前編
アルノルト・グランツ辺境伯が妻を迎えたのは、三十四歳の冬だった。
結婚そのものを必要としていなかったわけではない。アルノルトは若い頃から軍人として国境の戦場で名を馳せ、二十代の半ばに父の死によってグランツ辺境伯位を継いだ。グランツ家は国境一帯に広大な領地を持ち、北方諸国との交易路と三つの砦を管理している。跡継ぎも、中央貴族との関係も必要だった。一度婚約まで進んだ縁談もあったが、結婚には至らず、その後もアルノルトは持ち込まれる縁談を断り続けた。そうして三十四歳になり、とうとう王命に近い形で話を持ち込まれ、ようやく承諾した。
相手はクラウディア・レーヴェン。十六歳。
辺境まで七日をかけてやってきた花嫁を見て、アルノルトは眉間に深く皺を刻んだ。細い肩とまだ幼さの残る顔を見下ろし、露骨に目を逸らした。
細い肩に白い毛皮をかけ、長い栗色の髪を結い上げている。言葉遣いも立ち居振る舞いも教育された貴族令嬢のものだったが、アルノルトには子供にしか見えなかった。自分が初めて戦場へ出た頃、この少女はまだ生まれてすらいない。
婚礼を済ませ、その夜、アルノルトは寝室ではなく応接間へ妻を呼んだ。
「最初に言っておく。私はお前を愛するつもりはない」
クラウディアは向かいの椅子に座り、黙ってアルノルトを見た。
「この婚姻は政治上必要になっただけだ。寝室を共にすることもない。子については必要になれば、そのとき改めて話す。それまでは白い結婚だと思え」
クラウディアは何も言わない。
「領政にも口を出すな。私の仕事にも、生活にも干渉する必要はない。夫人として最低限の役目だけ果たせばいい」
アルノルトが言葉を切っても、返事はなかった。クラウディアはただ静かに話を聞いている。
「辺境の暮らしが嫌なら実家へ戻っても構わん。こちらから責めることはない」
少し強く言えば泣くと思っていた。泣かなくとも、少なくとも顔色くらいは変えると思っていた。
クラウディアは口元を緩めた。
「勘違いされては困りますわ」
「何?」
「まるで私だけが、お願いしてこちらへ嫁がせていただいたようなお話でしたので」
「何が言いたい」
「今回の婚姻で王都との関係を改善する必要があるのはグランツ家でしょう。北方交易の新しい関税について、中央との折衝が三年止まっているそうですわね。西の開墾地についても、王家から補助金を引き出せないままだとか」
アルノルトの眉が動いた。
「誰から聞いた」
クラウディアは薄く微笑むだけで答えなかった。
「答えろ」
クラウディアは無視して続ける。
「この婚姻でグランツ家との交易を拡大できます。グランツ家はレーヴェン家を通じて王都との関係を修復できる。お互いに利益があるから成立した婚姻でしょう。それなのに旦那様だけが、嫌々少女を引き取らされた被害者のようなお顔をなさるので、おかしくて」
「口を慎め」
「それと、十年以上も結婚を拒んでいらしたから、このような形になったのではありませんか?」
「黙れ」
「三十四歳まで好き勝手なさって、いざ選べなくなってから相手が若すぎると不満を仰るのも、少々勝手ですわね」
「黙れと言った!」
アルノルトが机を叩いた。茶器が跳ねた。
クラウディアは瞬きもしなかった。
「声を大きくすれば、事実が変わりますの?」
「出ていけ!」
クラウディアは怒鳴りつけるアルノルトを、しばらく黙って見つめていた。その視線に怯えも反発もなく、クラウディアは立ち上がり、扉の前で一度だけ振り返った。
「では、また明日」
翌日、本当に来た。午後の執務中だった。昨日追い出されたことなどなかったような顔で、菓子と茶を持って現れた。
「何をしに来た」
「夫婦になったのですから、お茶くらいご一緒しようと思いまして」
「必要ない」
「そうですか」
クラウディアは自分の分だけ茶を注いだ。
