樹の願い
「うん? ああ、そういえば君もいたね。久しぶり、メル。昔も言ったと思うけど、僕たちは仲間だ。僕と君は対等な関係なんだから、僕から君に何かを強制することはない。君は好きに生きていいよ」
夏穂の言葉にも、樹は全く顔色を変えなかった。聖人と謳われる微笑みで、彼は告げる。その姿が、以前と重なる。英雄扱いされることを嫌がっていた、パーティーの要石である勇者と。
「……はあ。ほんっと、お前のそういうとこ、嫌いだわ」
夏穂は低い声で吐き捨てる。もっとも、彼がその程度で怯むような男ではないことも、彼女は知っているのだが。陽葵がオロオロとした様子で2人を見比べて、戸惑い顔で口を開く。
「あ、あの。メルヴィンくんとアルトって、そんなに仲が悪かったの……?」
「違うよ陽葵。彼は素直じゃないだけだ。僕らは昔からこうだから、心配しなくていいよ」
柔らかな笑顔で、樹が返す。その言葉に、夏穂は不満げな顔で同意した。
「……ほら、こういうやつなんだよコイツは。陽葵が気にしてやることなんてない」
そう言って、彼女はゆっくりと起き上がる。そして陽葵の腕を掴んで、真顔で続けた。
「だから、もう帰ろう。アタシは大丈夫だから」
夏穂はベッドから出て、陽葵の腕を引いて歩きだす。陽葵は慌てて友人に着いて行きながら、そっと後ろを振り返った。樹はその場に留まったまま、笑顔で手を振りながら彼女たちを見送る。そしてその姿が見えなくなった後に、彼は小声で呟いた。
「……さてと。それじゃあ僕は、お預けになった勝負に決着を付けに行こうか」
スマホを取り出して、通話アプリを開く。これから彼が連絡する相手は、迎えに来ている父親の秘書だ。
「『悪いけど、今日は用事があるから先に帰っておいて。父さんには僕から説明する。夕ごはんの前までには帰るよ』と……こんなものかな」
必要なことだけ伝えて、樹は鞄の中にスマホをしまう。秘書からの返信が届いたのか、スマホが1度震えたが、彼は構わず外に出た。
「……確か、彼らがよく溜まり場にしてるのは、1丁目の路地裏だったかな」
前世の記憶を持っていた彼が、転生後に最初にしたこと。それはこの世界の事を調べることだった。幸いにも、彼は大企業の跡取り息子として父親の手で家庭教師を付けられて、幼少期から塾に通わされた。人によっては、それを負担に思うかもしれない。けれど彼は元々の資質と、愛する女性を救いたいという思いで、その教育に真正面から挑んだ。田舎の公立校に通うことを許されたのも、彼が既に学ぶべきことを吸収し終わっているからだ。彼はその優秀さで、周囲からは神童と呼ばれているが、彼にとってそれはどうでも良いことだった。ただ、アイルーズ……佐藤陽葵と幸せに生きられればそれで良い。転生はそのために彼に与えられた最後のチャンスなのだと、樹はそう思っていた。