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深夜の街中、密集した建物の屋根づたいに疾走する小さな人影がある。大きな尻尾を自在に操りバランスを取りながら走る警備局の制服姿の少女、首元はおろか両手首、果ては両足首にまでいくつものアクセサリーがつけられている。
(ガスを使うってことは遠距離攻撃は考慮する必要はないですね、防護できるのであればあとは物量で押し切るといったところでしょうか)
疾駆するアイリーンは入手している情報と街の構造などの様々な要因を考慮しつつ自分の向かう先を選定していた。考え事をしながらだというのに、不安定な屋根の上でも全力で疾走できるのは栗鼠系獣人ならではの強みである。背中に背負った筒状のものが月明りに武骨な輝きを放っていた。
一際高い建物の屋上で足を止めると、慎重に頭を出して様子を窺う。通りを一つ越えたあたりでは既に侵入者たちによる略奪が始まっていた。住人の悲鳴が聞こえないのは、既に避難を終えているのか、それとも石化ガスによって石化してしまったのか、その真偽をこの場所から知ることはできない。
「好き放題やってくれますね。これだから欲塗れの中央の貴族は……」
吐き捨てるようにつぶやくと、背負った筒状のものを取り出して準備を始めた。手早く持ち手を装着し、小さな遠見筒をつける。
「こんな武器、今時使う人はいないんでしょうけど……」
アイリーンが用意しているのは【魔導筒】と呼ばれる魔法武器である。原理は簡単で、その細い筒に魔力を溜めて打ち出すというもの、展開する魔法陣により打ち出される魔力は様々な魔法に変化するというもの。しかし現在これを使う者はほとんどいない。
魔導筒は大戦時に使われた武器で、一時期ではあるが主にメイスン軍が使用していた。魔導兵装と呼ばれる兵器が使われる前に投入されていた試作型兵器だった。何故試作型兵器のままだったのか?
魔導筒には重大な欠点があった。それは展開する魔法陣により威力が違うというものだ。魔法に疎いメイスン軍の兵士が使おうにも、放たれるのは魔族でhが子供でも放てる程度の魔法だったのだ。
魔法陣の展開には魔法知識が必需である。すなわち専門的に魔法を学ばなければ使用することもできないのだ。最前線にて消費されるだけの一兵士に高度な魔法知識を求めること自体が無謀なことだと言えよう。当然のことながら魔導筒は敵の手に渡り、メイスンの魔法技術の稚拙さを露呈することにり、即座に試作研究は中止された。
「でも私には合ってるみたいですけど……」
アイリーンは警備局の技術者たちよりも高度な通信魔法の構築すら難なくこなすほどの魔法知識がある。だがそれは彼女のほんの一端でしかない。そしてその隠された部分にこそ、本来ならば獣人種でも弱い種族に分類される栗鼠系の彼女が単独行動を許されている証左でもあるのだ。
「火だと周囲に燃え移ると厄介、風だといろいろと撒き散らすので却下、となると……氷系で個々撃破といったところでしょうか」
魔導筒を構え、備え付けられた遠見筒を覗き込む。遠見筒にも魔法陣を展開し、遠く離れた場所からもはっきりと狙う対象を視認できるようにしてあるのだ。そして狙いを定めたのは、昼間木の実を購入した、老婆の営んでいる商店を襲撃しようとしている賊の一人。
「……同じ制服を着ているというのがこんなに腹立たしいとは思いませんでした」
その賊はアイリーンと同じ制服を着用していた。すなわち同じ警備局員であるということ。だが遠見筒から見るその賊の顔は、果たして人々を護るという自らの職務を理解しているのかと疑いたくなるほど醜悪であった。それがアイリーンには許すことができなかった。大事な人たちを悪意を以って害そうという事実が彼女の心の枷を取り払う。
「単なる薄汚い盗賊風情に情けをかけるつもりはないです……」
魔導筒にいくつもの精密な魔法陣が浮かび上がり、アイリーンから魔力が供給されて魔導筒へと吸い込まれてゆく。筒内にて圧縮された魔力が魔法陣により様々な制御をなされて、アイリーンが敵と認識した輩を沈黙させる力となり解き放たれるその時を待つ。
「氷結弾」
短い詠唱の後、魔導筒の先端から放たれたのは極冷の魔力の小さな礫。だがその礫は触れたものを瞬時に凍結させる死の礫。