「それにしても、随分静かな執務室ですのね」
「何が言いたい」
「部下の方々が、皆様旦那様のお顔を見ずにお話しなさるので」
「仕事に余計なものは必要ない」
「尊敬されているというより、怖がられているだけなのではありません?」
「出ていけ」
「まだ一口も飲んでおりませんわ」
「出ていけ!」
クラウディアは呆れたようにわずかに目を細めた。そして何も言わずに立ち上がり、そのまま部屋を出ていった。
三日目も来た。四日目も来た。
アルノルトが怒鳴れば、クラウディアは少し首を傾げた。
「怒鳴ることだけは、本当にお上手ですこと」
「お前は私を怒らせに来ているのか」
「まさか。お話をしに来ておりますのよ」
「それを世間では挑発と言う」
「あら、旦那様にはそう聞こえました?」
「黙れ」
「旦那様は単純ですのね」
「出ていけ!」
「では、また明日」
五日目、アルノルトは椅子を蹴った。六日目には、笑っているクラウディアの腕を掴もうとして手を伸ばした。途中で止めた。相手は政略結婚で迎えた妻であり、傷をつければレーヴェン家との関係にも響く。アルノルトは握った拳をそのまま机へ叩きつけた。
クラウディアはその手を見て、口元をわずかに緩めた。
「まあ。殴れないなんて、お優しいところもございますのね」
「二度と私を試すな」
「何をです?」
「私がお前に手を出すかどうかだ」
「出さないのでしょう?」
「分かったような口を利くな」
「だって、今日まで一度も殴られておりませんもの」
クラウディアはアルノルトの拳を見た。
「手がお痛そう」
「誰のせいだ!」
「旦那様が机を殴ったからでしょう?」
クラウディアは笑った。
アルノルトは彼女を追い出した。
二週目に入ると、話題が変わった。
「赤谷の戦いでは、三百人で千人を退けたそうですね」
「今度は何だ」
「旦那様の軍功についてお勉強しておりましたの」
「くだらん」
「北門の防衛戦では敵将を二人討ち取ったとか。十九歳の頃にはもう、剣鬼と呼ばれていらしたのでしょう?」
「昔の話だ」
「人を殺すことだけはお得意なのですね」
アルノルトの手が止まった。
「……何だと」
「だって、戦争のお話ばかりですもの。旦那様が褒められている記録を読んだら、人を殺した、人を退けた、敵を潰した。そればかり」
「戦争だった」
「あら。便利な言葉ですこと」
「何が言いたい」
「戦争なら、何をしても旦那様は悪くないのですか?」
「子供が知ったような口を利くな!」
「では、教えてくださいませ。ローデン砦を放棄したとき、残った兵は何人死んだのです?」
「誰から聞いた」
「答えてくださいな」
「お前には関係ない」
「百二十七人でしたか?」
アルノルトが立ち上がった。
「誰から聞いた!」
「有名なお話でしょう?」
「どこまで調べた!」
「怖いお顔」
クラウディアは菓子を一つ取った。
「でも、旦那様がお決めになったのですよね。ローデンを捨てて、東の本隊を守った」
「そうしなければ千人が死んだ」
「百二十七人ならよかった?」
「そんなことは言っていない!」
「では、今でも覚えていらっしゃる?」
「黙れ」
「お名前は?」
「黙れ!」
「百二十七人全員のお名前」
「出ていけ!」
その夜、アルノルトは十七年前の砦にいた。雪が降っていた。城門を閉じろと命じたのは自分だった。東側へ退く本隊を守るため、ローデンに残った兵は時間を稼ぐ必要があった。必要だった。それ以外に方法がなかった。城壁の上からこちらを見ていた若い兵士の顔を、夢の中では思い出せた。
目覚めたとき、喉が乾いていた。アルノルトは酒を飲んだ。
翌日もクラウディアは来た。
「よく眠れました?」
「帰れ」
「あら。目の下が黒いですわ」
「誰のせいだと思っている」
「私のせいになさるの?」
