後編
結婚から半年が過ぎる頃には、アルノルトを冷酷無慈悲と呼ぶ者は領内では少なくなっていた。
王都では以前の評判が残っていたが、領地では事情が違った。冬場の徴税が見直され、兵士の休暇制度が整えられ、戦災孤児のための施設も新設された。以前なら結果だけを求めていた辺境伯が、部下の事情まで聞くようになった。若い夫人が変えたのだと、誰もが言った。クラウディアはそれを否定もしなければ自慢もしなかった。
「旦那様がお決めになったことですもの」
人前ではそう言って夫を立てた。アルノルトは隣で妻を見た。クラウディアが微笑めば、自分も少しだけ笑った。
夜になると、その日の出来事を報告した。
「今日は騎兵隊長と揉めた」
「怒鳴りました?」
「少し」
クラウディアの笑顔が消えた。
「……すまない」
「私ではなく、隊長へ謝りました?」
「ああ」
「なら結構です」
「怒っているか」
「少し」
「すまない」
「でも、ご自分で謝れたのでしょう?」
「ああ」
「偉いですわ」
クラウディアが頬へ触れる。
アルノルトは息を吐いた。
「許してくれるか」
「今日の事は許します」
「ありがとう」
アルノルトはしばらく黙ってから、クラウディアの手に頬を寄せた。
「……愛している」
クラウディアは何も答えず、髪を撫でた。
そんな日常が続いた。その晩も、特別な出来事があったわけではない。雪の音が窓の外から聞こえていた。暖炉には薪が入り、アルノルトは長椅子に横になっていた。その頭をクラウディアの膝へ乗せ、クラウディアは気にせず書物を読んでいる。
「クラウディア」
「はい?」
「前から、聞こうと思っていた」
「何でしょう」
「どうして私を許せた」
ページをめくる音が止まった。
「私は、お前に会うまで、自分が許されることがあるとは思っていなかった」
「……」
「戦場で死んだ者もいる。私の判断で死んだ者もいる。酷いこともした。若い頃には、もっと勝手だった」
アルノルトは目を閉じた。
「それでも、お前だけは私を許してくれた」
クラウディアはしばらく何も言わなかった。
「旦那様」
「何だ」
「旦那様は、本当に何もお分かりではないのですね」
アルノルトが目を開ける。
クラウディアは本を閉じていた。
「私は、あなたを許してなどおりませんわ」
アルノルトは瞬きをした。
「……何?」
「マリアンネ・ロートフェルトをご存じ?」
「誰だ」
クラウディアは黙った。
「……誰の話だ」
「マリアンネ・ロートフェルト」
「聞いたことが……」
記憶を探した。古い名前だった。10年ほど前。王都。金色の髪。庭園。婚約。
アルノルトの顔から血の気が引いた。
「……マリアンネ」
「思い出しました?」
「お前、なぜ」
「私の従姉です」
アルノルトは起き上がった。
クラウディアは膝の上の皺を伸ばした。
「私にとって実の姉のようなものでした。小さい頃は何をするにもお姉様の後をついて歩きましたわ」
「……」
「髪も結っていただきました。文字も教えていただいた。初めて王都へ連れていってくださったのも、お姉様でした」
アルノルトは何も言えなかった。
「婚約を破棄された後、お姉様はしばらく実家に戻っておりました」
「クラウディア」
「私は八歳でした」
「……」
「ある朝、お姉様を探しに行きました」
クラウディアはアルノルトを見た。
「首を吊って死んでおりましたわ」
アルノルトの唇が動いたが、声にはならない。
「私が、最初に見つけましたの」
しばらく、暖炉の音だけがした。
「……すまない」
「何が?」
「マリアンネのことだ」
「すぐには思い出せなかったくせに?」
「……すまない」
「名前を聞いても分からなかったくせに」
「すまない」
「お姉様はあなたを愛していましたのよ」
「分かっている」
「分かっていないでしょう!」
クラウディアが初めて声を強めた。
「分かっていたら、名前くらい覚えておりますもの」
アルノルトは視線を落とした。
「私は戦場から戻ってから、まともではなかった。誰かを気遣う余裕などなかったんだ」
「戦争で傷ついた自分なら、何をしても許されるとでも思っていらしたの?」
