穏やかな旅客機の中で
「くしゅん」
暗がりが支配する空間で、誰かがくしゃみをした。
その人物は、くしゃみというごく一般的な反応にも、
「……変ねぇ。風なんてひかないはずなのに」
少し不思議そうな顔をして、そんな疑問を口にした。
その疑問に答える声。
「誰かが姐さんの噂でもしてるんじゃねーのか」
言葉遣いが少々乱暴だが、それを気にする様子もなく、言葉を放ったペットの主人は返ってきた答えに呆れたように息を吐いた。
「誰がするのよ、そんなもの」
「そりゃ姐さんを知りうる誰かさ。『アテナさん超可愛い』とか『アテナさんって何が好きなんだろう』とか」
「はいはい」
ペットの話を流すように受け答えしながら、姐さんことアテナは立ち上がった。彼女の頭に乗っていたパードリッジも、必然的に視点が上がる。
アテナは高さ四メートルほどの天井を眼だけで見て、
「……このコンテナ、少し寒いわね」
とぼやいた。
今度は今さっきまで自分がもたれていた搬送物へと振り返る。張り付けられている伝票には『生鮮食品』と書かれている。保存方法も『直射日光を避け十八度以下で保存』と注意書きされている。
「……そりゃ寒い訳ね」
伝票をひとなでし、そう言ったアテナ。
「なんだ、そんなに寒いのか? だったら裸になって俺を服にすれば良い。あったけーぞ」
「馬鹿」
ペットの下がかった腹積もりを慣れたように対処し、アテナは周りを見回す。
薄っすらと窺える搬送物達。その伝票には生鮮食品の他に『美術品』や『薬品』と記載されているものもあった。
どうやら彼女が忍び込んだのは、冷却や保温のユニットを搭載しているリーファー・コンテナのようだ。
温度は十七度、といったところか。
確かに、長袖とはいえミニスカートの彼女に取っては、肌寒い事だろう。
「概日リズムからすると……離陸後二時間ちょい、ってところかしら」
「ぐらいだろうな。ってことは最低でも後十時間……長いな。まあ幸いなのは、食料には困らねーって事だ」
「駄目よ。それは人様の物なんだから」
目を瞑り、アテナはまた先程と同じ位置へと座り込んだ。
「お腹が減ったのなら私に言いなさい。ちゃんと食べるものなら持っているから」
「……レーションのやつだろ。俺嫌いなんだよな、それ。確かに腹持ちは良いけど」
「なら我慢なさい。とにかく、痕跡を残すような真似をしちゃ駄目。後々が面倒なんだから」
「そりゃそうだが……後十時間。姐さんはつのかよ」
「当たり前よ。年寄りは時間には寛大なの。たかが十時間。一睡すれば、過ぎてしまう」
「……はぁ、ま、姐さんがそう言うんじゃ仕方ねーな」
あろう事か、主人の頭の上で虚脱したように体勢を崩したパードリッジ。干された布団のような格好だ。
もちろん、その程度でアテナは小突いたりはしない。
それを承知の上か、パードリッジはだらけた態勢のまま、
「にしても今回はツイてない事続きだな。目的を達成できたかと思えば、後見人とは音信不通。そしてやっとこさ合流できたと思ったら、あろう事かあの少年が悪魔に憑かれていただなんて――しかもそれは望みもしてない上での契約ときた。自ら望んでたってんなら、放っていたのにな……ほんと、どうやったらそんな事になるのかねぇ」
「愚痴っても仕方ないわよ。悪魔達は狡猾よ。人間を騙し、貶めるのが生業。騙された人間だって大勢いる」
「そりゃ分かっちゃいるが――仮にも敵として一度目の当たりにしてるんだぞ。そしてその醜い姿も見たはずだ。普通は近寄る事さえ忌避するけどねぇ」
「済んだ事は仕方ない。それに、元を辿れば私が根を絶たなかったのが原因なんだし」
「……まぁな。ただ、時と場所が悪すぎたんだよ、あれは」
ペットの慰撫する言葉にも、アテナは溜め息交じりに、
「そんなものは言い訳に過ぎない」
と言った。
そして右の膝小僧に顎を乗せる。長いツインテールが地面に着き、まるで顔を隠す黄金のカーテンのようだった。
右手を前で広げた。マニキュアの具合を見るような感じだが、彼女はそんなものをつけていない。
では、何を見ているのだろう。
