安い御用です」
ねぎらいの言葉をかける司教に、若者が軽い口調を返してくる。
「従者さま。お荷物をお預かりしますわ」
礼拝堂には司教とメイベルを案内した若者の他に、3人の修道士と7人の修道女たちが待っていた。修道士は赤い服の修道長、青い服の正修道士、灰色の服の見習い修道士が各1人ずつ。修道女は修道長1人、正修道女2人、見習い修道女が4人である。
「ところでハンス。勇者さまの姿が見当たりませんが?」
「勇者さまでしたら、外で暴れとるです。さすがに怖くて、連れて来れないです」
「暴れって……。あの騒ぎの原因は、勇者さまでしたか……」
若者からの報告に、司教が深く嘆息して外に目をやった。
教会の前では、今も近衛士官服を着た若者が、デモ隊たちと一緒に暴れている。その騒ぎで倒された市民が、何人も道に転がっていた。
「あのぅ、司教さま。外の人たちは、いったい……」
「ドラゴン教徒のアジ宣伝に煽られて、踊らされてる市民たちですよ。この町のドラゴン教徒は穏健派なのですが……」
メイベルに尋ねられた司教が、外に目を向けたまま答える。その後ろではメイベルから荷物を受け取った見習い修道女が、重さに腰が負けて「はぅ〜」と唸っていた。
「ドラゴン教徒は、この町には多いのですか?」
「多いも何も、この町はドラゴン教の発祥の地です。この町のソルティス教徒は、市民の3分の1しかいません。しかも、その大半が同時にドラゴン教を信奉してます」
そう語りながら、司教が顔を建物の中へと向けてくる。
「2つの宗教を、同時に信じるのですか? そんなことができるのですか?」
「何もおかしくありません。ソルティス教もドラゴン教も始まりは同じです」
「同じ……ですか?」
司教の言葉に、メイベルが訝しそうな表情を浮かべた。
「それを説明する前に、従者さま。かつて人とドラゴンが戦った時代があることをご存じですか?」
「9世紀前の人竜戦争ですね。一般には伝説とされてますが、アウラスの町に寄った時にドラゴンに滅ぼされたという古代都市の遺跡を見て、史実と感じてきました」
「ほう、それは貴重な体験をされましたな。その人竜戦争の時代が、ソルティス教とドラゴン教の始まった時代なのです」
そう言った司教が、右を向いてゆっくりと歩き始めた。
「人竜戦争。そのように呼ぶと、まるで人とドラゴンがまともに戦ったように思えますが、実際にはドラゴンの圧倒的な強さに、人は何も抵抗できなかったそうです。次にいつ自分がドラゴンに襲われて命を落とすかわからない不安の中、理不尽な運命を受け容れるために、将来を考えることをやめ、天運に身を任せる諦観思想が生まれました。思考放棄することで、不安に潰れそうな気持ちを和らげたのでしょう」
司教が少し歩いたところでくるりと向きを変え、元の場所へ戻ってきた。そしてそのまま通り過ぎたと思ったら、またくるりと向きを変える往復運動を始める。
「そして天に身を任せたあとの行動が、のちにソルティス教とドラゴン教に分かれる要因となります。ドラゴンから逃げ延びるため、くじびきで逃げる方向を決めたのが、のちのソルティス教です。この時にくじびきで生き残った経験が、くじびきを天の意志と考えるソルティス教の礎となりました。一方で逃げることまであきらめ、ドラゴンを神と敬うことで不遇を神の意志と考えたのが、のちのドラゴン教です」
「へぇ〜。そう言われてみると、たしかに根っこは同じですね」
話を聞いていたメイベルが、そう言って考えを少し整理しようとする。
「ところで、その人竜戦争ですけど、どうして起こったのですか?」
「始まった原因ですか?」
メイベルの質問に、司教がぴたりと立ち止まった。
「アウラスで遺跡を見たあと、気になってマゼリオンに寄った時に図書館で歴史を調べたのですが、そのあたりの文献が何も見つからなくて……」
「そういえば、その部分に関しては言い伝えでは何も語ってませんな」
「それと、今の話を聞いてて思ったのですが、ドラゴンとの和平交渉はなかったのでしょうか? なんか一方的な被害者意識だけでいたような……」
「和平? ドラゴンと話し合うのですか? というか、話ができるのですか?」
メイベルの感じた疑問に、今度は司教が怪訝そうな顔をする。
「ドラゴンは人に言葉や文字、農業などの文化を教えたと言われてますが……」
「それは伝説の話でしょう? ドラゴンが言葉を理解できるとは……」
「わたしはお話ししましたよ、奇岩の高地で出会ったドラゴンさんと。そのドラゴンさんは、ここの山に棲むドラゴンの長老さんと語ってました」
「従者さま。ドラゴンの言葉が理解できるのですか?」
「…………はっ!?」
司教の受け答えに、メイベルが半口を開けたまま固まった。
「言葉が理解できるも何も……」
メイベルが言葉をよどませて、少し頭の中を整理する。
