優しい言葉
ゴガガガガガガガ!
どんな寝ぼすけでも起きそうな大音量の目覚ましに、龍樹は脳を揺さぶられた。
スイッチを止めるべく頭上の時計へと手を伸ばす。慣れた手捌き。
端的に見ずともアラームの息の根を止めるボタンを一発で仕留めた。
そして渋々といった具合に、身体を起した。
不本意感丸出しの顔のまま立ち上がり、寝巻を脱ぎ終えると箪笥に掛けてある制服一式へと手を伸ばす。
まずはズボンを穿き、次にカッターシャツを着る。ベルトを装着し終えると、今度はネクタイを巻いた。
最後にブレザーを羽織り、ボサボサの寝癖を手櫛で整えていると,
ぎぃ、と、部屋のドアが誰かによって開かれた。
龍樹はそちら側へ目をやる。
金髪碧眼の女が、眠たそうな顔で中に入ってきた。
眠たそうと形容したが、彼女は会った時からずっと眠そうなので恐らくはそういう目付きなのだろう。
そこにいたのは紛れも無く、昨夜に用事があると外出したアテナだった。
「……おはよう」
寝起き感丸出しのローテンションで挨拶した龍樹。
おはよう、とアテナもそれに倣った。
寝起きではないのだろうが、こちらもいつもながらのローテンションだった。
アテナは壁際へと歩み寄って、そこに背を預けしゃがみ込む。
そんな彼女の頭には、例の喋る鳥が乗っていた。
カッターシャツのボタンを掛けようとしていた手を止め、龍樹はその鳥を注視する。
その鳥は視線に気付いたらしかった。
「なんだよ。俺の顔に何かついてるか?」
「……いや」
やはり、聞き間違いではないようだ。
鳥が喋る前提で見ていたので差ほど驚きはなかった。
だが全く疑問が無い訳ではない。
世の中に言語を喋る鳥は少なからず存在する。しかしそのどれもがぎこちなく、喋っているというよりかは真似しているんだなと思えるような語り口だったはず。
それを考えれば、ここまでペラペラというか人間の言語というものを理解している鳥を見た事はもちろん聞いた事もない。
というか。
まず前提としてこの鳥はなんという鳥なんだろうかと龍樹は疑問に思う。
全身が高級な羽毛布団のような白毛で覆われ、目は渦巻状でオレンジ。
大きさは街で見かける鳩くらいで、結構良いものを食っているのだろう。やんわりとデブだった。
初めて見る鳥に興味津々になりつつもボタン掛けを再開させる龍樹。喋れるのなら自己紹介しろよとも思わんでもないが、鳥が相手とはいえ強気でいけないのが彼の性分。
ただ、そんな龍樹の顔を見て心中を感じ取ったのか。
アテナは鳥に対しこんな事を言う。
「パートリッジ。挨拶なさい。世話になるのに、彼に失礼よ」
ぱーとりっじ。
鳥の名前だろうかと龍樹は考えた。
どうやらそれは当たりらしく。
おおそうか、と言った鳥は遅ればせながら自己紹介をする。
「悪かったな。俺の名はパートリッジ。見た目通り梟だ。まあ姐さんのペットみたいなもんだ、よろしくな。ちなみに好きな食べ物は緑黄色野菜だ」
なるほど。見た目に似合わずベジタリアンなのか、という感想を龍樹は持った。
(……いや、そんな事はどうでもいい)
アテナの時ほどひどくはないが、こちらも簡単な自己紹介だった。
別に構わないのだろうが、梟? と頭を捻る龍樹。
どう見てもそうは見えない。
そもそも梟という鳥は喋らないはずだ。
故に、この鳥はやはり新種じゃないのか、等という憶測を立てる龍樹だったが。
気になることは、他にもあった。
思い出したように身を竦めた龍樹は、一旦鳥の件を忘れそちらに思考を切り替える。
最後の一番上のボタンを留めつつ尋ねた。
「朝帰りなんて……今までどこ行ってたんだ?」
当然と言えば当然の質問。だがそんな至当がどうやらアテナに取っては煩わしいらしく、女は面倒臭そうに目を細めると、龍樹に視線を当てた。
返す言葉を考えていたのか、僅かな間を空けてからアテナはその質問に答える。
「散歩よ」
嘘付け、と、即座に否定を挟んだ龍樹。
「どこの国に八時間近く散歩する奴が居るんだよ」
子供でも分かるような嘘に龍樹も不満げな顔をする。
夜に出て朝方まで散歩だなんて、世界は広いのでもしかしたら居るのかもしれないが稀有なのは間違いないと思う。
ともあれ、龍樹の解釈をアテナはこう対処した。
「散歩よ」
相変わらずの抑揚の無さだった。
「……あのなぁ」
「本当に散歩なの」
「……」
龍樹の言葉を、キャッチ&リリース。
いや、キャッチすらしてくれない。
反射する感じ。
陰りすら窺わせない口調で決められたように言葉を返してくる彼女に、不満を禁じ得ない龍樹。
ご主人を守るという本能なのだろう。挙句の果てには、頭に位置取っている鳥が乱暴な口調で認めろだの何だの示威運動を展開し始めた。
二対一。なんかずるい、と龍樹は下唇を突き出しつつ、
「はいはいそうですか」
と盛大に不服を示しつつ諦めた。
アテナという女は相当な強情者らしかった。
まるでどこぞの寡黙な頑固親父の如く、恐らくどんな言葉を投げ掛けようとも、その虚偽丸出しの答えをリピートするつもりなのだろう。