「……なんだかんだ言っても、やっぱり私も怖いのよね」
それはきっと、
「世の中の流れから、脱線してしまうのが」
広げた五指の隙間から窺える、その先の暗闇の世界を見ているのだろう。
どんなに手を伸ばしても届く範囲は決まっている。
どんなに握ろうとしても、そこに何も無ければ、何も掴めない。
眼で見えるものが本質で――現実。
真実とはまた違った、目の前に広がる世界。
トリックアートしかり。下地に敷いた固定観念しかり。培った既成観念しかり、だ。
周りの目を常に気にし、周りの影響を受けて、周りの流れに乗って自分の世界は作り上げられていく。
恐らく、彼女は再認識したのだろう。
世の中の仕組みを。人間のちっぽけさを。これから先も生き続けてしまう事の――虚しさと恐ろしさを。
「……姐さん」
それは長年の付き合いを持つパードリッジこその言葉だろう。
「腐るなよ」
「……」
その言葉にどれほどの意味があるのかは、彼女達にしか分からない。
アテナは百年以上の歳月を生きてきた。楽しい事や悲しい事もあっただろう。普通の人に出来ない生き方だってしてきたのかもしれない。
そこからも窺えるように、可能性は無限大。
その言葉は何か一つの要点を指したのか、または、そもそも答えなど一つではないのかもしれないが、とにかく。
パードリッジの言葉に様々な思いを募らせたであろうアテナはやがて、
「……ええ」
と応えた。
そして溜め息。それは疲れたというより、何か途方も無い物事に出くわしたときの様な意気消沈を感じさせるものだった。
片膝を抱え、膝小僧の上に乗っていた顎をスライドさせて今度は額を乗せ、アテナはより一層丸まった。
目を瞑る。
心臓の鼓動を聴き、自分が生きている事を感じるように。
その存在意義を考え込むように。
アテナという人間そのものを、再確認するように。
「……嗚呼」
何か考え事でもしていたのだろう。ぽつりと、それに対して芽生えたであろう感情を、
「億劫な」
そうやって口から漏らし、アテナはまた眠りにつくのだった。
◆
「っくしょい!」
昼時の機内食が出され、『ビ―フorフィッシュ』と聞かれるのだろうと思い身構えていた龍樹だったが、どうやらこの機の航空会社はその方式を取っていないらしく、普通にメニューのようなものを差し出され『こちらからお選びください』と外人アテンダントさんに流暢な日本語で言われてしまい拍子抜けしながらも、ジャンルを選び、出てきた機内食を食べている最中、龍樹はくしゃみした。
口を押さえないものだから、隣にいる雀は嫌悪するような表情を取る。
「ちょっと、ちゃんと口を押さえてくしゃみしてくださいよ。こっちまで飛んできちゃうじゃないですか」
「んあ? ああ、悪ぃ」
「もう……駄目ですよ、ちゃんと体調管理はしないと。風かなんかですか?」
「わかんねえ。もしかしたら、誰かが俺の噂してんのかもな」
「あっはっはっは、面白いですね、それ」
なぜか笑った雀。
いや、何も面白くないと思うのだが……
多分、誰も龍樹なんかの噂をする奴なんていないのに本人が言うものだから、雀にはそれが自虐ギャグに聞こえたのだろう。
まあ少なからずその傾向はあったのだが、こうもあっさりと笑われてしまっては如何せん不快だ。
そもそもくしゃみをすると誰かが噂している、というのは何処から来た迷信なのだろうか? とふと思う。
前に雫がそれについて話していたと思うが……忘れた。
そんなどうでもいい事を思い返そうともせず、離陸から二時間半、何事もなく、起きる気配すらなく、順調にフライトを続ける機内で、龍樹は食事を進めていく。
「なぁ。今思ったんだけど」
昼食を終え、食後のコーヒーを啜りのみ、龍樹は口を開く。不意に浮かんだ疑問を、隣で同じくカプチーノを啜る雀に訊く。
「アテナが人権を取得できないのって、裏世界の住人だからか?」
「いえいえ、それは違います」
雀は狙っているのかどうか分からないが、口元にカプチーノ髭を付けながら言う。