「ドラゴンの使う言葉ですけど、私たちが今話してる言葉と、それほど違いはありませんでしたけど……」
「言葉に違いはないのですか? ということは、同じ言葉を使うのですか? そんなことが実際にあるのでしょうか?」
また司教が怪訝そうな表情を浮かべて、メイベルの話をどこまで信じれば良いのか迷っているようだ。その気持ちは、メイベルも似たようなものだ。
「あのぅ、司教さま。ここヴァレーの町は、ドラゴンのもっとも大きな棲息地の近くにある町ではありませんか。ここに来るまでの間に、たくさんのドラゴンを見てきました。あれだけたくさん目にするのですから、一度ぐらいはドラゴンが話しているところを目撃したことがあっても良さそうに思うのですが……」
「う〜むむむむむ……。そう仰られても……」
司教の表情が渋いものに変わった。正修道士と女性修道長も、
「俺も聞いたことないな」
「わたしはこの町で20年以上暮らしてますけど、ドラゴンが話すなんてことは一度も聞いたことがありませんわ」
と、口々に知らないと言ってくる。そこに見習い修道女の1人が、
「はーい。あたしは裏山に山菜採りに行った時に、声をかけられて逃げてきましたぁ」
と、元気に手を挙げて会話に加わってきた。更に別の見習い修道女も、
「あたしは夜道で声をかけられたわ。『女の子の夜の独り歩きは危ないぞ〜』って……」
と体験談を語ってくる。
「レオノーラとゲートルード。それはいつの話なの?」
そう聞いてきたのは女性修道長だ。
「ついこの前ですよ。えっと……5日前?」
山菜採りに行ったと話した少女が、指を折りながら答えてくる。続いて、夜道で声をかけられたという少女が、
「あたしは先週、お使いを頼まれた時の帰りです。リズさまに話しませんでしたっけ?」
と答えて、軽く首をかしげた。
「そう言われると……、聞いたような記憶が……」
女性修道長が虚ろな表情を浮かべて、視線を宙に游がせた。
そのやり取りを見ていたメイベルが、
「なるほど。ドラゴンがしゃべるのは伝説の中だけと、頭から信じてなかったわけね」
と、だいたいの事情を察する。そして次にドラゴンに話しかけられた2人に、
「それで、お2人さん。ドラゴンに声をかけられたあと、どんな話をしたの?」
その時に何を話したのかを尋ねた。
「ドラゴンと話? しないしない。もう町まで一目散に逃げてきたわ」
山菜採りでドラゴンと遭遇した少女が、手を左右に振りながら答えてきた。もう1人の夜道で声をかけられた少女も、
「あたしも必死に逃げてきましたわ。あの時は生きた心地がしませんでした」
と、その時を思い出して身震いする。2人とも声を返そうとは思わなかったようだ。
「まるで幽霊に会ったような反応ね」
とはメイベルの感想だ。だが、それに夜道で遭遇した少女が、
「幽霊!? 何言ってるんですか、従者さま。幽霊は脅かすだけですけど、ドラゴンは襲ってくるかもしれないじゃないですか。ドラゴンの方が何百倍も何千倍も怖いですわ」
と真剣な顔で言ってきた。その言葉に、
「それはすごい理屈ね……」
メイベルは軽い頭痛を覚えている。
「それで、従者さま。ドラゴンが話すとか文字が使えるという話は……?」
どうやら司教は、まだドラゴンが言葉を使えることが信じられないようだ。
そんな司教の反応を見たメイベルが、ふうっと大きな息を漏らした。
「なんとなく人とドラゴンの話し合いができない理由が、わかってきた……かな……。いろいろと……」
そう零したメイベルが、預けた荷物を取りに行った。
と言っても荷物を預かった修道女が腰を痛めたため、今もメイベルのすぐ後ろに置かれたままだ。メイベルはそこから書類ケースを出して、また司教のところへ戻ってくる。
「司教さま。まずはこれをご覧ください」
メイベルが書類ケースから出した紙を司教に見せた。
「従者さま、これは?」
「アウラスの遺跡に残された、ドラゴンが人に向けて書いたと思われる伝言です」
メイベルが見せたのは、遺跡でアウラスの修道長が写し取った絵だった。その絵を見ようと、修道士や修道女たちが集まってくる。
「見たことのない文字ですな」
「これ、ドラゴンの文字ですか?」
絵を見た司教や修道女たちは、書かれた文字を読めないようだ。そこに腰を痛めた見習い修道女が、身体を引きずるようにやって来る。そして絵を覗き込んで、
「いたたた……。あら!? この文字、線文字に似てないかしら?」
と言ってきた。
「最初は『人間たちよ』の呼びかけかしら。次は何に『惑わされて』かしら。文字は読めますけど、意味がわかりませんわ」
「うわぁ。ナーナちゃん、読めるですか?」
文字を読み始めた修道女に、メイベルを教会まで案内した若者が驚きの声を上げた。
「従者さま。これは何と書かれてるのですか?」