「お前が余計なことを言うからだ」
「私が何も言わなければ、百二十七人は死ななかったことになります?」
「……出ていけ」
「今日は怒鳴らないのですね」
「出ていけ!」
「ふふ。まだ元気ですこと」
その言い方が腹立たしかった。
だが、日を追うごとに怒りだけでは済まなくなった。クラウディアは戦場のことを調べていた。アルノルトが忘れたつもりになっていた小さな敗戦、死んだ副官、救援が一日遅れた村、捕虜を見捨てて撤退した冬。軍の記録に残っているものもあれば、当時の兵から聞かなければ分からないようなこともあった。
「どうしてそこまで知っている」
「知りたいから調べましたの」
「何のために」
「旦那様のことを知るのは、妻の務めでしょう?」
「ふざけるな」
「嫌ですの?」
「当たり前だ」
「でも、誰にも知られないように隠していらしたわけではないのでしょう?」
「……」
「もしかして、忘れたかった?」
「黙れ」
「かわいそう」
アルノルトが顔を上げた。
クラウディアは笑っていなかった。憐れむような顔だった。
「かわいそうな旦那様。たくさん人を殺して、たくさん死なせて、忘れようとしても眠るたびに出てくるのですものね」
「黙れ」
「それで、起きている間は怒鳴っていれば誰も近寄ってこない」
「黙れと言っている」
「人に嫌われるのが怖いから、先に嫌われるようなことをなさるのでしょう?」
「違う」
「捨てられる前に捨ててしまえば、自分が捨てられたことにはなりませんものね」
「黙れ!」
机の上の書類が床へ落ちた。
クラウディアはゆっくり拾った。
「図星でした?」
「出ていけ」
その日のクラウディアは、そのまま部屋を出ていった。
三週目に入った頃、アルノルトは食事が喉を通らなくなった。眠れない。眠れば死んだ者がが出る。起きていれば午後になると妻が来る。
それでも午後になると扉を見た。来ないでくれと思った。今日だけは来るなと思った。扉が開くと、身体が勝手に強張った。
「ご機嫌よう、旦那様」
「……今日は何だ」
「まあ。そんなお顔をなさらないで」
「帰れ」
「まだ何も言っておりませんのに」
クラウディアは窓際の椅子に座った。
「旦那様は、剣がなくなったら何が残るのでしょうね」
「……」
「爵位がなくなったら?」
「またそれか」
「軍功もなくなったら?」
「黙れ」
「優しいわけでもない。お話が楽しいわけでもない。一緒にいて安心できるわけでもない」
「黙れ」
「人を従わせるには怒鳴るか、怖がらせるしかない」
「やめろ」
「では、旦那様自身を必要としている方って、どなたです?」
「……」
「辺境伯だから仕えている兵士ではなくて。グランツ家だから頭を下げる商人でもなくて。旦那様が旦那様だから、一緒にいたいという方」
「黙れ」
「いないのですね」
「黙れ!」
「ああ、かわいそう」
クラウディアは頬杖をついた。
「三十四年も生きて、誰にも欲しがっていただけなかったのですね」
「出ていけ」
「声が小さいですわ」
「出ていけ……」
「そんなに震えて、私を追い出せます?」
「……出ていけ」
「こんな小娘一人に言い返せなくなってしまって。かわいそうな旦那様」
アルノルトは立ち上がった。視界が揺れた。机へ手をつき、そのまま動けなくなる。
クラウディアはすぐには立たなかった。
「本当に立てませんの?」
「……黙れ」
「まだ言えた。偉いですわ」
「お前は……」
「何です?」
「何が、したい」
「お話ですわ」
「毎日、毎日……」
「嫌なら追い出せばいいでしょう?」
アルノルトは返事をしなかった。
クラウディアはしばらく待った。
「できないのですね」
今度は声まで優しかった。
「かわいそう」
その日、クラウディアはアルノルトの前へ水を置いて帰った。
翌日は、もっと酷かった。
