寒空の下で
目を覚ます。
どうやら気を失っていたようだ。
ぼやけていた頭が目覚めていくのを、龍樹は確かに感じ取った。
なにやら汗をかいている。
室内とはいえ、寒いはずなのに。
まるで貧血を起した後のように、身体全体が青ざめていた。少しの間身体の感覚がおかしかったが、それも次第に戻っていく。
「大丈夫ですか?」
目前にいた雀は手にしていたハンカチで額の汗を拭ってくれた。その後ろ側には壁に背を預けたアテナが見受けられた。神父はなにやらごそごそとしているが、何分薄暗いのでよく見えない。
「……何があったんだよ」
はっきりと意識の戻った龍樹は雀にそう訊いた。口を開いて気づいたが、喉もとの調子が少しおかしい。
「今、龍樹さんの中にいた悪魔と話をしてたんですよ」
雀は龍樹の頬、首、と汗を拭っていく。なんだか赤ちゃんみたいで恥ずかしくなってきた龍樹は手を上げてその動きを制した。ありがとうと、目で伝える。伝わったかどうか定かではないが。
「俺の中の悪魔と、会話だって?」
雀はハンカチをポーチへと仕舞いながら言う。
「そうです。呼び出したんですよ、強制的に。警戒して、悪魔は本来、おいそれと表には出てきませんからね。それを炙り出した訳なんですが――まあ詳しいことは当事者に聞いてください。原理や仕組みは分かってても、適合者でない私には説明に限界がありますから」
雀との会話に気づいたのか、
「落ち着いたかね」
水の入ったコップ片手に、神父がやってきた。
コップを受け取った龍樹。それを一気に飲み干す。よく冷えた水は、喉元を一気に下降した。
会釈して、空になったコップを神父に返す。
「さて、あらかた悪魔の素性も知れた。まずは第一段階終了といったところだ」
神父はなにかを言った。
いつの間にか接近していたアテナがそれを訳し、龍樹に伝えた。
「第一段階……」
その言葉が引っ掛かった。
眉を寄せた龍樹が何を言いたいのか分かったのだろう。
アテナ自らその説明をする。
「とりあえず、今行ったのは悪魔を表に引き出す作業。言っていたでしょ、まずは悪魔と対話しなければと」
「ああ……でも、こんな事いうのは不躾かもしれないけどさ。そのまま無理やり引っ張り出してくれれば良かったのに」
「出来ないから困ってるんじゃない。日本とは勝手が違うの。そもそも、曲りなりとはいえ、あなたと悪魔との間で契約は交わされてしまっている。それを解消するのは当事者達にしか……いえ、この場合は悪魔だけだったわね」
「そうだ。それだよ。おかしいだろ、それ」
「別におかしくないわよ。まず契約ってのは双方の合意の下で成立する。つまり、解消するのも双方の合意が必要という事」
もっともな事を、アテナは言う。
考えるまでもなくそうだ。
判を押すという事は、それほどの覚悟がいる事だ。
「なんてこった……じゃ悪魔が心変わりするのを待つしかないのかよ」
「少し料簡が狭いかしら――身体から出て行けだなんて、死ねと言うに等しいから。心変わりするのなんて待ってたら、それこそ人の寿命じゃ無理でしょうね。だから、そこは無理強いさせるしかない」
「無理強い? 脅すって事か」
「そうね。それに近いかしら。ただ正確に言うと、悪魔に畏怖なんて感情はないだろうから、そこは住みにくい環境――あるいはちょっかいを常に出してつつけば、防衛本能が働いておのずと退出に仕向けられる。ようするに追い出すって事ね」
「へえー、そうなんだ。……でもそれってどれくらい掛かるんだ」
「幸い、今回の悪魔はそれほど強力じゃないみたい。レギオンは元々集合体の意。個体である以上、悪魔という枠組みの中に限ればまだマシみたい」
「じゃそんなに掛からないって事か」
「まあそうだけど……ただ、油断は駄目よ。仮にも悪魔。その力は人間の領域をはるかに超えている。一歩間違えれば、力が暴走し、その者を死に至らしめる。分かる? なによりも慎重でなければならない。低級だからと言って雑な仕事をしては駄目。だから一気には執り行えないの。憑かれた者の心身的な部分を考慮するという事情も含めてね」
言われて、龍樹は掌を広げ、眺めてみる。
確かに。
なんだか身体が重い。まるで運動した後のような、乳酸が蓄積している感じだ。先ほどの汗といい、これらは悪魔を呼び出した名残なのだろう。
「さて、とりあえず今日はこれくらいにしよう」
神父が何かを言った。