それは下手をすれば擦れるカセットテープより性質が悪いかもしれない。
相変わらずの秘密主義なアテナ。
そんな彼女に対し、どうせこれ以上の追及を試みてもそれは徒労に終わることだろう。
そう結論付けた龍樹は登校の準備を完遂させていく。
カッターシャツのボタン掛けを終えると、今度はブレザーのボタンを留め始める。それを終えると袖のボタンに取り掛かり、身支度は徐々に整っていく。
そして曲がっていたネクタイを適当な調子で手直ししている時だった。
「悪いけど少し疲れたから寝るわ」
アテナが一応の断りを入れてきた。
一体何が悪いのだろうかと龍樹は不思議に思いながら彼女の方を見る。
女は部屋の入り口付近に座り込んだまま、目を瞑り始めていた。
「……そんな所で寝るのか?」
明らかに寝にくい体勢のアテナを見て、龍樹は言った。
性分と言えばそれまでなのかもしれない。だがもしかしたら、出来る限りの迷惑を掛けないようにと彼女なりに気を使っているのかもしれない。
しかし仮にそうだとしても、不器用であろう彼女はそんな事を口にしない。
「駄目かしら?」
やけに余所余所しさの感じる声音。
それはやはり迷惑を掛けられないという裏返しからくるもので、存外彼女が気にしいな人間である事が窺えるものだった。
「いや、別に悪くは無いけどさ。それじゃ寝にくいんじゃないかなって。何だったら俺のベッド使っても構わない、って思ってさ」
一方で自分の部屋という事もあり何の気負いもなくそう言った龍樹。
ただ女子とあまり接点が無い彼の事。今の素朴な優しさは一般的にどの様な感じで捉えられるかはあまり分かっていない。
もしかしたら無粋な案件だったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。
なんにせよ、答えが出ないので、
「嫌ならいいけど」
最後にそう付け加え、龍樹はアテナの返事を待った。
「……いいの?」
返ってきたのは改めての確認だった。どうやらその憂慮は彼女の場合であれば正解だったようだ。
「ああ、お前さえ良ければ別に構わないさ。持ちつ持たれつ困った時はお互い様。世の中は助け合うべきだからな」
そんな大したことはしていないし――というか、気を使うなら父さんの事を教えてくれてもいいのに、と龍樹は少し思った。
まあそれとこれとは別なのだろうと、とりあえず割り切る。
「ありがとう」
小さな声で礼を言うアテナ。
それに連なるように、「ありがとう。さっきはツンケンし悪かったな」と鳥が声を裏返し謝ってきた。
どうやら結構なお調子鳥の様であることが、そこからは窺える。
「いいよその程度の事ぐらいなら。それと、こそこそと何してるのかは知らないけど、只者じゃないにしたって一応は女なんだし、あんまり無茶はしないほうがいいと思うぞ。まあ、余計なお世話なんだろうけどな」
危険を伴う何か、と言われた訳でも、危難な状況を目撃した訳ではないがしかし、龍樹にはなぜかそう感じ取れた。
夜に出回り、その内容は秘密。
心配するのは当然と言えば当然なのだろうが。
アテナからの返事はなかった。
それでも龍樹は別に気にしない。
正直――しておいてなんだが、返って来るとも思っていなかった。
出会ってからの浅い時間でも、あれだけあからさまな態度を取られれば分かる。
彼女は答えられない事には極力答えないのだ。
「……ん?」
何気なく時計を見て、気付く。
龍樹は時刻を確認して肝を冷やした。
七時三十分。
登校時間に間に合うか間に合わないかの瀬戸際だった。
「やばっ」
焦りを口から漏らし、卓上にある学校指定の学生鞄を手に取ると、それから急いで外へと向かう。
「じゃあな」
ドアを開け騒々しく駆けていくそれに、アテナは軽く手を振った。急いで出て行ったので、彼女のその行為に彼は気付かない。
そして龍樹は、名前と住んでいた国の事以外は謎だらけの女と一羽を部屋に残したまま、慌しく学校へと向かっていった。
バタン、というドアが閉まる音。
部屋の主がいなくなった空間がやけに侘しい。聞こえるのは時計の秒針と外からの鳥の囀り。
「身に染みるな」
「……えぇ」
しみじみと放たれたパートリッジの言葉に同意するアテナ。
目を細めた。どこか申し訳なさそうだった。きっと人の温かみに触れる事に慣れていないのだろう。
その場で横になったかと思うと、まるで胎児のように蹲り、ゆっくりと目を瞑る。結われた金髪がカーペットの上で広がり、どこを駆け回ったのか服も少し汚れている。
だからかどうかは分からないが、龍樹から折角ベッド使用の許可を得ているというのに彼女はそれに身を委ねようとはついにしなかった。
それは潔癖症だとか負い目を感じているのが理由かと言われればそうとは限らないのかもしれない。
職業柄ぐっすり睡眠、という概念が、彼女にはそもそも無いのだ。
「早く目的を遂行しないと」
目を瞑りながら放たれたそれに、だな、とパートリッジは賛同した。