「今日は西の徴税官をお叱りになったそうですね」
「報告を聞いただけだ」
「使用人から聞きましたわ。怒鳴ったのでしょう?」
「仕事の話だ」
「また怖がらせたの?」
「必要だった」
「旦那様、それしかできませんものね」
「……」
「怒鳴って、怖がらせて、嫌われて。それで一人になってから、どうして誰も自分を好きになってくれないのだろうって」
「そんなことは思っていない」
「あら、今日は反論できた」
クラウディアは笑った。
「えらい、えらい」
「馬鹿にするな」
「しておりませんわ。こんなに弱っているのに、まだ頑張って大人の男のふりをなさっているから」
「……やめろ」
「十六歳の小娘に毎日泣かされそうになっているのに?」
「やめろ」
「私、まだ十六ですのよ。旦那様の半分も生きていないの」
「その話をするな」
「それなのに、そんな子供の顔色を毎日窺っている」
「やめてくれ」
「かわいそう」
クラウディアはそこで話をやめた。
アルノルトは顔を上げた。彼女はもうこちらを見ていなかった。窓の外へ顔を向け、庭師が冬薔薇の枝を切るところを眺めている。
「……何だ」
返事がない。
「クラウディア」
「はい?」
「何でもない」
呼んでしまったことが恥ずかしかった。
クラウディアは再び庭を見た。アルノルトは彼女がこちらを向くのを待った。少し前まで、帰れと怒鳴っていた相手だった。
翌日、クラウディアは来なかった。朝、アルノルトは何も思わなかった。昼になっても来なかった。静かだった。書類が進んだ。誰にも戦争の話をされない。死んだ兵士の名前を聞かれない。自分に何の価値があるのかと問われない。
夕方、廊下で女の足音がすると顔を上げた。侍女だった。アルノルトは書類へ目を戻した。日が暮れた。扉を見た。何も起きなかった。
「……夫人は」
側近が振り向いた。
「何か?」
「いや、何でもない」
その夜は、いつも以上に眠れなかった。クラウディアがいなければ静かになるはずだった。ところが静かになると、彼女が言った言葉を自分の頭が代わりに繰り返した。誰がお前自身を必要としている。剣がなければ何が残る。誰も残らなかったのも当然だ。
夜明けまで眠れなかった。
翌日の午後、扉が開いた。
「ご機嫌よう」
「昨日はどこにいた!」
クラウディアが目を丸くした。
アルノルトも、自分が何を言ったのか理解するまで数秒かかった。
「私をお待ちだったのですか?」
「違う」
「では、どうして怒っていらっしゃるの?」
「勝手に来たり来なかったりするな」
「旦那様は私に来るなと仰っていたでしょう?」
「……」
「変なの」
クラウディアは笑った。
「今日は来てほしかった?」
「違う」
「では帰ります?」
「……好きにしろ」
「では、ここにおりますわ」
クラウディアは椅子に座った。
アルノルトは、それだけで少し呼吸が楽になる自分に気付かなかったことにした。
四週目に入ると、怒鳴ることも難しくなった。食べていなかった。酒を飲んでも眠れず、飲まなければもっと眠れない。頬が落ち、髭を剃る手が震える日が増えた。
クラウディアは日に日に遠慮をなくした。
「昨日は夕食を半分しか召し上がらなかったそうですね」
「食欲がなかった」
「まあ。ずいぶん弱ってしまわれたのですね」
「……」
「戦場ではあんなに怖い方だったのに。奥様にいじめられてご飯まで食べられなくなってしまったの?」
「そういう言い方をするな」
「何です? もう怒鳴らないの?」
「……」
「あんなに大きな声が出たのに。残念」
アルノルトが睨む。
クラウディアは楽しそうに笑った。
「そのお顔はまだできますのね」
「お前は……本当に……」
「本当に?」
「性格が悪い」
「まあ」
クラウディアは一瞬だけ傷ついたような顔をした。
アルノルトの背筋が冷えた。