「……」
「ええ、お姉様を煩わしく思ったのも、捨てたのも、きっと戦争のせいですものね」
「違う」
アルノルトは顔を上げたが、その先を続けられなかった。
「便利ですこと。何もかも戦争のせいにできて」
クラウディアは笑みを消し、まっすぐにアルノルトを見る。
「では、どこからがあなた自身のせいですの?」
アルノルトは頭を下げた。
「すまない」
「またそれ?」
「……」
「謝れば楽になりますものね」
「違う」
「何が違うの?」
「楽になりたいわけでは」
「では黙っていらしたら?」
アルノルトは口を閉じた。
クラウディアは彼を見た。
「本当にどうしようもない方」
アルノルトの肩が動いた。
「人を殺すことしかできない。戦争なら仕方がなかった、命令だった、必要だった。そればかり」
「……」
「そして戦争でもないところで一人の女を捨てて、その人が死んでも、たくさんの死者に紛れて忘れてしまった」
「忘れてはいない」
「名前もすぐに出てこなかったのに」
「……すまない」
「ほら。また謝った」
クラウディアは笑った。
以前、一か月間アルノルトを責めていた頃と同じ笑い方だった。
「本当に謝罪がお好きですこと」
「……」
「便利ですものね。すまないと言えば、自分は悪いと理解している立派な人間になれる」
「そんなつもりではない」
「では、どんなつもり?」
「私には、それしか」
「それしかできない?」
クラウディアは首を傾げた。
「本当に、何もできない方ですのね」
アルノルトは俯いた。
「戦争しかできない。怒鳴ることしかできない。人を捨てることしかできない。今は謝ることしかできない」
「……」
「お姉様から愛されても、それを大切にすることもできない」
「……」
「愛されたことすら、まともに覚えていられない」
「やめてくれ」
「どうして?」
「……」
「また言えましたね。やめてくれ、って」
「頼む」
「前に戻ったみたい」
クラウディアは微笑んだ。
「私に毎日いじめられて、最後にはやめてくれしか言えなくなった旦那様」
「……」
「あの頃よりひどいですわね。今の旦那様は、私に嫌われるのが怖いのでしょう?」
「そうだ」
「まあ。はっきり言いますのね」
「……嫌わないでくれ」
「どうして?」
「お前がいなくなったら、私は」
「何もできない?」
「……ああ」
「やっぱり」
クラウディアは小さく笑った。
「価値がありませんのね、あなた!」
アルノルトの目から涙が落ちた。
「すまない」
「何に謝っていますの?」
「お前に」
「私へ?」
「マリアンネにも」
「意味がありませんわ」
「分かっている」
「お姉様は死んでおりますもの」
「分かっている」
「あなたが捨てたから」
「分かっている」
「八歳の私が見つけましたのよ」
「……すまない」
「冷たくなって、ぶら下がっていたお姉様を」
「すまない」
「あなたはその頃、何をしていたのかしら」
「やめてくれ」
「次の戦争?」
「やめてくれ」
「誰かを殺していました?」
「やめてくれ……」
「かわいそう」
クラウディアが笑った。
「三十四にもなって、十六歳の妻に泣かされて。半年かけてようやく少しまともな人間になったと思ったら、その妻のお姉様まで死なせていたなんて」
「……」
「何をなさっても駄目なのですね」
「……」
「旦那様って、本当に最低」
「そうだ」
「認めるの?」
「ああ」
「人として価値がない?」
「……ああ」
「私くらいしか愛せない?」
「そうだ」
「かわいそうな旦那様」
アルノルトは泣きながら頷いた。
「すまない」
「また謝ってる」
「すまない」
「馬鹿みたい」
「……すまない」
「そんなに謝って、何を期待しているの?」
「何も」
「許してほしいのでしょう?」
「……」
「ほら」
「許して、ほしい」
「嫌です」
アルノルトが息を止めた。
「嫌ですわ」
クラウディアは笑っていた。
「だって、お姉様は帰ってきませんもの」
「……」
「私が八歳だったあの日もなくなりません」
「……」
「あなたが私に何回すまないと言っても、お姉様は一度も聞けない」
「分かっている」