「現に、私にだって人権は一応ありますから。もっと細かい話をすると、裏世界とはいっても、もちろんそこは異次元だとかパラレルワールドなどというものではないので、そこにいる人々の元は、同じ空間を共有している、言ってみれば普通の人々です。現にほら、私達だって、皆と同じ飛行機に乗って同じ場所に降りるわけなんですし」
「……ふーん。……って事は、『裏世界』ってのは比喩で使われてる感が強い訳だな」
「そうですね。裏という言葉は表から見えないという意味と、表を支えるという意味が含まれてますから。表裏一体ですよ……ああでも、何か最近、本当にもう一つの世界の扉が開けた、とか言ってました」
「なにそれ?」
「あ、しまった。……いえ、何もありません。今のは独り言です。気にしないでください」
と言って、顔を逸らした雀。
龍樹はそれを見逃さなかった(というか明らかに不自然な動きだったので気づかないほうが難しい)
しまったと言った以上、恐らく、最後のそれは口にしては駄目なワードだったのだろう。
「……」
気になる。
「おい雀。何だよもう一つの世界って」
龍樹のその言葉に、雀は向こうを向いたまま、
「も、もう一つの世界? ななな何に言ってるんですか、そ、そんなもの知りませんよ私は」
「……」
下手くそ過ぎるだろ、と龍樹は思う。
さっきの女優も真っ青の演技力はどこへいったのやら。
……分かったような気がする。
多分、許される嘘と許されない嘘のボーダーラインが彼女の頭の中にはあって、前者の場合、ばれても冗談で終わるから、なんの気負い無く嘘を吐けるのだろう。
後者は違う。ばれては駄目だと思えば思うほど緊張をしてしまい、もしかしたら見抜かれているんじゃないかという過度の心配性に陥ってしまい、焦ってしまうのだろう。
いうなれば本番にむっちゃ弱いタイプ。
よく聞く話では、そういうタイプの人間はどうしても失敗したときの事を先に考えてしまう後ろ向きな考えを抱くらしい。
(ま、およそ今はどうでもいいけど)
きっと今までたくさんの失敗をしてきて、そのつどお前は駄目な奴だとか怒られてきたのだろう。
天然はその名の通り天然。愛嬌だけでは裏世界は生きていけないと思われる。
極度のあがり症。
パワプロでいうところのチャンス×
可哀想な奴、と龍樹は思う。
でも加減なんてしてやる気は毛頭ない。
今まで散々振り回されてきた。積年の分も含めて(もちろんそんなに経ってない)、ちょっといじめてやる。
「いやお前今言ったじゃん。最近になってもう一つの世界が開けた、って」
「え? そんな事言いましたっけ?」
とぼける雀。もちろん、ここは予想通りだ。
「言ったって、俺は聞き逃さなかったぜ。で、何なんだよもう一つの世界って。教えてくれよ」
「教えてくれよって、そ、そんなもの知りまへんから教えられまへん」
「うん? 口調がおかしくなってるぞ、雀ちゃん」
龍樹が雀の顔を窺おうと近寄ると、雀はこれを嫌い背を向ける。
なんのこれしき。ここで退いては男が廃る。
「おい雀。こっち向けよ。お前は完全に包囲されてるんだぜ? 諦めて大人しく教えろ」
「嫌です。どうしても教えるわけにはいきません」
「という事は、言ったという事は認めるんだな?」
「は、しまった」
と言って、雀は剣幕で龍樹へと振り返った。
「図りましたね龍樹さん。人を騙すなんて、人として風上にも置けません」
「お前だって今言ってないって俺を騙してたじゃないか」
「なんと!?」
龍樹のちょっとした屁理屈も、雀は真摯に受け止めたようだ。しばらくのあいだ良心の呵責に苛まれるような間を空けた。
やっぱりこいつ面白いや、と龍樹も追い込みに拍車を掛ける。
「さあ早く言って楽になれ。開けたもう一つ世界ってのはなんなんだ」
「いや、それは、その……なんというか、ほれ」
雀が例のパニック状態に入った。
こうなれば勝ったも同然だと、龍樹は確信する。
「もう一度だけ訊くぞ雀。もう一つの世界とは、一体なんなんだ」
「えーとですね。もう一つの世界ってのはその……」
しかし、確信部まで後一歩、というところで、
「えと――やっぱりこれは教えられません!」
