相談
四月七日 金曜日 PM4:00
世間はすっかり夕暮れ時。
龍樹は高校生という職務を終え、帰路に就くところであった。
右手には行使率が低い学生鞄が携えられている。
朝色々とバタバタして少し学校に行くのが遅れた事もあり、眠たそうにあくびをしながら、
まだ居んのかなあの女? と学校に遅刻した間接的な原因の女を思い出す。
(……やっぱ気になる)
なんだかんだ言ったものの、アテナなるあの女の事がまた脳裏を過ぎる。
一度は踏ん切りをつけたが、龍樹はまた蒸し返す。
(昨日の夜出て行ってから朝まであいつはどこで何をしていたんだ? ……昨日の出来事が関係してるんだろうがさっぱり分からん)
考えても無駄だと分かっていても、考えられずにはいられなかった。
それに二年前から行方不明になっている父親についても、もう少し訊いてみたい。
どんな些細な情報でも構わない。幾らなんでも、知っているのがあれだけということはないだろう。
それでは乏しすぎる改め、虚しすぎる。
(……もう一度だけ訊いてみるか)
転がり込んできた、二年前から行方不明になっている父親の手掛かりを。
自分の為でもあるがそれよりも、父の情報について恐らく問い詰めていないであろう人が良すぎる母と妹の為。
二人とも一見して無関心を装っているが、そうではないだろう。
元が神職者だったのが関係してるのかは知らないが母はどうも人が良すぎる。迷える子羊を救うとかそんなつもりはないだろうが、それにしたって交換条件で聞いてもいいと思う。
崇子だって距離を縮めようとはしているだろうが、昨日のアテナの対応を見るに、そう易々と踏み込むのは難しいだろう。
とにかく、
相手にも事情があるのだろうがこちらにも事情がある。
龍樹は心に誓う。
あの二人の為にも、自分が心を鬼にしてあの女を問いただしてやる、と。
「おや、誰かと思えば龍樹ではないか」
ふと、明るい声と同時に横から覗き込むように顔を出してきた女が現われたのは、そんな時だった。
唐突だったので少し不意をつかれた龍樹だったが、
「ゲッ」
その少女の事を、彼は知っている。
前髪を装飾豪勢な金のスリーピンで留めており、肩に掛る程度のショートヘア。太眉の下に携わる大きな瞳にはいつも絶対的な自信が満ちており、今も腰に手を当てていて堂々としている。
一般で言う所のボーイッシュと呼べるであろう容姿の人物は、千石雫という名の女。
目を引く豪奢な金色の髪留めをチラチラと反射させつつ、彼女は口を尖らせていた。
「ゲッ、はないだろ。さすがの私でも傷付くぞ」
「ん? ああごめん、つい」
つい、顔に出てしまったと反省する龍樹。
とはいえもちろん彼女が嫌いな訳ではない。
先の展開で分かったと思うが、ちょっと口うるさい女なのだ。
関係こそみれば他よりも仲は良い部類に入るのだろうが、基本的に彼女とは学校でそうそう会わない。
現に今日もこれが初見だ。
恋人でなければクラスも違うのだから、それは当たり前なのかもしれないが。
「で、何してんだこんな所で?」
彼女の帰宅路ではここは通らないはずだったのでそう訊いた。
今日は用事があるからと言ったのは昨日の事だ。
もしかしたらそれがなんらかの理由でお流れになったのだろうか? と龍樹は勘ぐる。
だとすればまずい。
今はまだ五時過ぎ。このまま勉強会に流れ込んでしまうのではないか、と割かし本気で危惧した龍樹だったが――
彼女が手にするものを見て、全てを察した。
「……そうか、今日は」
雫の手には花束が握られていた。
種類豊富で彩り鮮やかな花達は、
「ああ――両親の命日だ」
その為のお供え花。
「年月とは早いものだ。あれからもう十年だもんな」
まあ両親との疎遠はもっと長かったんだけど、と強がった笑みを浮かべながら、そんな皮肉を口にする雫。
彼女なりに、それに関しては過去の笑い話と割り切りたいのだろう。