「では、謝らないでくださる?」
「それは……」
「できない?」
「すまない」
「本当に馬鹿」
クラウディアはそこからも長く話した。アルノルトが過去にしてきたこと。マリアンネを捨てたこと。彼女の名前を忘れかけていたこと。自分には軍功と爵位しかないこと。妻の機嫌一つで眠れなくなること。少女一人いなければ生活すら整えられないこと。
一つ一つ、以前より明確な言葉で否定した。アルノルトは途中から何も否定しなくなった。ただ謝った。何度も謝った。
やがて、クラウディアが黙った。
アルノルトは顔を上げなかった。
「……すまない」
返事がない。
「クラウディア」
返事がない。
アルノルトが顔を上げる。
クラウディアは彼を見ていた。
怒っていなかった。笑ってもいなかった。泣いてもいなかった。ただ、何の感情も映していない顔をしていた。
アルノルトの呼吸が止まった。
「……どうした」
クラウディアは答えない。
「クラウディア」
「何です?」
「もう……終わりか」
「何が?」
「私に、もう何も」
「……」
「もう、私は必要ないのか」
クラウディアは瞬きをした。
「私を捨てるのか」
自分の声がひどく情けないものになっていることは分かっていた。それでも止められなかった。
「頼む」
「……」
「それだけは、やめてくれ」
「……」
「何でもする」
「……」
「お前の言うとおりにする。だから」
「旦那様」
クラウディアが口元を緩めた。いつもの笑顔だった。
「まさか」
アルノルトの肩から力が抜けた。
クラウディアは両手で彼の頬を包んだ。
「捨てたりいたしませんわ」
「……本当に?」
「ええ」
「……」
「こんなにかわいそうな旦那様を、誰が面倒見て差し上げるの?」
アルノルトは泣いた。
クラウディアはその頭を抱いた。
「今日はもうよろしいですよ」
「……許して、くれるのか」
「今日は、許して差し上げますわ」
その一言で、アルノルトは目を閉じた。
翌朝、クラウディアは何事もなかったように朝食を用意させた。
「卵を残してはいけません」
「食欲が」
「駄目です」
「……分かった」
「今日は北砦から報告が来るのでしょう?」
「ああ」
「きちんとお仕事なさってくださいませ」
「分かっている」
「怒鳴らない?」
「努力する」
「えらいですね」
クラウディアは微笑んだ。
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
アルノルトは執務へ行った。
夜になると、また妻の部屋へ戻った。
「今日は兵士を一人罰したそうですね」
「勤務中に酒を飲んだ」
「それで?」
「一週間の謹慎にした」
「以前なら?」
「鞭打ちにしていた」
「そうでしょうね」
「……」
「人を痛めつけるのがお好きでしたものね」
「違う」
「お姉様も?」
「……すまない」
「また始まりましたわね」
「すまない」
「今日も悪い子」
アルノルトは俯いた。
一時間後、クラウディアは彼を抱きしめた。
「今日はもう許します」
「ありがとう」
「おやすみなさいませ」
「愛している」
「私もですわ」
翌日も同じだった。その翌日も。
朝は正しい妻だった。夫の服装を確認し、食事を取らせ、仕事へ送り出した。昼に客が来れば夫の横に立ち、領民が陳情に来ればアルノルトが最後まで話を聞くよう促した。
夜だけは違った。過去の罪を一つずつ出した。マリアンネの名前も出した。
「今日、お姉様のことを忘れていませんでした?」
「忘れていない」
「本当に?」
「ああ」
「一度も?」
「……仕事中は考えていなかった」
「やっぱり忘れていたのですね」
「違う」
「言い訳?」
「すまない」
「はい。謝れましたね」
アルノルトが食事を抜こうとすれば、クラウディアは怒った。
「死にたいのですか?」
「そういうわけでは」
「では食べて」
「……」
「お姉様を死なせておいて、ご自分まで勝手に弱って死ぬなんて許しませんわ」
「分かった」
「全部召し上がって」
「はい」
酒へ逃げることもできなかった。
「二杯まで」
「もう一杯だけ」
「駄目です」
「眠れない」
