第28話:月光の庭園と、猫の標本(レジン)
白金の飛行船『まどろみ・エアライン』は、大陸の北端に位置する孤高の絶壁『静寂の尖塔』の頂を捉えていた。その頂上にしがみつくように広がるのは、伝説の『月光の庭園』。
一年のうち、もっとも月が美しく輝く夜にだけ花開くという『月光のバラ』が自生する、美しくも忌まわしき聖域である。
「……空気が、重いな。魔力が淀んでいるというより、時間が澱んでいる感覚だ」
レオンが漆黒の盾を握り直し、甲板から見えるその庭園を睨んだ。
庭園は、満開のバラに覆われていた。しかし、その花びらは微動だにせず、風に揺れることさえない。
そこは、かつて愛する者を失った狂気の魔導師が、美しさを永遠に留めようと時を止めた呪いの地。侵入者の「生ける時間(寿命)」を吸い取り、庭の肥やしに変えるという『忘却の庭師』が徘徊する場所でもあった。
「うにゃ……」
クロは、フィオーレの肩の上で、不満げに鼻を鳴らした。
彼の金色の瞳には、月光を吸い込んで青白く発光するバラが、至高の輝きを持って映っている。だが、それを取り囲む「ドロリとした呪いの残滓」は、整理整頓を愛するクロにとって、速やかに洗浄・除去すべき悪質な汚れに等しかった。
クロは影の中に深く手を突っ込むと、いくつかの「奇妙なボトル」と「紫色の光を放つ小さなランプ」を取り出し、フィオーレの足元へ転がした。
現代世界の英知が生んだ、高透明度の『UVレジン液』、そして『プリザーブドフラワー用保存液(特製)』。そして、それらを瞬時に硬化させる『高出力UVライト』だった。
一行が庭園に足を踏み入れた瞬間、満開のバラの茂みから、透き通った体を持つ巨躯の影が現れた。
古い仕立ての服を着た、半透明の亡霊。手には巨大な鋏を持ち、その虚ろな眼窩が一行を捉える。
「……美しき……瞬間を……。汚す者は……許さぬ……。お前たちの『明日』を……この庭に……捧げよ……」
庭師の亡霊が鋏を振りかざすと、周囲の時間が歪み、フィオーレたちの足元に灰色の茨が急速に伸びてきた。触れた者の若さを奪う、呪いの侵食だ。
「――っ! レオンさん、そのまま茨を抑えてください!」
「ああ、心得た! この盾の向こうへは、一分一秒たりとも渡さん!」
レオンが盾を地面に叩きつけた。アダマンタイトの被膜が呪いの茨を弾き返し、時間の歪みを物理的に防ぎ止める。
「シャーーーッ!!」
クロが、フィオーレの肩から飛び降り、庭全体を震撼させるほどの威嚇音を上げた。
クロにとって、自分の大切な仲間(一族)の時間を奪おうとし、あまつさえ「美しさを留める」という自分の得意分野で、こんな中途半端な呪いを得意げに披露しているこの亡霊は、即座に不燃ゴミとして処理すべき対象だった。
「ウニュウ、ウニュ……!」
クロは不機嫌そうに尻尾を振り、フィオーレの鞄をパシパシと叩いた。
「わかったわ、クロちゃん。……『一瞬を、永遠に閉じ込める』のね」
フィオーレは、クロの意図を完璧に汲み取った。
彼女は『魔手』を十数本展開し、庭師が守っていたもっとも美しい『月光のバラ』の周囲を取り囲む。
「『精密抽出』――バラの水分を保存液と置換。……『時間軸固定』」
フィオーレの指先から放たれた魔力が、バラの一輪一輪から「腐敗の要因」を抜き取り、クロの差し出した保存液へと一瞬で入れ替えていく。
さらには、そのバラをクロのUVレジン液で満たされた「魔力の立方体」の中に沈め、紫外線の魔力を収束させた。
「『理の強制定着』――硬化!」
――ピカァッ!
フィオーレがUVライトを掲げ、最大出力の魔力を流し込む。
次の瞬間、呪いの庭に満ちていた「淀んだ時」が、一点に凝縮されるようにして、その立方体の中へと吸い込まれていった。
亡霊の庭師は、自分が何百年も守ろうとして成し遂げられなかった「完璧な静止」を、目の前の少女と猫が、化学と魔法の融合によって一瞬で完成させたのを目の当たりにした。
「……あ……ああ……。これこそが……私の……求めた……永遠……」
亡霊の執念は、立方体の中に閉じ込められた「一点の曇りもないバラの標本」に触れたことで、ようやく満たされた。
呪いの源となっていた執着が消え、庭師の姿は青白い霧となって霧散していった。
翌朝、飛行船『まどろみ・エアライン』の三階。
クロは、窓際に設置された黄金の飾り棚の最上段に、昨日完成した『月光のバラのレジン標本』を鎮座させていた。
「クルル……。ウニュ……♪」
朝日を浴びて、立方体の中のバラが幻想的な虹色を放つ。
もはや水を与える必要も、枯れる心配もない。それは、この世界の物理法則から切り離された「完璧な静止画」としての美を誇っていた。
「……きれいね。あんなに恐ろしかった庭のバラが、今はこんなに優しく光ってる」
フィオーレが、バニラの香るハンドクリームで整えられた手で、クロの背中を撫でる。
クロは目を細め、満足げに喉を鳴らした。
彼にとって、この「標本」は単なる花ではない。呪いという不純物を洗浄し、もっとも美しい一瞬を効率的にアーカイブした、最高級の管理品なのだ。
「……しかし、あんな恐ろしい亡霊を『お掃除』しちまうとはな。お前たちといると、世界の七不思議がどんどん消えていきそうだ」
レオンが黄金のポットで淹れた聖水の紅茶を配りながら、苦笑する。
ガラムは「この樹脂の硬化技術、わしの細工の表面保護にも使えるわい」と喜び、リリアーネは「次は、食べられるお花の標本を作ってみたいわ」と瞳を輝かせている。
クロは、フィオーレの膝の上でパンの耳をもらい、「うにゃう」と幸せそうな声を漏らした。
飛行船は、レジンの煌めきを窓に映しながら、さらなる未知へと、のどかに進み続ける。
「うにゃう」
満足げな声が、清々しい朝の空に響き渡った。