「違う」
「何がです?」
「今のは……」
「旦那様がそう思っていらっしゃるなら、そうなのでしょう」
「待て」
「お仕事のお邪魔でしたわね。失礼いたします」
「クラウディア」
彼女が立つ。
「すまない」
クラウディアが止まった。
アルノルトは自分でも信じられなかった。何に謝っているのか分からなかった。ただ、彼女が傷ついた顔のまま出ていくことに耐えられなかった。
「……悪かった」
クラウディアは数秒見つめた。
それから笑った。
「許して差し上げます」
胸の奥から力が抜けた。
「でも、旦那様」
「……何だ」
「十六歳の女の子に少し悲しそうな顔をされただけで謝ってしまうなんて、本当にかわいい方」
アルノルトは目を閉じた。
「やめてくれ」
「嫌ですわ」
「頼む」
「お願いまでできるようになったのですね。偉いですわ」
返す言葉がなかった。
ある日、クラウディアはほとんど何も言わなかった。隣で本を読んでいるだけだった。アルノルトが咳をしても顔を上げない。茶を飲んでも見ない。書類を落としても見ない。
「……クラウディア」
「はい」
「何を読んでいる」
「詩集です」
「そうか」
それだけだった。アルノルトは執務へ戻った。数分後、また顔を上げた。クラウディアは本を読んでいる。
「今日は、何も言わないのか」
「何か言ってほしいのですか?」
「そういう意味ではない」
「そう」
また本へ戻る。
アルノルトは文字を追った。まったく頭に入らない。
「昨日の徴税の件だが」
「はい」
「処分を軽くした」
「そうですか」
「以前なら罷免していた」
「そうでしょうね」
「……」
「何です?」
「いや」
クラウディアの視線が戻っただけで、アルノルトは少し安心した。
彼女はそれを見て笑った。
「本当に、私のお顔ばかり見ていますのね」
「見ていない」
「今も見ておりますわ」
「……」
「かわいそうな旦那様。私が笑っていないと、不安になってしまうの?」
アルノルトは否定できなかった。
月の終わり、アルノルトは朝から熱があった。医師は疲労と睡眠不足だと言った。二、三日休めばよい程度だったが、執務室には出た。
午後、クラウディアが来た。アルノルトは扉が開いただけで肩を強張らせた。
「今日は……何だ」
「何も」
「嘘をつけ」
「本当に何もありませんわ」
クラウディアは向かいに座った。
アルノルトは待った。戦争の話が来ると思った。価値がないと言われると思った。誰にも愛されていないと言われると思った。
何も来なかった。
「……何だ」
「何がです?」
「早く言え」
「ですから、何も」
「なら、なぜ来た」
「旦那様のお顔を見に」
「……」
「ひどいお顔」
クラウディアが立ち上がった。
アルノルトは反射的に椅子へ身体を押しつけた。
彼女の手が額に触れる。
「熱いですわ」
「触るな」
「嫌です」
「クラウディア」
「もうよろしいでしょう」
その声は、一か月間聞いたどの声よりも静かだった。
「何がだ」
「もう十分です」
「何を」
「旦那様は十分苦しみました」
声が出なかった。
「勝手なことを言うな」
「ええ。ですから今日は、私の勝手に付き合ってくださいませ」
クラウディアは長椅子へ座り、自分の膝を軽く叩いた。
「こちらへ」
「馬鹿にするな」
「しておりません」
「子供ではない」
「存じております」
「なら」
「でも、お疲れでしょう?」
アルノルトは動かなかった。
クラウディアが目を伏せた。
「もう怒らなくてよろしいのですよ」
「……」
「今日は誰のことも思い出さなくていいです」
「そんなことができるか」
「できます」
「眠れない」
「眠れますわ」
クラウディアは視線を戻し、優しく微笑んだ。
「私がここにおりますから」