雫は今から十年前に、両親を亡くしているのだ。
「それで今から墓参りか?」
「ああ。一人娘が他人と同じ扱いで接するとなれば、あの二人も報われないだろからな。だから今日はお前の勉強は見れないという訳だ」
「そうか。それは残念だ」
「全くだ。もしかしたら居残って自分一人で復習でもしてるんじゃないかと一縷の望みを抱いていたんだが……その様子じゃあては外れたな」
「もちろんさ」
「威張るな」
なんの悪びれも無さそうな顔の龍樹に切言した雫。
いつもの事だと半分諦めているが、半分は諦めていない。
片手で花束を持ち、片手で頭を抱え、
「はぁ……毎度の事ながら先が思いやられるよ。お前は昔からそうだ。自分に無頓着というか、周りに無頓着というか。まだ我がある訳ではないのが救いだが。……人は所詮他からの影響を受ける事はできないとはよく言ったものだ。だがお前はもうちょっと順応というものを持ってもらわないと困る」
「……分かってるよ」
「いいや、分かっていないな。分かっていないから勉強もしないんだ。ちゃんと成績の悪い生徒の為に放課後に勉強教室を開いているのは知ってるだろ。まあお前は付きっ切りで教えないと絶対覚えようとしない訳だが……前にも言ったように、まずは気持ちからだ。いいか龍樹。誰かに何かを言われるようじゃ駄目なんだ。何事も自分から働きかけていかないことには成長しない。考える脳を持って、成し遂げる行動力を持て。私だっていつまでもお前に構っている訳にはいかないだろ。人が敷いたレールはいつかは途絶えてしまうんだぞ。なのにお前と来たら――」
いつものようにぶつぶつと小言を垂れ始めた雫。
まるで親戚のおばちゃんだ。
結構な付き合いの龍樹には分かる。
こうなってしまった彼女は、放っておけば小一時間は話続ける。
だから止めなければ。
「本当に分かってるって、お前の言い分は。ただ今はちょっと個人的な問題を抱えていてな。だからまずそっちを片付けない事には気が散って勉強できないんだよ」
龍樹の反論に、口を開けたままとりあえず言葉を切った雫。
馬鹿が何か言っていると言いたげに龍樹を睨み、
「また屁理屈を。なんだその用事とは」
「それがよう。昨日朝方に現れた謎の女の話しただろ。あの女が俺の家に今居座ってるんだよ」
「……何?」
逞しい眉を曲げる雫。理解力がある彼女にも、すぐに受け止めるのは容易ではないようだ。
「だから、昨日の謎の女が今家にいんだよ。なんか外人らしくてな。朝まで帰ってこないわ鳥が喋るわもうなにがなんだか」
「……ゲームのし過ぎじゃないのか?」
「違げーよ」
ぽかんとした様子の雫に、龍樹は語気強く反論した。
と同時に無理もないかと納得もする。
「んで、そいつが父さんの知り合いだっていうんだが……事それに関しては秘密。おかしいと思わないか?」
「父さんって……二年前から行方不明になってるっていうおじさんの事か?」
「そう」
行方不明だなんて世間体にもあまりよろしくないので、周りには父が浮気して別居しているという事になっているのだが――そっちの方がどうかと思うが――雫には行方不明だという事実を伝えている。
まあ本当は浮気と話してそのあまりの同情ぶりに龍樹の良心が耐えられれなくなったという顛末があるのだが、それはそれとして。
「ふーん。それは確かに妙だな」
「だろ」
「もしかしたら新手の詐欺かもしれないな。どこからか父親が行方不明だという情報を得て家族に取り入り、貴金属などの金目のものを」
「い、嫌な事いうなよ」
いや、ほんとに。
真剣な顔してそんなありそうな話をされると心配にもなると、龍樹は変な汗をかく。
「まあ一応それは脇に置いとくとしてさ。そういう事情もあって、今は勉強どころじゃないんだよ」
「……果たして理由になっていると言いがたいが」
