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第31話:鏡の嘆きと、猫のコスメ(基礎化粧品)

迷宮都市アルカディアの拠店兼自宅『まどろみ亭』。

 三階の居住区にある、磨き上げられた大きな鏡の前で、フィオーレは深く、重いため息をついていた。

「……やっぱり、最近の乾燥、酷いわね。迷宮の砂埃に、火山の熱風、それに海水の塩分……」

 鏡に映る自分の顔を、フィオーレは指先でそっと撫でる。

 クロの寄生によって魔力回路は強化され、生命力は溢れている。だが、それと「肌のキメ」や「潤い」はまた別の話だった。連日の過酷な探索と、異世界の硬い水、そして強い日差し。

 どれほど『洗浄』の魔法をかけても、汚れは落ちるが失われた水分までは戻らない。

「うにゃ……?」

 背後のベッドから、寝起きのクロがのっそりと起き上がり、鏡の前で固まっているフィオーレに歩み寄った。

 クロは、フィオーレの膝に飛び乗ると、じっと彼女の顔を「鑑定」の瞳で見つめた。

 そして――。

「シャーーーッ!!」

 最大級の威嚇音。

 クロは毛を逆立て、鏡の中のフィオーレに向かって牙を剥いた。

 彼にとって、自分の最高級の依代コレクションであるフィオーレの肌に、微かな「カサつき」や「キメの乱れ」が生じていることは、国宝にカビが生えたのと同じくらいの重大な汚損であった。

 クロは憤慨したように尻尾をバシバシと床に叩きつけると、影の中に深く手を突っ込んだ。

 取り出したのは、現代世界の化学と美容技術の結晶――数本の『高級化粧水』、『美容液』、『クレンジングオイル』、そして純白の『シートマスク』の束だった。


「なんじゃ、その瑞々しい香りのする液体は。……ほう、この容器、一滴ずつ正確に滴下できるように設計されておる。驚くべき配慮じゃな」

 工房から顔を出したガラムが、ボトルを手に取り、その精緻なポンプ構造に唸った。

 リリアーネも、エッセンスの蓋を開けた瞬間に耳を震わせる。

「……信じられない。花々の精髄を凝縮したような香り。……でも、それだけじゃないわ。これは肌の奥にある『細胞の渇き』を癒やすための、一種の魔導液ね」

 フィオーレは、クロの持ち込んだ『スキンケア』という概念を、自分の肉体に適用させるべく魔力を解放した。

「『分子レベル分解』、および『強制浸透デリバリー』。……ガラムさん、この『導入液』の粒子を、魔力でもっと細かく粉砕してください。リリアーネさんは、この聖水にバニラの鎮静効果を」

 フィオーレは鏡の前に座り直し、クロの『クレンジングオイル』を手に取った。

 彼女の『魔手』が、毛穴の奥深くに詰まった迷宮の微細な塵埃を、オイルと共に優しく、かつ完璧に絡め取っていく。

「『精密洗浄』、そして……『理の潤い(モイスチャー・リンク)』!」

 フィオーレの指先から放たれた魔力が、化粧水の成分を一粒一粒、彼女の真皮の奥深くまで強制的に送り届けた。

 仕上げに、リリアーネが冷やした聖水に浸した『シートマスク』を顔に乗せる。

 そこにクロが、影から出した『美顔スチーマー(ポータブル式)』を起動させた。

 ――ふぉぉぉぉ……。

 温かなナノミストが、フィオーレの顔を包み込む。

 クロは、その霧を満足げに眺めながら、フィオーレの膝の上で「ウニュ……♪」と喉を鳴らした。


 一時間後。

 一階のティーサロンに降りてきたフィオーレを見て、朝食を食べていたレオンは、思わず持っていたフォークを落とした。

「……フィオーレ? お前、なんか……光ってないか?」

「えっ? そんなことないわよ」

 フィオーレは微笑むが、その肌は内側から発光しているかのように白く、瑞々しく、陶器のような滑らかさを取り戻していた。

 かつての「過酷な探索者」の面影は消え、そこにあるのは、どこかの国の王女ですら嫉妬するであろう、究極の美を纏った女性の姿だった。

「……いや、光ってる。眩しいぞ。……おい、クロ。お前、今度は何を拾ってきたんだ?」

 レオンが漆黒の盾を鏡代わりにし、そこに映るフィオーレの圧倒的なビジュアルに圧倒される。

 クロは、フィオーレの肩の上で、自慢げに尻尾を立てた。

「クルル……♪」

 満足げな鼻鳴らし。

 クロにとって、コレクションは常に最高のコンディションでなければならない。

 フィオーレの肌が整ったことで、彼女を通じて感じる魔力の循環効率までもが劇的に向上している。まさに、美は機能美でもあったのだ。


 その日の午後。店を訪れたギルドの高官の夫人や、女性冒険者たちは、フィオーレの顔を見た瞬間に言葉を失った。

「……フィオーレ様。その……その肌の輝き、一体どんな魔法を使えば……!?」

「お願いします! いくらでも払います! その『白いシートマスク』を私にも!」

 かつて彼女を「洗濯女」と呼んだ者たちでさえ、その美しさの前には跪くしかなかった。

 フィオーレは困ったように笑いながら、クロの指示通りに答えた。

「これは売り物ではないんです。……でも、クロちゃんが気に入った方にだけ、少しだけお分けできるかもしれません」

 クロは、夫人が持っていた「非常に珍しい意匠のブローチ」に目を留め、**「うにゃ」**と短く鳴いた。

 それは、新たな物々交換(コレクション収集)の合図だった。

 アルカディアの街に、新たな「美の伝説」が刻まれる。

 だが、当のクロはそんな騒ぎには興味がない様子で、フィオーレの瑞々しくなった頬に、自分の毛並みを満足げにスリスリと擦り付けていた。


 飛行船は、今日も最高のコンディションのヒロインを乗せて、のどかに進み続ける。

「うにゃう」

 満足げな声が、幸福な店内に響き渡った。

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