「それはこちらをご覧ください。遺跡に残された伝言だけでは文字が欠けていて、一部しか読むことができません。ですが、マゼリオンの図書館で他の遺跡にも似たような伝言が残されていると知り、しかもその記録が図書館に保管されてましたので、それらを参考に文章を復元してみました」
司教の問いかけにそう答えたメイベルが、更に数枚の紙をケースから出して並べた。
「ふむ。どれも違う文章に思えますが……」
司教の興味は復元された文章よりも、ドラゴンが残したとされる伝言に向かっていた。
それはどれも司教の知らない文字で書かれているようだ。
「文章が違って見えるのは、選んだ言葉の違いや、同じ単語でもアルファベットのつづり方が異なるためでしょう。でも、書かれている内容はほぼ共通していましたので、遺跡に残された伝言をどうにか復元することができました」
そう説明するメイベルが、1枚の紙を司教に向けた。そして、ゆっくりした口調で、
「それで、復元した伝言を現代の言葉に訳してみると、『豊かさに溺れて大切なものを見失った人間たちに告ぐ。文明を持ち数々の誘惑に惑わされた過ちは我々も経験してきた。ゆえに我々は汝らの過ちを、文明を持つに至った生き物が乗り越えるべき業として非難するつもりはない。我々は互いの不幸を教訓とし、再び人間とドラゴンが佳き隣人に戻ることを欲している。汝らが武力をもって対するなら、我々も武力で答える。言葉ならば言葉で答える。愚かな被害妄想や疑心暗鬼に囚われず、対話の席に着くことを願う』と……」
と、訳した文言を読み上げた。
「ドラゴンは、話し合いを求めてるのですか?」
自分の目でもう一度文章を確かめた司教が、メイベルに確認を求めてきた。
「そのように思えます。訳し方を間違えてなければ……ですけど」
「ドラゴンが話せるというだけでも驚きなのに、文字も書くとは……」
司教が複雑な表情を浮かべて、訳された文字を何度も読み返している。
「この『武力には武力、言葉には言葉』の下り……。これをこれまでの調査隊が知っていたら、悲劇は繰り返されなかったかも知れません」
顔を上げた司教が、メイベルに重い口調で言ってくる。
「知っていたら……とは、どういうことですか?」
「これまでの調査隊はドラゴンが近づいてきたら、すぐに大砲を撃ってましたからなあ」
そう答えた司教が、再び目を訳された文章に落とした。
「すぐに大砲を……って、どうして? 警告とかはしなかったのですか?」
「危険な生き物が近づいてきたら、追い払おうとするでしょう」
「それはわかりますけど、いきなりというのは……」
と言いかけたところで、メイベルがふと言葉を止めた。
「そっか、調査隊の人たちも、ドラゴンが言葉を理解できるとは思ってないんだわ」
メイベルの脳裡に、調査隊が大砲を撃った理由が浮かんできた。
調査隊の人たちはドラゴンが話の通じる相手とは思っていないから、近づいてきたドラゴンにトラやクマを追い払う感覚で大砲を撃っていた。これをドラゴンの側から見たら、人間の方が先に攻撃してくる話の通じない相手だ。となればドラゴンも危険な野獣を追い払う感覚で調査隊を攻撃する。まさに武力には武力である。
「従者さま。これは大変な発見ですぞ。このことは、すみやかに中央へ報せるべきと思います!」
司教が真剣な眼差しで、メイベルに提言してきた。
「それでしたら、すでにマゼリオンにいた時に手紙で報せました。マゼリオンからサクラスまで何日かかるかは知りませんけど……」
「それならば電信でも伝えましょう。ヘクトルくん。ただちにこれを送ってください」
「わかりました」
男性修道長が司教から訳した紙を受け取り、軽く一礼して礼拝堂から出ていった。
「司教さま。電信が引かれてるのですか?」
「ようやく先月、この町にも電信が引かれました。先ほどのヘクトルくんは、その時に中央から派遣されてきた電信技師です」
そう話した司教が、再びメイベルの持ってきた書類に目を向けた。
その周りに集まった修道士や修道女たちが、今も資料に興味を見せている。中でも熱心に資料を読みふけっているのは、腰を痛めた修道女だ。線文字が読めるだけに、ドラゴンの残した伝言に人一倍強い興味を感じるのだろう。その姿を見た司教が、
「おお、そうだ。従者さま。あなたなら、ひょっとしたら教会に所蔵されている古文書が読めるのではありませんか?」
というようなことを思い出して、メイベルに持ちかけてきた。
「古文書……ですか?」
「そうです。このヴァレーの町は人竜戦争の中、ドラゴンの住み処にもっとも近い場所にあったにもかかわらず、グレーシィ地方で被害に遭わなかった数少ない町なのです。そのため市庁舎には、人竜戦争以前から聖暦390年頃までの記録が数多く残されてましてな。この教会は、その市庁舎の跡地に建てられたのです」