「もう随分と夜も更けこんだからね。この分だと霧が発生するだろう。さっきも言った様に物騒な事件も起きているから、このまま家に真っ直ぐ帰った方がいい」
「ええ、そうするわ」
端からそうするつもりだったのか、アテナは素直に同意した。
そして龍樹の方を見る。
龍樹はいまだ椅子に腰掛けながら、聞く。
「なんて言ってるんだ?」
「今日はもう終わりだって。寄り道せず、真っ直ぐ帰るんだぞって」
「ああ」
龍樹は時計を見る。もうすぐ一時になろうとしている。思った以上に時間を費やしたようだ。
腰を上げようとする。悪魔を呼び出した反動か身体全体が鉛のように重かったが、立てないほどではない。
「ミシェルさんたちまだ起きてるのかな?」
「起きてるでしょうね。だって、寝ちゃったら私達が家に入れないじゃない」
「あ、そうか」
それは悪い事をした。これほど遅くなるなんて思いもしなかった。
怒ってるんじゃないだろうか、と龍樹は少し心配になる。
「だったら早く帰ってやらないと。えーと……明日また来ればいいのかな?」
答えを窺うように、龍樹は神父を見る。当然言葉が通じない神父はこちらを見たまま、何も発しなかった。
「明日同じ時間帯ここに、だって」
予定を先に聞いていたらしく、アテナがそう言った。
「そうか……はあ、でも、その感じなら、やっぱり結構掛かりそうだな」
「いえ、思ったよりも早く終わるかもしれないわ」
意外にも、基本ネガティブな事しか言わないアテナの口からは、そんな言葉が流れた。
今回の件に置いても、数少ない朗報だ。
龍樹はその言葉の真意を訊く。
「どういう事だよ」
するとアテナは龍樹へと視線を当て、
「両親に感謝なさい」
と言った。
どういう意味か分からないといった具合に顔を顰める龍樹に、アテナは続ける。
「巫女の母に陰陽師の父。考えてもみればその遺伝子を受け継いでいない訳がないわよね」
「……なんだよ。父さんも聖職者だったのかよ」
所作もさることながら、格好が格好だけに母がそっち系なのは直接言われずとも何となく分かっていた。
しかし父もそうだったとは以外だ。
むしろインディジョーンズとかそういったアドベンチャー系が好きな男だった記憶があるので、今の話は素直に驚きだ。
その反応を見てアテナもそれに気付いたようだ。
「あまり話されてないのかしら?」
「全然だよ。家にいる時だって私服かスーツだったしな。それ関連の話も聞いたことがない」
「そう。じゃあ私から話すべきじゃないのかもね」
などと、やはりガードの固いアテナ。
というか、やっぱり父さんの事知ってんじゃん、と龍樹はふてくされる。
今更愚痴口言うつもりはないが。
アテナは話の筋を戻し、
「まあ、ようはサラブレットなのよ、あなたは。だから普段は間隔を置く除霊も、次の日に執り行えるの。良かったわね」
急にそんな事を言われ、やや困惑する龍樹。
そりゃ母である十與が昔凄腕の巫女と呼ばれていたのは知っていたが、父にまでなにかしらの力があったという事なのだろうか。
しかしよくよく考えてみれば聖職者である母と結ばれるくらいだから、まるっきり繋がりがない方がおかしいのかもしれない。
「……まあ、なんにせよ早く終わるなら良かった」
つまりそれは、基準となっていた一週間掛からないという事になるのだろうから。
「さあ、行きましょうか」
それはミシェルを思ってか、ただ単に用が無いから帰りたいのか。
世間話をする事もなく、アテナは早々にこの場を後にしようとする。
とはいえ異論などは無い。
神父も神父で机の上にあった書に何かを書き込んでいる。古びれた、分厚いそれは、ひょっとして龍樹の診断書のようなものなのかもしれない。
アテナは神父に何かを言った。それに対し何かしらの言葉を返した神父。多分お礼か、別れの言葉だったのだろう。
踵を返し、外に向かい始めたアテナ。
神父に頭を下げた後、龍樹は彼女の背中を追った。
「寒!!」
外に出ると、冷え切った風が頬を撫でた。日本ではまだ半袖の人もいるというのに、この寒さは真冬並みだ。
身を丸める龍樹。吐く息も白かった。もっと厚着していった方がいいんじゃないかというミシェルの忠告を聞いておくべきだった。
しかし、もっと悲惨な奴もいる。
「へっくしょい!!」
龍樹の隣にいる雀は、おおいにくしゃみした。女のくせにはしたなく、垂れた鼻水をずずずと吸う。