勉強はしたくないのでいい口実だとは思うが、一応は事実なので悪びれる様子のない龍樹に、そんな彼を勘ぐるような目で見る雫。
確かに家族の安否が掛かっている状況では勉強にも身が入らないだろう。
ただ、だからと言って安易に首を突っ込んで人生に置いて重要な時期を棒に振るのもいけないと雫は思う。
そしてそれを本人は分かっていないようだから、ここは友人の自分が正さねばと、世話好きな雫は妙な使命感を覚えている。
それに、
「どの道明日はしなくちゃいけないんだしな」
と、それは最早決定事項だと言わんばかりに雫は呟いた。
反論は受け付けないといわんばかりの言葉遣いだ。
彼女の顔を真正面から見据え、龍樹は否定できない現状に不満げな顔をする。
勉強なんてなぜしなければいけないんだろうかとさえ本気で思った。
ただ、不思議とこの女の言う事には間違いはないと思えるのは、やはりその立ち振る舞いと器量に触れてきた身だからだろう。
何をするにしても迷いが無く、道筋がはっきりとしている。
先を見ずにその場その場で動く自分とは大違いだと、龍樹は出会って何回したかも分からない感心を目前の女に抱く。
「あ、そうだ。なあ雫」
ここでふいに閃く。何をするにしても迷いが無く道筋を立てられるこの女なら何か良い方法を知っているのではないかと思って、龍樹は訊いてみる。
「もし秘密を抱えている人間がいて、その人間の口を割らせたい時、お前ならどうする?」
「……秘密?」
何気ない質問に対し、雫はまた勘ぐるような眼になった。
それに少しだけ気圧される龍樹。
それが父親の事について訊きたいという思いから来るものだというのは、彼女のような察しの良い人間でなくとも理解した事だろう。
ただ、雫は元よりあまり人の腫れ物は突かない主義。
彼の父に対する心中を慮ったのかそれ以上は何も訊かず、質問にだけ答えようとしてくれる。
「口を割らす、ねえ……生憎とそういった境遇に立たされた事はないからなあ」
「そう言わずに。なんかないのかよ。心理なんちゃらでもなんでもいいからさ」
「そんな都合のいいものなんてあるものか。秘密にしたいという事は何かしらの後ろめたい事があるからだろ。そうそう吐く訳がない」
「そりゃ分かってるけどさ……だけど、なんかあるだろ」
「なんだ、なんかって」
投げやりな龍樹の態度に、相変わらずだなと雫は表情を曇らせた。自分で努力しようという気がまるで見受けられない。
それでも一応の答えを探した辺りは彼女らしい。
「基本的にそういうのはとやかく訊かない方がいいとは思うが……そうだな。やっぱり一番効率的なのは親しくなる事じゃないか」
「……親しく、か」
その言葉を脳内で巡らせる龍樹。
だが正直、その程度の事に考えが及ばないほど頭が悪い覚えはない。
実際仲良くなろうと何度も話し掛けようとしたし、ゴマでも摺ろうかと試みた時もあった。
ではなぜうまくいかないのか。
簡単なことだ。
必要以上の事は語らず、なんだかんだで常に壁を作っている。
だから下世話な話をする糸口が見つけられないし、何か気の利いたことをしようとしても体よく断られてしまう。
そう。
今回に置ける一番の問題点は、あの扱いにくいアテナという女の性格なのだ。
「後は精々嗅ぎまわるって事ぐらいじゃないか。私はお勧めできないけどな」
「……なるほど」
その手があったかと、龍樹は盲点に気づいた。
「だが、やっぱりあまりいい手とは言えないぞ。だから本当に必要な場合に限られる窮余の策だろうな。誰にでも秘密にしておきたい事はあるものだ。それにその女が危険なのかどうかも分からない以上、詮索し過ぎて妙な事に巻き込まれかねないしな。言っただろ、妙な事に首を突っ込むなと」
「分かってるよ」
本当に分かっているのだろうかと思わせる即答。
その表情も特に何かを感じてる様子もない。