礫が賊の頭部に当たり、瞬時に上半身が氷漬けとなり倒れる。突然氷漬けになった仲間に動揺した賊たちは慌てて周囲を見回すが、通りを一つ隔てたアイリーンの姿を確認できる者はいない。ただ右往左往するだけだ。
「安心してください、すぐにほかの皆さんもコキュートスに送ってあげますから」
アイリーンはターゲットが沈黙したことを遠見筒で確認すると、すぐにほかの賊へと狙いを変えた。そして再び魔法を放つ魔導筒。それを淡々と繰り返す。そこには慈悲の欠片すら見当たらない。
アイリーンは若いが、これでもれっきとした大戦の帰還者である。生ぬるい生き方をしてきた愚物が戦争の手段を持ち込んだ時点で彼女の心の中から慈悲という概念は消えている。既にアイリーンが魔導筒を持った時点で、賊たちはただ狩られるだけの哀れな小動物と成り下がったのである。
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春楼閣の妖しげな赤い建物に向かって歩みを進めるのは翡翠色の長い髪を揺らす女性。非常時だというのに全く焦る様子すら見せないその女性は、警備局の制服の下に着込んだロングドレスの裾をふわりと翻しながらゆっくりと進んでいた。
「さ~て、この辺りかしらね~」
警備局特別市街地域出張所の副隊長、ローズはこんな状況においても優雅さすら感じさせるゆったりとした動きでその両腕を広げる。
「呪包帯開放、フェイズワン」
広げられた両腕の、制服の袖の下から突如現れたのは複雑な紋様の描かれた包帯、それも一本ではなく無数に、である。出現した包帯はあたかも生命を与えられたかのように妖しげな動きを見せ、周囲の建物に巻き付くと瞬く間にその表面を覆い隠してゆく。
「相変わらず見事なお点前ですね」
「トモエ~、久しぶり~」
ローズの背後には春楼閣の建物から出てきたトモエのい姿があった。ローズは声を掛けられたことに別段驚く素振りも見せず、旧知の友人に声をかけるかのような気楽さであった。
「やはり狙いはここでしょうか?」
「そのためにここで網をしかけないとね~」
だが先ほどのキャラミアとトモエの会話を見ている者がいれば、今のトモエの姿を見れば酷く違和感を感じることだろう。何故ならトモエはローズの背中に対して跪いて大きく頭を垂れていたのだから。
「そんな態度はやめてって言ってるわよね~」
「いえ、しかし……」
「今の私はただの副隊長のローズよ~」
「……わかりました」
ローズが背後に一瞥もくれずに言うと、トモエは渋々了承したという様子で立ち上がる。それを音で確認したのか、ローズはゆっくりと振り返っていつもと変わらぬ微笑みを見せた。
「この周囲の建物は補強したから多少の攻撃魔法でも問題ないわ~」
「ありがとうございます、これで心おきなく迎撃できます」
「まぁ仕込んだのはそれだけじゃないから~、くれぐれも外に出ないように言っておいてね~」
「はい、わかりました」
ローズの言葉に深々と一礼して建物に戻ってゆくトモエ。それを見届けたローズは大きく頷くと改めて建物を背にするように立つ。柔らかな物腰とは裏腹に、その身体の周囲に漂う一種独特のオーラのようなものはどこまでも黒く、そして深い闇色をしていた。
「愚か者には相応の報いを受けてもらわないとね~」
キャラミアとて万能ではない、たった一人でこの街のすべてを無傷で守ることなど出来るはずがないのだ。それはローズも、そしてアイリーンも理解している。だがそれでもキャラミアは護ろうとするだろう。
「ふふ……あの人も変わったわね~」
ついローズの口から笑みがこぼれる。それは戦うことが嬉しいのではない、頼られることが嬉しいのだ。キャラミアという自分たちが認める者に頼られているということが何よりも。街に被害が出始めている時に不謹慎かもしれないが、それでもこみあげてくる嬉しさをかみ殺すことなど出来なかった。
「隊長……こちらは任せてください~」
その笑みはいつものローズからは想像もできないほど妖艶であり、見る者すべてを虜にしてしまうことは間違いない。護られる側にとっては慈愛の女神のように、そして敵にとっては命ある者を冥府へと誘う死の女神として……
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