「人竜戦争以前から聖暦390年頃まで!? それなら記録にない歴史の詳しいことがわかりそうだわ。この町が襲われなかったのは、和平交渉の窓口にするためかしら?」
メイベルは古文書に興味を感じたようだ。
「あ、でも、どうして聖暦390年頃までで記録が止まってるのですか?」
「聖暦390年前後といえば、デスペランの最初の大流行ではありませんか。それで、その頃までの記録を最後に、町には誰もいなくなったのです。全員病気で亡くなったのか、それとも生き残った人たちが町を捨てて逃げたのかは定かではありませんが……」
「そっか、最初の大流行は聖暦387年から398年。この時も、そして2回目の時も、このヴァレーの町のあるあたりが最初に被害に遭ってるのよね」
軽く握ったこぶしを口に当てて、メイベルが知識の整理を始める。
「再び町に人が戻ってきたのは、それから1世紀あとの聖暦505年。その時に市庁舎を教会に建て替え、町の中核としたのです。再来年は町ができて300年祭ですよ」
「戻って……ねぇ。なるほど、たぶん町から逃げた人たちの子孫ではなくて、線文字を知らない別の地域の人たちが進出してきたんでしょうね。だから残された線文字を読めなくて、知識の断絶が起こったんだわ」
話の断片から、メイベルはどうしてグレーシィ地方の人たちが線文字を読めないか、その理由のようなものを感じ取った。
「それでは従者さま。よろしければ古文書のある地下蔵へご案内しますが……」
「あ、はい。お願いします」
これから案内しようとする司教に返事をしたメイベルが、「メモメモ」と言いながら荷物から記録用の筆記具を引っ張り出してくる。
「ところで従者さま。このような込み入った大切な話を、勇者さま抜きで語って良かったものかと、少々気になるのですが……」
「それは大丈夫ですよ」
ふと不安を口にした司教に、メイベルが軽く受け答えた。
「ナバルさんは考えることは嫌いみたいですからね。こういう頭を使う話は、すべてわたしが担当することになってるんです」
「はあ、そうなのですか。そういう役割分担に……」
メイベルの答えに、司教が腑に落ちなそうな表情を浮かべている。
その時、礼拝堂の開き戸がバンと音を立てて開かれ、
「こいつがデモ隊のリーダーだ。司教、たっぷり説教してやってくれ」
と大声で言いながら、ナバルが教会に入ってきた。そのナバルは暴れる若者の首根っこを摑んで、有無を言わさず引きずっている。
「デモ隊のリーダーって……。また町長の次男坊ですか……」
連れて来られた若者をちらっと見た司教が、そう零して溜め息を吐いた。
若者は身なりの良い服を着ていた。髪は茶色で肩の長さで切りそろえられている。やや垂れ加減の目をした、いかにも良いとこのお坊ちゃんという風体だ。
その町長の次男坊はナバルと格闘になったのだろう。左目が腫れ上がり、頬にもアザができている。それでも抵抗をやめないのは、なかなか見上げた根性である。
その次男坊と引きずっているナバルに身体を向けた司教が、
「2人とも!! そこで正座しなさい!」
強い口調で一喝してきた。その迫力に町長の次男坊が抵抗をやめ、ナバルも思わず背筋を伸ばして正座している。
「ヴォルクさま。これが何度目の説教になるか、覚えておいでですか?」
2人の前で仁王立ちになった司教が、説教を始めた。
「ヴォルクさまは、いったい何のおつもりで市民たちを煽るのですか。このヴァレーの町では、ソルティス教徒もドラゴン教徒も互いに干渉せず、平穏に暮らしております。その平穏を乱して、何が楽しいのですか? 町長たるお父君を困らせたいだけならば市民たちを巻き込まず、ご自宅の中でなさってください」
説教される町長の次男坊が、むくれた表情で司教の足を睨んでいる。その横で一緒に説教を喰らっているナバルが、ふと素に戻って、
「……あれ!? なんで俺まで正座させられるんだ?」
と呟きながら、上目遣いで司教の顔を窺った。そのナバルにも、
「勇者さま。説教が必要なのはあなたも同じです」
と、司教が説教を始めてきた。
「あなたは何の勇者ですか!? 救世の勇者でしょう。それなのに救うべき市民たちと乱闘を起こすとは言語道断です。勇者に選ばれた自覚が足りません。恥を知りなさい!」
「いや、先に手を出したのは……」
厳しい口調で大目玉を食らわせてくる司教に、ナバルが何となく反論する。だが、
「誰が先に手を出したかではありません。心の持ちようを言っているのです」
反論は司教の怒りの炎に油を注いだようだった。
「勇者たるもの。選ばれたからには立ち居振る舞いにも気をつけねばなりません。新聞があなたの動向を記事にし、それに好む好まざるには関係なく世間が注目してるのですぞ。もう少し考えて行動してください」
「う〜ん。考えるのは苦手だなぁ〜……」
肩を狭めて小さくなったナバルが、ぼやくように不満を零した。
