第30話:神話の回廊と、猫の修復(リタッチ)
白金の飛行船『まどろみ・エアライン』は、大陸の西端、切り立った絶壁の内部に穿たれた巨大な横穴――伝説の『神話の回廊』へと接舷していた。
ここは世界の始まりから、神々と人間が歩んだ歴史のすべてが壁画として刻まれているとされる聖域だ。歴史学者や考古学者にとっての聖地であり、同時に、あまりの魔力濃度の高さに、並の人間は足を踏み入れることさえ叶わぬ禁域でもある。
「……これが壁画か。何が描いてあるのか、さっぱりわからんな」
レオンが、松明の代わりに放たれたフィオーレの光球を頼りに、暗い壁面を仰ぎ見た。
壁画は悲惨な状態だった。数千年の歳月が流した地下水は石灰の層となって絵を覆い隠し、染み出した鉱物の酸化によって、かつての色彩はどす黒く変色している。剥がれ落ちた顔料は床に積もり、そこには歴史の重みというよりは、ただの「手入れ不足」という名の絶望が漂っていた。
「うにゃ……。クルル……」
クロはフィオーレの肩から降りると、壁面に鼻先を近づけ、不満げに喉を鳴らした。
彼にとって、この場所は「歴史の記録」ではない。保存状態が最悪な上に、ラベル(色彩)が剥がれ、分類が不可能な状態に放置された、巨大な「欠陥在庫の山」に見えていた。
病的収集家であり、完璧なアーカイブを志向するクロにとって、情報の欠損はもっとも許しがたい不潔であった。
クロは不機嫌そうに影の中に深く手を突っ込むと、いくつかの「振動する水槽」と、数百本もの「色とりどりの細い棒」を取り出した。
現代世界の精密洗浄技術――眼鏡や貴金属を瞬時に磨き上げる『超音波洗浄機(業務用大容量モデル)』。そして、プロのイラストレーターも羨む『アルコールマーカー・三六〇色セット』だった。
一行が修復の準備を始めたその時、回廊の奥から、乾いた石の擦れる音が響いてきた。
現れたのは、かつての魔導師たちが遺した自律警備ゴーレム『記録の守護者』。
その全身は古びた羊皮紙と石板で構成され、侵入者を「歴史を書き換える改竄者」と見なして排除しようとする。
「――止まれ、時の異物よ。……色褪せることこそが、歴史の証明。……新しき色彩など、この神聖なる壁には不要である――」
守護者が巨大な石の腕を振り上げ、歴史の重圧という名の重力魔法を放とうとした。
「シャーーーッ!!」
クロが、石畳の上で最大級の威嚇音を上げた。
その鳴き声は、物理的な音波を超え、守護者の「記録を保持する」というプログラムそのものに干渉した。
クロにとって、汚れた状態を「歴史」と呼び、情報の劣化を正当化するこの守護者は、即座に「再起動」して排除すべきバグに等しかった。
「レオンさん、守護者の腕を固定して! 私はこの壁の『ノイズ』を洗浄します!」
「了解だ! ……歴史だろうが何だろうが、俺の主に吠える奴は容赦せん!」
レオンが盾を構え、守護者の石の腕を正面から受け止めた。アダマンタイトの皮膜が歴史の重圧を霧散させ、騎士の一撃が守護者の体勢を崩す。
「ウニュウ、ウニュ……!」
クロは不機嫌そうに、超音波洗浄機のノズルをフィオーレに託した。
「わかったわ、クロちゃん。……すべての『曇り』を取り除くのね」
フィオーレは、クロの意図を完璧に理解した。
彼女は『魔手』を数百本、網目状に展開し、壁画の表面を優しく、かつ徹底的に覆い尽くした。
「『超音波微細洗浄』――汚れの剥離。……『色彩抽出・再定義』」
フィオーレの指先から、クロの持ち込んだ洗浄機の振動が、魔力として壁面に伝わっていく。
人間の目には見えない微細な泡が石灰層の隙間に潜り込み、数千年分の汚れだけを分子レベルで浮き上がらせる。
――シュワァァァァ……。
心地よい泡の弾ける音と共に、どす黒かった壁画が、真っさらな石肌へと戻っていく。
だが、そこには以前の「色褪せた絵」はなかった。フィオーレの『分解』魔法が、石の深層に残っていた僅かな顔料の成分を検知し、それをクロの『三六〇色マーカー』のインクと魔法的にリンクさせたのだ。
「『理の彩色』。……仕上げに入ります」
数百本の『魔手』が、それぞれ異なる色のマーカーを掴み、壁面に舞い降りた。
クロがストレージから提供する「現代の顔料」は、異世界の天然絵具を遥かに凌ぐ発色と耐久性を誇る。
神々の衣は深みのある群青に、太陽の光は鮮やかな蛍光色に。失われていた神話のディテールが、最新のデジタル作画のような鮮明さで、壁面上に再構築されていく。
「な……ッ!? 我が歴史が、塗り替えられていく……。否、これは……『高精細化』されているというのか――っ!」
守護者は、目の前で展開される圧倒的な「情報の復元」を前に、戦意を喪失した。
古びていたはずの自分の体まで、フィオーレの余波によって「洗浄」され、磨き上げられた新品のゴーレムのようになり、静かにその場にひざまずいた。
一時間の修復作業。
かつて薄暗く不潔な洞窟だった回廊は、今や世界で最も鮮やかな「美術館」へと変貌していた。
クロは、ルンバ型ゴーレムの背に乗り、磨き上げられた壁画の前を誇らしげに巡回していた。
そこには、世界の始まりに現れた『一匹の黒猫が、神々に整理整頓を教えた』という、誰も知らなかった(あるいはクロが勝手に復元中に混入させた)真実の神話が、鮮やかなフルカラーで描かれていた。
「ウニュ……♪」
クロは満足げに、自分の姿が描かれた壁画の前で喉を鳴らした。
歴史は、管理者の手によって常に美しくあるべきだ。これこそが、王の求めていた「完璧なアーカイブ」である。
「……きれい。神様たちって、こんなに派手な格好をしていたのね」
フィオーレが微笑みながら、三六〇色のマーカーを丁寧にケース(クロのストレージ)へ戻していく。
ガラムは「この洗浄の振動、わしの彫金の仕上げにも使えるわい」と喜び、リリアーネは「この鮮やかな色から、新しいお菓子の着想を得たわ」と瞳を輝かせている。
レオンは、すっかり綺麗になった守護者ゴーレムに、新しい案内板を持たせていた。
「……まあ、混沌とした歴史より、この方が見やすくていいな」
クロは、フィオーレの膝の上で**「クルル……」**と幸せそうな声を漏らし、静かな美術館の最奥で、深いまどろみの中へと落ちていった。
神話の回廊は、一匹の猫の巨大なポートレートギャラリーとして、絶壁の奥で静かに輝き続けている。
「うにゃう」
満足げな声が、歴史の静寂に響き渡った