「……お前本当に分かってるか?」
「わ、分かってるって」
雫の勘ぐるような視線に、龍樹も思わず苦い顔をする。
その視線から逃れるように、何気なく辺りを見渡す。帰宅する時間なのか人の数が多くなっていた。空もぼんやりとだが夜の気配が漂ってきている。
「墓参り、行かなくていいのかよ」
忘れている訳ではないのだろうが、あまり暗くなると灯りの少ない墓地は足元もおぼつかない。
雫は腕に抱くお供え花を持ち直し、左手首に内側で付けている時計を見た。
「そうだな……そろそろ行くか」
ぽつりとそう漏らすと、龍樹へと向き直る。
そして険しい屈託顔をする彼女は、最後に言うのだった。
「いいな。お父さんの事が心配なのは分かるが、相手の素性が分からない以上、あまり出過ぎた真似をするな。それと、明日の放課後は何が何でも空けておけよ」
「分かってるって」
「本当に、本当に分かっているのか? お前はなんでもハイハイ言ってれば済むと思っている節があるからな」
「……疑い深い奴だな。本当に分かってるってば」
全く持って信頼感ゼロのご様子。
まあ前科がない訳ではないので、仕方がないといえば仕方がないのだが。
それにしてもと龍樹は思う。
毎度毎度、この女はなぜここまで他人の事を想えるのだろうか、と。
「安心しろ。明日は絶対に空けておくから」
「本当だな」
「ああ、本当だよ。だからほら、さっさと行けよ。あんまり遅くなると危ないぞ。他人の事ばっか考えてないで、お前もたまには自分の事も心配しろ」
「なにを偉そうに」
雫は皮肉気に笑った。
「そういうのは心配させているお前が言う言葉じゃないんだよ」
「表現の仕方は自由だろ。言っとくけど本当にそう思ってるんだぞ。お前は気にしすぎなんだよ他人の事を。見捨てろとまでは、世話になっている以上言わないけど、あまり手を伸ばしすぎても駄目だろ」
「分かった分かった。肝に銘じておくよ」
言葉を途切らせた雫。他人にはやいやい言うくせに、自分の事は言われたくないらしい。
雫は持ち前の友好的な笑みを顔に浮かべながら、
「じゃあまた明日な」
と手を上げた。
「ああ、また明日」
龍樹もひらひらと、最早形だけの手を振る。
別れの挨拶を済ますと、雫は踵を返し人混みの中へと向かっていった。
しばらく遠のいていくその背を眺める龍樹。
やがて雫は人混みに消え、姿が見えなくなる。
それを確認した龍樹はふぅ、と息を吐き、頭を掻く。
千石雫は徹底された如才ない。それは彼女を知りうる人間なら誰もが認める事だろう。
テストは常に上位だし、友達だって数えられない程いるし、そんな才覚の持ち主だから異性にもそれなりに人気がある。
学問に置いても私生活に置いても欠点といえる欠点など見当たりもしない人間。
まさに人生の成功者進路驀進中。
前途洋々とは、彼女のような人間に作られた言葉だろう。
だが、
「……」
その根幹となっているものを知っている龍樹に取っては、いつも複雑な心境を抱いてしまうものである。
「帰ろ」
しばらくすると、龍樹も帰宅を再開すべく踵を返した。
舗装されたアスファルトの上を一歩一歩、進んでいく。
やがて商店街へと差し掛かる。
夕暮れ時ということもあり、商店街は晩飯の材料調達をせんとする主婦や仕事終わりのサラリーマン達が大多数を占めていた。
その人混みを縫うように抜けていく。
と、
「ん?」
割と順調だった龍樹の足取りが不意に止まる。
大多数、という単語はほとんどという意味であって、全てという意味ではない。
彼の視界に飛び込んできたある気になるもの。
それは三十メートルほどの距離――結構な距離だが、現代社会、ましてや日本であんな浮いた容姿の奴はそうそういない為すぐ目に付いた。
銀色の冠。黒いリボンで蝶結びが織り成すツインテール。
間違いない。
あれは昨夜突如として家にやってきた、アテナという名の女だ。