そんなナバルを見た町長の次男坊が、ざまあみろとばかりにニヤつく。そこに、
「ヴォルクさま。まだあなたさまの分の説教は終わってませんぞ!」
と、司教の怒りの矛先が戻ってきた。
「もしも異教徒の言葉に耳を貸さないというのでしたら、それでも構いません。その時はドラゴン教会の祭司殿をお連れするまでです」
「ゔ……。それは、ちょっと……」
司教の言葉に、次男坊がたじろいだ表情を見せる。
「あ、そうだ。ナーナくん」
軽く息を吐いた司教が、説教をやめて視線を腰を痛めた修道女に向けてきた。
その修道女は医療係の正修道女に指導されて、ひざを抱える恰好で天井を見上げてゴロゴロしている。腰の痛みを取る体操のようだ。
「わたしはこの2人にたっぷり説教しなくてはなりません。ですので、わたしの代わりに従者さまを地下蔵へ案内してください。ついでに古文書の読み方を学んできなさい」
「はい。わかりました」
すっくと立ち上がった修道女が、元気な声で返事をしてきた。まだ背中が気になるのか、手を背中にまわしてさすっている。でも、腰の痛みは消えているらしく、
「それでは従者さま。地下蔵へ案内しますわ」
とメイベルに声をかけてきた。
「……ところで」
歩き出そうとした矢先、修道女がメイベルの荷物に目を向けた。そして手を伸ばして、
「これはシャーマですわね。お好きなのですか?」
と尋ねてきた。修道女が見つけたのは、来る途中で採集した黄色い花のシャーマだ。
「これは、あとで宮廷にある研究室へ送る標本です。黄色い花のシャーマは始めて見ましたので、貴重な標本になると思います」
「貴重な標本……ですか?」
「ええ。博物学の大切な標本です」
メイベルの話に、修道女が首をかしげている。その反応を見たメイベルが、
「このあたりでは在り来たりの花だから、大切な標本と言われてもピンと来ませんか?」
と、笑顔で語りかけた。
「いえ、そういうわけではなくて……」
メイベルの前で手のひらをぷらぷらと振って、修道女が困った顔をしている。
「あのぅ、この黄色い花のシャーマは毒草ですので、あまり触れない方がよろしいですわ。それを知らずに食べて、亡くなる人が増えてますの」
「毒草!?」
修道女の言葉に、メイベルが息を飲んだ。
「ちょっと待って! 亡くなる人が増えてるって、この花は、昔からこのあたりに咲く花じゃないの?」
「黄色いシャーマは、数か月前から急に増えてきたのですわ。それ以前は黄色いシャーマは滅多に見かけませんでした。そのために黄色いシャーマが毒草と知らず、町の人たちが食べてしまう被害が後を絶たなくて……」
「ああ、そうなんだ……」
話を聞いたメイベルが、透明な袋を用意してそこに黄色いシャーマの標本を入れた。それから筆記具を用意して紙に『毒草注意』と書き、そして、
「それで訊きたいんだけど、どの部分がどんな毒で、どんな症状を起こすか詳しく教えて欲しいんだけど……」
と修道女に尋ねた。
その頃、司教から説教を受けているナバルは、
「まずい。足がしびれてきた……」
正座してるため、足のしびれに顔をゆがませていた。
隣では町長の次男坊が、だらだらと冷や汗を流している。こちらも足のしびれに苦しんでいるようだ。
しかし、司教はそんな2人に容赦なく、くどくどと説教を続けていた。
それと同時刻、
「なんですって!? 勇者くんがヴァレーに着いたですって?」
水上都市マゼリオンにある広場で待ち構えていたブルーノのところに、勇者の居場所を告げる情報が伝えられていた。
ヴァレーの町はドラゴン教徒が多い上に教会の前でナバルが騒動を起こしたため、ついに狂信者たちの網にかかったのだ。とはいえ、
「マゼリオンからヴァレーまで、昼夜を問わず移動し続けても丸2日……。こうも何度も裏をかかれるとは……」
ブルーノのいる場所は遠く離れているため、場所を知ってもすぐに襲えない。その苛立ちから、ブルーノが神経質そうに親指をくわえて顔をしかめていた。
「アサッシニオさま。どうされますか?」
「そんなことは決まってます」
部下の問いかけに、ブルーノが顔を上げて軽く息を吸う。そして、
「展開中の全部隊に電信通達。勇者はヴァレーに到着。ただちにヴァレーに集結せよと。これより包囲追撃戦を開始します」
と、これからの作戦行動を明らかにした。
「は、わかりました!」
伝令の部下が敬礼して、命令を伝えるために駆けていこうとする。その部下を、
「待ちなさい。ヴァレーの近くにいる部隊はわかりますか?」
と呼び止めて、ブルーノが部隊の展開具合を尋ねた。
「第3隊長の隊が聖地に通じる山道で待ち伏せてます。それと第6隊長の隊がヴァレーからケオシィ方面に向かう街道で待ち伏せてますので、半日もあれば第3隊長の隊と合流できるかと……」