彼女は例の全身茶色でコーディネートされた正装(?)のままだった。
もちろん龍樹同様ミシェルに警告を受けたわけだが、馬鹿な雀は笑みすら浮かべ、
『大丈夫ですよ。これくらいの寒さどうってことないです。だてに身体鍛えてません』
とほざいた。はっきりいって身体を鍛えているからといって感覚には関係ないと思うのだが、言うのも馬鹿馬鹿しいからそのまま放っておいた。
そしたらこのザマだ。
ざまあみろ、と龍樹は内心思った。
「龍樹さん」
かじかみながらこちらを見てくる雀。鼻水が出ては引っ込め、出ては引っ込めしてる。
「なんだよ……言っとくけどコートは貸さないからな」
「私もそこまで不躾じゃありません。それに、どうせ龍樹さんは貸してくれないと分かってましたから」
なんて事を言う雀。
龍樹は少しむっとした。
下手に出ていれば貸してやろうと思っていたのに。
もう貸さない。
「じゃなんだよ。なんで俺を呼んだんだ」
「はい。貸すのは無理にしても、そのコートの中、一緒に入れてください」
「……お前って時々凄い事言うよな」
呆れを通り越し、むしろ感心した龍樹。
聞く人によれば絶対に勘違いしてしまうシチュエーションだ。
雀に欲情する事はないだろうが。仮にも異性なんだからその辺は恥らってほしい。
「早く龍樹さん。このままじゃ私凍え死んでしまいます」
「あ、おいこら」
堪えられないのか、コートに手を伸ばしてきた雀。その手を払う。貞操の低さに焦り、思わず荒くなってしまった。
落ち着くために距離を取る。
全く、と龍樹は乱されたコートを整え直す。
それから雀を見る。肘を抱え、全身を震わせている。
「言わんこっちゃ無い。ミシェルさんが服貸してくれるって言った時、借りてれば良かったんだ。自業自得だよ」
「そんな事言われても後の祭りですよ……いいですよもう。どうせ私が悪いんです。きっとこのまま芸術の街の寒空の下、薄幸の美少女は寒さに凍えながら息絶えていくのです」
「またそういう事を言う」
出た。
ネガティブ雀。
いや、なんか美少女とか言ってたからな。意外と図々しいのかも。
それはさて置き。
男は女の子に優しく。
くそ、世の中の馬鹿。
「ほらよ、貸してやる」
渋々コートを脱ぎ、それを雀に差し出す。
すると虚ろだった眼が生気を取り戻した。雀は待ってましたと言わんばかりに、龍樹の手からコートを受け取った。
「ありがとうございます。流石龍樹さん。信じてましたよ。よ、このお人好し」
「うるせえお調子者が」
当然だが、今度はこちらが寒さに震える番だった。
それによくよく考えなくてもお人好しは褒め言葉ではないと思うのだが。
どうでもいいけど。
「うお、寒! 洒落になんねーよこれ!」
雀に倣った訳ではないが、肘を抱え震える龍樹。
コートの下はインナーに薄めのアウターを羽織った軽装だ。そこまで薄着でないのにこれほど寒く感じるのだから、昼間からの温度差といい日本ではまず考えられないだろう。
流石に悪いと思っているのか。
雀は申し訳無さそうに龍樹を見ていた。
「……やっぱり一緒に入った方がいいんじゃないですか」
「いや……いいよ」
男に二言はない。
というのは建前で、女の子とそんな恥ずかしい事する度胸が龍樹にあるはずもなかった。
なんのことなくアテナを見る。黒いダッフルーコートを羽織っている。首元にマフラーも巻く徹底ぶり。とても暖かそうだ。じゃなんで下はミニスカなんだよとつっこみたくもなる。
「貸さないわよ」
周囲に負けない冷たい言葉。白い息が、彼女の小さな口元から上った。
「……分かってるよ」
アテナの心外な言葉に、龍樹はややむくれる。こと戦闘においては非の打ち所がない彼女でも、寒さは苦手のようだ。
「さあ、早く帰りましょう。今夜は更に冷え込みそう」
踵を返し、歩を進め始めるアテナ。
確かにそうだ。風も吹き始め、温度は下降しているのは間違いない。
この時間でも街はライトアップで照らされている。寒気が光の輝きを一層引き立て、街全体を儚くも美しく演出していた。
一時ともなると、周囲の人数もほとんどいない。
そのまばらなカップルやらに、警官がなにやら話をしている。数人が何手かに分かれ、広場にいた全員に声を掛けている。
声を掛けられた人々は渋々といった感じにどこかへと移動を始める。
予想だが警官に帰れと言われているのだろう。
でもなんで……
考えても分からないので、前行くアテナに訊く。