「私がおります」
「……分かった」
仕事を放棄することもできなかった。
「今日は休みたい」
「熱は?」
「ない」
「ではお仕事へ」
「クラウディア」
「皆様、旦那様を頼りにしているのですよ」
「……」
「ようやく人に必要としていただけるようになったのに、投げ出すの?」
「行く」
「偉いですわ」
アルノルトは以前より健康になった。以前よりよく働いた。以前より領民から慕われた。
領内を視察すれば、子供が手を振るようになった。
「辺境伯様!」
アルノルトは馬上から手を上げた。隣の馬車からクラウディアが笑っていた。
夜になると聞いた。
「今日の私は、ちゃんとできていたか」
「ええ」
「本当に?」
「皆様、喜んでいらしたでしょう?」
「お前も?」
「もちろん」
「……よかった」
クラウディアの指が頬を撫でる。
「よくできました」
それからさらに季節が巡った。辺境伯夫妻は理想的な夫婦として知られるようになった。
アルノルトは妻を大切にし、クラウディアは夫を支えた。辺境領の財政は改善し、兵士の待遇も良くなった。アルノルトが以前のように使用人へ怒鳴ることもほとんどなくなった。
誰も、夜のことは知らなかった。
ある日、交易商人が三人、領館を訪れた。北方との新しい交易路について話し合うための客だった。アルノルトは朝から会議に出席し、昼食もクラウディアと共に客をもてなした。
「辺境伯様は以前と随分印象が変わられましたな」
老商人が笑った。
アルノルトは答えず、隣のクラウディアを見た。
「旦那様は元々、とても真面目な方ですもの」
クラウディアが微笑んだ。
「少し不器用なだけですわ」
「なるほど。良い奥方を迎えられた」
「ええ」
アルノルトはそう答えた。
「最高の妻です」
クラウディアも微笑んだ。
その日の夕方、会談は一度休憩になった。アルノルトは自室へ戻った。誰にも何も言わなかった。ここ数週間、同じことを考えていた。
クラウディアから逃げたいわけではなかった。妻を嫌いになったわけでもなかった。むしろ逆だ。愛していた。離れたくなかった。捨てられることを考えるだけで息ができなくなった。
だから離婚することも、領地から逃げることも考えなかった。
ただ、なんとなく、終わりたかった。
アルノルトは一人になると、しばらく扉を見つめていた。やがて、クラウディアに止められていた酒と睡眠薬の入った薬瓶を取り出し、机の上に並べた。栓を抜き、薬瓶にも手をかけたところで、扉が開いた。
「旦那様?」
クラウディアが立っていた。
一瞬で状況を理解した。
「何をなさっているの!」
その声は館中に響いた。
休憩中の商人たちまで駆けつけた。クラウディアは迷わずアルノルトへ駆け寄り、自分の身体を押しつけるようにして止めた。
「お願いです、生きてくださいませ!」
「クラウディア」
「私を一人にしないで!」
「……」
「誰か、医師を! 早く!」
使用人が走った。商人たちは青ざめていた。
「辺境伯様、何を」
「奥様、こちらへ」
「嫌です。離れません」
クラウディアはアルノルトを抱いた。
「旦那様、こちらを見て」
「……」
「大丈夫。私がおります」
「クラウディア」
「大丈夫ですから」
アルノルトは妻の肩越しに、商人たちを見た。誰もが、夫の命を救おうと必死になる若い妻を見ていた。
自殺未遂については、過去の戦争で負った心の傷から、ときおりひどく取り乱すことがあり、今回はそれがいつになく重く出たのだと説明された。
老商人は涙ぐんでいた。
「これほど愛してくださる奥様を置いて逝ってはいけませんぞ」
アルノルトは返事をしなかった。クラウディアだけを見た。彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。その表情の意味を理解できるのは、自分だけだった。
医師の診察が終わり、商人たちも退出した。部屋には二人だけが残った。クラウディアはアルノルトの襟を整えた。
「お水を」
「……」
「飲んで」
「はい」
アルノルトは水を飲んだ。
クラウディアは乱れた髪も直した。
「痛いところは?」
「ない」