「そうですか。ならば2つの隊には援軍の到着を待たず、邪教の勇者を見つけたら、ただちに襲撃するように指示します。倒せるならば良し。仮に討ち漏らしても援軍が来るまでの足留め役になれば十分です。ただし、人目のある場所での戦闘は避けてもらいます。あのあたりは穏健派が多いので、あとあと厄介なことになりますからね。以上のことを伝令してください」
部下の答えを聞いたブルーノが、命令に細かな指示を加える。
「では、そのように伝えます」
改めて敬礼し直した部下が、今度はすぐに動かず、ブルーノの様子を窺った。また命令の付け加えがあるかもしれないからだ。だが、少し待っても動きがないので、敬礼を解いて電信のある場所へ駆けていった。
「さあ、我々も追撃戦の準備を始めましょう。隊を4つに分けます。私と第1隊長の隊は別々の運河を通ってヴァレーへ向かいます。第5隊長と第8隊長の隊は馬車を使って別の道を行きなさい。これで勇者くんを包囲して袋のネズミにしますよ」
『承知しました』
指示を受けた部下たちが、いっせいに敬礼してきた。
「今度こそ息の根を止めてやる!」
「ああ、腹いっぱい鉛玉を喰らわせてやろうぜ」
銃を持つ男が、銃弾の入った木箱を肩に担いだ。
「おい、1人を相手にするんだから、銃よりもボウガンの方がいいぞ」
「ボウガンは矢がかさばるじゃないか。それに時代遅れだぞ」
「何を言う。銃は威力もなけりゃ弾がどこへ飛んでくかわかんねえだろ」
2人の若者が口々にどちらの武器が良いかを言い合いながら、広場を後にする。
2人は陸路でヴァレーに向かう部隊に所属しているようだ。
「ブルーノさま。平底舟にお乗りください。大運河に出たら水上馬車に乗り換えます」
広場から水路を見ていたブルーノの前に、真っ白な平底舟が止まった。平底舟を漕いでいるのは部下の男だ。
「足許にお気をつけください」
平底舟に乗り込むブルーノに、部下の男が注意を呼びかけた。だが、ブルーノはそれに答えるでもなく、平底舟の前へ進んでいく。そして、舳先に片足をかけると、
「勇者くん、いよいよチェックメイトです。わたしが行くまで生きていられることを祈ってあげますよ」
とほくそ笑んだ。
そんなブルーノを乗せた平底舟も、広場を離れてヴァレーへと向かうのだった。
そんなことのあった翌日、
「あああぁ〜。太陽が黄色いわぁ〜……」
山道を進むメイベルが、ふと立ち止まって振り返った。
東に広がる平原の上に太陽が輝いている。今の時間は9時ごろ。日はかなり高くまで昇っている。
眼下に見えるヴァレーの町は、まるでオモチャのように小さくなっていた。町の先に見える運河駅から、ちょうど水上バスが出発していくところだ。
その町から旅立った2人の背負うリュックサックは、これから山に入るためにパンパンに膨らみ、更に毛布や雨具などまでくくりつけられる大荷物になっていた。
「どうした、メイベルさん。もうバテたのか?」
「うん。さすがに徹夜明けの山登りはきついわぁ」
歯切れの悪い口調で答えるメイベルが、眠そうな顔をナバルに向けてくる。
「ったく、朝まで古文書を読みふけってたからだ」
「だってさ、地下蔵って、時間がわからないのよ。それに気になることがけっこう書かれてたから、つい……ね」
「ついじゃねえよ」
ナバルが苦笑しながら、舌を出すメイベルにツッコミを入れた。そのメイベルの目の下には、うっすらと黒ずみができている。
「時間を忘れるほど夢中になれる本って、いったい何が書かれてたんだ?」
「歴史よ。ドラゴンと人が仲違いすることになった歴史が書かれてたのよ。こんな歴史、宮廷図書館に置かれてる本には書かれてなかったわ」
ナバルの一言に、メイベルがにっこりと微笑んだ。
「アウラスの修道長さんが、人が斜面に住むようになってドラゴンの住み処を奪ったことで人竜戦争が起こったようなことを言ってたでしょう。でも、遺跡には人とドラゴンが仲良く暮らしていた跡があったから矛盾を感じたけど、けして間違いではなかったの」
メイベルが山道を登りながら、大きな身振りで解説を始めた。それを見たナバルが、
「ちっ、きっかけを作っちまったか……」
と舌打ちして、軽く天を仰いだ。
そんなナバルを置いて、メイベルがどんどん見晴らしの良い坂を登っていく。
「人が山の斜面に町を作って住むようになったからって、それがドラゴンの住み処を奪うことにはならないわ。人が斜面に町を作ったのは、水車を使うためでしょう。となると町を作るのに都合が良いのは、水がたっぷり使える山の下の方になるわ。それに対してドラゴンが棲むのは山の上にある岩場よ。だから互いの生活圏は侵されることがないから、人とドラゴンは仲良く共存することができたのよ」
そこまで話したメイベルが、急に立ち止まって後ろを振り返った。その後ろを歩くナバルは、メイベルから5mは離れている。
そのナバルが追いついてくるのを待ちながら、