アルノルトはしばらく立ったままだった。やがて長椅子へ座った。それでも横にはならなかった。クラウディアは何も言わず待った。
アルノルトが身体を傾ける。頭が少女の膝へ触れた。身体が硬直した。クラウディアは髪を撫でた。
「大丈夫です」
「……」
「今日は何も悪くありません」
「……本当に?」
「ええ」
「私は……」
「もうよろしいのですよ」
「……」
「おやすみなさいませ」
アルノルトは眠った。
戦場へ戻らなかった。死んだ兵士も現れなかった。途中で一度目を覚ましたときも、クラウディアの手が髪を撫でていた。自分の頬が濡れていることに気付き、アルノルトは目を閉じた。クラウディアは何も言わなかった。
それから、アルノルトは妻のそばで眠るようになった。最初の数日は、クラウディアが勝手に来た。
「今日は召し上がりました?」
「ああ」
「全部?」
「……半分」
「駄目です」
「食欲がない」
「では私と一緒に食べましょう」
「必要ない」
「また倒れたいの?」
「……分かった」
一週間後には、アルノルトから呼んだ。
「夫人を呼べ」
使用人は何も言わず頭を下げた。
クラウディアが来る。
「何かご用?」
「少し話がある」
「何のお話?」
「……特にはない」
「では帰ります」
「待て」
「はい」
「少し、ここにいろ」
さらに数日後には、「眠るまでいてくれ」と言った。その次は、「行かないでくれ」と言った。クラウディアは一度も断らなかった。
ただし、優しくなったからといって、アルノルトが抱くようになった自己否定を消してやることはなかった。
「今日は怒鳴らなかったそうですね」
「誰から聞いた」
「皆様、喜んでおりました」
「そうか」
「立派ですわ」
「……本当か」
「ええ。昔の旦那様でしたら、とてもできなかったでしょうね」
「……そうだな」
「よくできました」
クラウディアに褒められると、アルノルトは眠れた。使用人へ礼を言った日は、髪を撫でてもらえた。部下の意見を最後まで聞けば、頬へ手を当てて「偉いですわ」と言われた。
酒を飲み過ぎると、クラウディアは少し冷たくなった。
「また昔の旦那様に戻るおつもり?」
「違う」
「本当に?」
「もう飲まない」
「約束できます?」
「ああ」
「では許します」
その言葉を聞くまで、アルノルトは彼女の顔を見続けた。
いつしか領館の空気が変わった。使用人がアルノルトの前で必要以上に身体を強張らせなくなった。兵士から直接意見が上がるようになり、農地の徴税方法も改められた。冬の燃料税は軽減され、戦争で夫を失った家への補助も増えた。
「辺境伯様は随分お変わりになりましたね」
老執事がそう言った日、アルノルトは最初に妻を見た。クラウディアが笑った。それだけで安心した。
「奥様のおかげでしょう」
アルノルトは否定しなかった。
夜、クラウディアの膝に頭を置いた。
「今日の私は、間違っていなかったか」
「何がです?」
「西村の税を三年免除した」
「良いご判断だったと思います」
「そうか」
「ええ」
「怒っていないか」
「どうして私が?」
「分からない」
「困った方」
クラウディアは髪を撫でた。
「大丈夫。今日は何も悪いことをなさっていません」
「……愛している」
「ええ。存じておりますわ」
最初にそれを口にしたのがどちらだったのか、後には分からなくなった。アルノルトは一度だけ、クラウディアへ言った。
「お前はまだ若い」
「存じております」
「私のような男と一生いる必要はない」
「またそのお話?」
「お前なら、もっと」
「旦那様」
クラウディアが口元へ指を当てた。
「私が誰といるかは、私が決めます」
アルノルトは黙った。
「嫌ですの?」
「違う」
「では?」
「……いてくれ」
「はい」
クラウディアは笑った。
「ずっとおりますわ」
その夜、アルノルトは安心して眠った。