「なんかやけに警官の数多くないか? いつもこんなのかよ」
「いえ……なんだか今この辺で猟奇的な家畜殺しが起こってるんだって。きっとそれで警備を強化しているんじゃないかしら」
「家畜殺し?」
ひゅう、と吹いたつむじ風に、更に身を縮こまらせた龍樹。
だが寒さよりも、今は家畜殺しの件が気になった。
「なんだよ、家畜殺しって」
「五日くらい前から、近隣でそういった事件が起きているんだって」
「そうなのか……なんでまた」
「さあ、詳しいことはまだ分かっていないみたい。ただ猟奇的だなんて言われるくらいだから、意味と呼べる意味もないのかもね」
「……物騒な」
渋い顔をする龍樹。今の話だと被害にあってるのは家畜だけらしいが、それが人間に及ばないとも限らない。もしかしたら、警官達に追い払われた人達はそれが原因なのかも、と漠然と考えた。
ミシェルの家に到着すると、家の明かりは点いていた。
やはりまだ起きているようだ。
「ああ、おかえり。えらく遅かったね」
机の上に置いたおつまみを肴に酒を飲むミシェルがいた。対面には夫であるダニエルが座っていて、彼もこちらを振り向いて恐らくミシェルと同じであろう何かを言った。
今はどうやら、夫婦憩いの時間だったらしい。
風呂から上がったままの格好なのか、ミシェルはTシャツにショートパンツという自棄に軽装だった。中は外に比べ暖かいとはいえ、その格好はどうかと思う。
言ったところでどうせ言葉が通じないから、龍樹は押し黙ってただミシェルを見ていると。
「で、悪魔は取り祓えたのかい?」
ミシェルは何かを言った。
翻訳頼む、と龍樹はアテナを見る。
悪魔は取り祓えたのかだって、とアテナは教えてくれた。それから、多分、それについての答えをミシェルに説明し始めたのだろう。
アテナがイタリア語でミシェルと話す。
「やっぱり、ある程度の時間は掛かるみたい」
「そうかい。まあこちらは何日いても一向に構わないよ。この子達にも言ってやってくれ。気は使わなくていいから、て」
「言っておくわ。旦那さんも……しばらく世話になるけどよろしく」
「ええ、構いませんよ。なにより賑やかで楽しそうだしね」
本当に嫌な顔一つせず、ダニエルは笑顔すら見せた。
「それにミレーナも喜びそうだ」
「……彼女はもう寝たの?」
「なにせもう一時過ぎだからね。部屋で寝かしつけたところだ」
「そう……それじゃ私達も寝る事にするわ」
アテナは龍樹達へと向かい合った。
「今日はもう遅い。寝室に行きましょうか」
「ん? ああ、そうだな。なんか身体が疲れてるから、俺も眠いわ」
正確にいうと寝室ではなく、物置なのだが。
まあ贅沢は言えまい。
寝室の場所は先にミシェルから指定されている。雀も雀で眠いのか大きな欠伸をしていた。
「それじゃもう寝るか」
ダニエル夫妻に一礼し、龍樹達は二階へと上がる階段を目指す。
先頭を切る龍樹。次の雀も部屋からはけた。最後のアテナははける手前、
「悪かったわね。起きさせていて」
これだけは言っておきたかったといった具合に、ダニエル夫妻に述べた。その言葉に対しての反応を窺うことも無く、アテナも部屋を後にする。
「……とても見えないね。彼女がそんなに凄い人とは」
皆が部屋を出たのを見計らって、ダニエルがぽつりと呟いた。
「だろ。まあ素性は不明なんだが、結構その手では有名な話さ」
グラスに入ったグラッパを飲み干すミシェル。
それは彼等が戻ってくる直前までしていた話。裏世界に置いての都市伝説じみたものを肴に話をしていたのだ。
「なんでも相当な実力があるらしいぞ。本当かどうか知らないけど、どっかの国の重役を絶体絶命の状況の中護衛し通したり、中東のテロ組織の武器製造組織を一人で壊滅させたり」
「はは、組織を一人でって、まるで漫画みたいだね」
「まあ、あくまでも噂だからな。何せ裏世界に置いての業務は同胞であれ秘匿。事の一端を抜き取って誇張される事だってあるからね」
「つまり君みたいな人が多いって事かい」
「はは、言われちゃった。イタリア人はお喋りだからなあ」
頬杖を付き、苦笑い。おおらかな性格が実はコンプレックスなミシェル。それを愛する夫に指摘されたとあっては、ちょっと傷つく。
それを汲み取ったのか、優しい性格のダニエルはテーブルの上を片しながら、
「さあ、僕達ももう寝ようか」
優しい笑顔で、そう言った。