「ところが人とドラゴンのすれ違いは、ある王さまがドラゴンの棲んでいた岩場に、強引に新しい都を作ろうとしたことに始まるらしいの」
と、いよいよ核心を持ち出してきた。
「ドラゴンは山の上を住み処にしていたのは、たまたまそこに棲みやすい岩場があったからなの。山の下の方にも棲みやすい岩場があれば、当然そこも住み処にするわ。そんな住み処に、その王さまは都を築こうとしたの。今のわたしたちはレンガで建物を造るけど、その当時は切り出した岩で建物を造っていたの。アウラスで見た遺跡が、まさにそんな感じだったでしょ。それで岩場に都を作れば石を運ぶのも楽だと思ったのね。それで岩場に棲んでいたドラゴンたちを話し合いではなく武力で追い出そうとして、報復を受けたのが最初の戦いらしいわ。もっとも、決着は呆気なくついたみたいだけどね」
「ドラゴンの圧勝だろ」
「その通り☆」
ナバルの相槌に、メイベルがパンと手を叩いて満面の笑みを零す。
「それが人とドラゴンが戦争を起こした始まりか……」
「ところが、そうでもないらしいのよ。……あわっ」
メイベルが小石を踏んで、転びそうになった。そのメイベルの腕を摑んで、ナバルが身体を支えてやる。そんな原因を作った小石は、坂道を跳ねるように転げ落ちていった。
「あ、ありがとう。でね、この時の戦いはドラゴンたちが事件の主犯である王さまを追放することで終わりにしてくれてね。そのおかげで事件の後も竜の山脈では人とドラゴンが仲良く暮らせてたみたいなの」
お礼を言ったメイベルが、ナバルの腕を摑んだまま解説に戻った。その解説を聞かされるナバルが、ジト〜ッとした目で腕を摑むメイベルに目を落としている。
「だけど、この事件がのちのち人竜戦争の引き金になったのは間違いないみたいよ。
と、その前にドラゴンは岩場を住み処にするって言ったけど、岩場ならどこでも良いわけじゃないわ。ドラゴンは人と違って身体の中で熱を作り出せない変温動物なの。そのため、寒い地方や暑い地方に棲むことができないわ。竜の山脈に棲むのは、西にあるアルゴン海のおかげで山の上では1年を通して気温が安定してるからなの。岩の山脈の場合は、温泉があるおかげね。だから人と違って棲める場所が限られててね。四季のある温帯地域の中でも、比較的暖かい地方だけがドラゴンの棲める場所なのよ。だから、世の中にはドラゴンのことを知らなくて、危険な生き物という偏見だけを持つ人がいるのよ。まあ、これは今のわたしたちも変わりないんだけどね。
それで、事件のことを聞いたドラゴンの棲まない地方の王さまたちが、予防戦争としてドラゴン征伐を始めちゃったの。これが人竜戦争よ。予防戦争ってね、やられる前に先制攻撃しちゃえっていう、乱暴な考えなの。ムチャクチャな話よね」
「あのさ。俺にはメイベルさんの解説の方がムチャクチャというか……」
理解できないまま話を聞かされるナバルが、困った顔でぼやいた。しかしそれでも、
「で、その後の人竜戦争は壮絶だったらしいわ。というよりドラゴンがすさまじい報復をしてきたみたいね。それで人類はドラゴンたちが追ってこられない北の寒いユーベラス地方の奥地や、南の暑いアルテース地方へ逃げていったの。事件のあったグレーシィ地方だけでは済まなくて、人類は一方的にフォルティアース大陸東部の温帯地域から追い出されたようなものね。この時にくじでどこへ逃げるか決めて、それで生き延びたことからくじびきを神聖なものとする考え方がソルティス教を生むことになったのね。
だけど、逃げずにグレーシィ地方に残った人たちも少なからずいたそうなの。その人たちはドラゴンを神として崇めることで怒りを鎮め、住み処を聖地とすることで人類が再び侵すことのないように隔離しようとしたの。それが今のドラゴン教の始まりね。
まあ、それよりも気になるのが、これから人竜戦争のあとの話よ。ドラゴンの方からは遺跡の伝言にあるみたいに話し合いを求めてたけど、人の方からは話し合おうとしたっていう記録がなかったのよねぇ。それどころか人竜戦争以降、ドラゴン退治で名を上げようとする愚かな剣士や武闘家たちが何人も戦いを挑んだらしいわ。これでは話し合いなんてできそうもないわね。
それで人竜戦争から500年ぐらいあとに最初のデスペランの大流行があって、この時の人の被害は大きかったけど、ドラゴンがそれ以上の大きな被害を受けたおかげで、人類は再び中緯度地方に戻ってこられたのよね。で、そのまま話し合いもないまま現在に至ってるわけね」
「はぁ〜。話し合いも持たれないまま、俺は一方的にしゃべられてるわけだが……」
メイベルの解説に、ナバルがそんな皮肉を言ってきた。
「おまえさあ、眠気を紛らせるために解説してないか?」
「あ、わかっちゃった?」
立ち止まったナバルの腕に抱きついたまま、メイベルが顔を上げてきた。