「気分は?」
「大丈夫だ」
「そう」
優しかった。怒らなかった。アルノルトはそのほうが怖かった。
「クラウディア」
「はい?」
「……すまない」
「何がです?」
「逃げようとした」
クラウディアの手が止まった。
アルノルトは俯いた。
「すまない」
「旦那様」
「もうしない」
「まだ何も言っておりませんわ」
「でも」
「顔を上げて」
アルノルトは従った。
クラウディアは微笑んでいた。
「死ぬのは駄目ですわ」
「……はい」
「ご自分を傷つけるのも」
「はい」
「お仕事を投げ出すのも」
「はい」
「私から逃げるのも」
「……はい」
「よろしい」
クラウディアがアルノルトを抱き締めた。
「では、今日は許して差し上げます」
「……ありがとう」
「眠ります?」
「まだ、怖い」
「何が?」
「お前が怒っているかもしれない」
「怒っておりますよ」
アルノルトの身体が強張った。
「でも、今日は許しました」
「……本当に?」
「ええ」
「愛している」
クラウディアは微笑み、彼の頬に触れた。
「もうお休みなさいませ」
クラウディアは眠りかけたアルノルトの髪を撫でながら、耳元へ顔を寄せた。
「明日からも、ちゃんと、生きていてくださいね」
自殺未遂のあと、クラウディアはしばらくアルノルトを執務から遠ざけた。食事を取らせ、薬を飲ませ、夜は眠るまでそばにいた。医師がもう問題ないと判断してからも数日は休ませ、顔色が戻るのを待った。
一週間ほどして、アルノルトはいつもの時間に起きた。朝食を食べ、クラウディアに髪と襟元を整えられた。
「顔色も戻りましたね」
「ああ」
「今日は以前いらして下さった商人の皆様とのお話があります」
「分かっている」
「先日のことを気になさって、必要以上に謝ってはいけませんよ」
「……分かった」
「辺境伯として、しっかりなさって」
「はい」
クラウディアが襟元を直した。
「行ってらっしゃいませ」
アルノルトは執務室へ向かった。商人たちはいつも以上に丁寧に接した。
「奥様を大切になさらねばなりませんぞ」
老商人に言われ、アルノルトは頷いた。
「分かっています」
その日の交渉は成功した。
夜、アルノルトは妻の部屋へ戻った。クラウディアは長椅子に座っていた。アルノルトはその前へ行き、黙って膝へ頭を置いた。
クラウディアが髪を撫でる。
「今日のお仕事は?」
「うまくいった」
「怒鳴りました?」
「一度も」
「偉いですわ」
「商人にも謝った」
「先日のこと?」
「ああ」
「きちんとできましたね」
「……」
「どうしました?」
「……逃げようとしてすまなかった」
「またそのお話?」
「忘れてはいけないと思って」
「そうですね」
「マリアンネのことも忘れていない」
「本当に?」
「ああ」
「今日は?」
「朝も思い出した」
「お仕事中は?」
「……何度か忘れていた」
「やっぱり」
「すまない」
「仕方のない方」
クラウディアは笑った。
「本当に、これだけ経っても駄目ですね」
「すまない」
「お姉様を死なせたことも、私から逃げようとしたことも、放っておけばすぐ自分に都合よく忘れてしまう」
「忘れない」
「では明日も覚えていて」
「はい」
「明後日も」
「はい」
「その次の日も」
「はい」
クラウディアの手がゆっくりと髪を撫でた。
「できるかしら」
「努力する」
「できなかったら?」
「謝る」
「それだけ?」
「お前の言うとおりにする」
「良い子」
アルノルトは目を閉じた。
「今日は許してくれるか」
「ええ」
「ありがとう」
「でも、明日は分かりませんよ」
「……分かっている」
「明日、また悪い旦那様になっていたら、ちゃんと叱って差し上げます」
「はい」
「泣いても駄目」
「はい」
「逃げても駄目」
「はい」
「死ぬのも駄目」
「……はい」
クラウディアはしばらく黙って髪を撫でた。
「安心してくださいませ」
アルノルトが目を開ける。
十六歳で嫁いできた少女は、あの頃と同じように笑っていた。
「私は若いですから」
クラウディアはアルノルトの頬へ手を添えた。
「これからも、長い時間一緒にいられますね」