「わかるも何も、俺にぶら下がろうとしてるの見りゃわかるって」
「あははは。ごめんねぇ〜」
注意されたメイベルが謝りながら腕から手を放して、眠そうな目をこする。
そんなメイベルの頭をポンと叩いたナバルが、
「どこか適当な場所で休もうか」
と言って、周囲を見まわした。
山道のある斜面は、どこまでも背の高い草に覆われていた。町で使う木を切り倒したために、山道の周りにあった木がなくなってしまったのだ。もっとも、草の背が高いといっても胸までの高さなので、山道からの見晴らしは良い。
「休もうって、急がなくても良いのかな?」
「良いんだよ。どうせ、ここから先は野宿覚悟だろ。どこで休んでも関係ないさ」
「わ〜い。ナバルさん、優しい〜♡」
休む場所を探して山の上に目を向けるナバルに、メイベルが甘えてみせる。メイベルは眠気を我慢しているうちに、すっかりハイになってるらしい。そのメイベルが、
「でも、いつものナバルさんなら、優しいけど小言があるはずよねぇ。今日はどうしたのかしらぁ〜?」
と言って、ナバルの顔を上目遣いで見上げてきた。
「敷き物を広げれば、どこで休んでも構わないか」
メイベルを無視するように、ナバルが山道をはずれて厚い草に覆われた斜面に入ろうとする。そのナバルの腕を、メイベルが逃げるなとばかりに摑んだ。
「お、おい!」
不意にナバルの膝がカクンと落ちた。それに引きずられるように、メイベルも身体を崩してしまう。
「きゃあああ〜!」
斜面を転がるメイベルが悲鳴を上げた。背負ったリュックサックにぶら下げられたフライパンやお玉などがぶつかり合って、派手な音を鳴らしている。
そのメイベルの前を、ナバルもなす術なく転がり落ちていた。
もっとも幸いなことに、斜面はそれほど急ではなかった。おかげで2人は数m転がったところで、どうにか動きを止めている。
「いてててて……。勘弁してくれよ……」
「それはわたしの台詞よ。ナバルさんが急に転ぶんだもの」
頭を斜面の下に向けて仰向けになるナバルの上で、メイベルが突っ伏していた。ナバルは背中の荷物にもたれて『く』の字になっている。おかげで頭が斜面の下に向いてるとはいえ、頭に血が上ることはなさそうだ。メイベルはそのナバルのお腹の上で、目を回して伸びている。しかも背中の荷物が頭に載ってるため、動けなくなってるらしい。
「ったく、あの司教が昨日、4時間もお説教してくれたおかげで、足が言うことを聞かねえじゃねえか。正座して筋肉痛なんて、冗談じゃねえぞ」
「あ〜、そういうことねぇ。つまりナバルさんも休みたかったわけね」
ナバルのお腹に突っ伏したまま、メイベルがクスッと笑った。その言葉にちょっとむくれたナバルが、メイベルの頭に載っている荷物をどかしてやろうとする。
「ん!? メイベルさん、この本は……?」
ナバルがどかした荷物の中に、気になる物を見つけた。紐で綴じられた薄い本だ。
「古文書?」
「ああ、それね、読みかけだから持ってきちゃった」
気怠そうに顔を上げたメイベルが、目の片隅で本の姿を捉えた。そのメイベルはまぶたが重いのか、今にも目が閉じそうな表情である。
「シャーマって草花があるでしょう。それについて書かれた……医学の研究記録みたいなのよ。黄色い花が咲く理由とか、食べたらどんな症状を起こすのかとか……」
「おい、メイベルさん?」
ついに睡魔に負けたメイベルが、ナバルのお腹を枕にして寝てしまった。そのメイベルの肩がピクッと動いて、ナバルの服をギュッと握る。
「こんなところで寝たら、身体に悪いぞ」
そう言ったナバルが空を見上げた。
空は青く晴れ渡っている。だが、見えるのは2人の真上だけ。周りは背の高い草が囲んでいるため、ここは心地好い日陰になっていた。しかも周囲の草が風をさえぎっているため、ポカポカしている。
「風邪の心配も、脱水の心配もないか」
嘆息してそう零したナバルが、視線をメイベルに戻した。
メイベルは安らかな寝顔で、スースーと寝息を立てている。そんなメイベルの髪を、ナバルがそうっとなでた。
「俺も眠くなってきたな……」
メイベルの肩に手を載せたまま、ナバルが静かに目を閉じた。
それから、どのくらいの時間が経っただろう。いつの間にかナバルも一緒になって寝ていた。
「おい、急げよ。早くしねーと、やつら聖地に入っちまうぞ!」
「聖地の前では第3隊長の隊が待ち伏せてるんだろ。急かさなくても問題ねーよ」
「そうそう。急ぎすぎて戦う時に体力が残ってなかったら意味ねえぞ」
寝ている2人の近くを、そんな声をかけ合いながら男たちが山道を登っていく。
ヒゲ面の第6隊長が率いる、ドラゴン教徒の追撃部隊だ。
もっとも、この時、2人もドラゴン教徒たちも、互いにほんの数mの距離まで近づいていたことに気づくことはなかった。