催眠を振り払うかのように、雀は少し声を張りそう言い、また龍樹に背を向けた。
おや、今回はどうも我慢強い、と龍樹もそのしぶとさには感心だ。
となってくると。
この超天然娘がこれほどにまで秘匿するその情報。
ますます知りたい。
「雀。おい雀。聞いてるのか?」
「……」
返事が無い。どうやら無視する作戦に出たようだ。
うむ、中々やるではないか、と龍樹は称賛する。
だが、
「いいぜ。そっちがその気ならこっちにも考えがある。――いいか雀、よく聞け」
「……」
気になったのか、無言のままちょっとだけ首を捻って、こっちを向く雀。
そこをあえて言及せず、龍樹は雀に、
「もし話す気が無いのなら、話す気になるまでお前をこしょばすぞ」
そう、宣言した。
それを聞いた雀は
「……」
ふん、とまた龍樹に背を向けた。どうやら、その程度で話すわけが無いでしょ、とでも言いたいようだ。
あるいは、出来るものならやってみろ。と。
「……ふ、ふん」
上等だ、と龍樹は鼻で笑った。
これは昔崇子から数々の情報を引き出してきた秘伝だ。
親から女の子だから殴っちゃ駄目だと口をすっぱく言われ続けてきた為に生まれた抜け道。
崇子の奴は今やると本気で怒るから長い間封印していたが、どうやらここいらで解禁する必要があるようだ。
「いいぜ雀。後悔するなよ。俺のくすぐり攻撃、耐えられるものなら耐えてみろ――それ」
「きゃん!」
そっぽを向く雀の両脇に手を突っ込み、宣言通りくすぐりに入った龍樹。そういえば前に敏感肌とか何とか言っていた。どうやらそれは本当のようで、まだこちょこちょもしていないのに感じる辺り。感度は良好の様だ。
雀はびくっと身体を震わせ、なんとか逃れようと必至に抵抗している。
上体を屈めた。そうはさせまいと、龍樹も雀が動いた分と同じ距離を動く。背後から覆い被さるような形だ。
そんなこんなで、始めは声を必至に堪えていた雀だったが、
「――くふふふ」
耐え切れず、やがてその感情が口から漏れる。後は堰を切ったように、
「あは、あははは! ちょ、ちょっと龍樹さん! タイムです、ハーフタイムです! きゃはははははは! あ、ちょ、そこは駄目です! んん――ちょ、ちょっとほんとに」
急に、いやらしい声を出し始めた雀。
心が折れるのも時間の問題の様だ。
「ほれほれ、さっきまでの威勢はどうした雀。おや、どうやらここが一番感じるらしいな明智くん。さぁさぁ早く吐いて楽になれ」
「だ、誰が教えるものですか――あ、んんん!」
段々抵抗が薄れてきた。どうやら力が入らなくなってきたようだ。
ここが勝負どころ。一気に――決める。
しかしなんだ、よくよく考えるとこれはセクハラになる気が……
よくよく考えては駄目だ、と龍樹は自分に言い聞かせた。
だって、これは雀が悪いんだもん。
「ほん、本当にやめてください龍樹さん。あっ、ん、いや、そうそこ」
「……」
息遣いが荒く、最早『感知』というより『快感』に溺れてしまっている雀の声に、不覚にも、ちょっと変な気持ちになってしまう龍樹。
いかんいかん。これより先は危険だ。この変でそろそろお開きにしないと。
そう思い、手を止めようとするのたが、
(……あれ?)
腕が言う事を聞かない。
おいおい何やってんだと龍樹は焦る。
指先の動きが明らかに微細になっている。手の位置も脇や脇腹から、段々危うい場所へと移っていく。
まさか、これが悪魔の力の仕業なのだろうか。
いや絶対違うけど。
(って、ちょっと待て! このままじゃ本当にいかん。いかんいかんいかんイカンイカンイカンIKANNIKANN)
誰か止めてくれ、と龍樹は思った。このままだと取り返しの付かない事を仕出かしそうだ。
でも。
少し考えても見る。
何がいかんのだろう?
そりゃ、一般的に『止めて』と言い張る女の子の要求を呑まずその行為を力任せに推し進めるのはいけない事なのかもしれないが……
それは周囲が作り出した固定観念に過ぎない。
だって、雀は現に気持ち良さそうだもの。彼女なら――弱っていたとはいえ、あの褐色の男を倒した彼女なら、本気を出せばすぐにそのくすぐり攻撃も取り払えるはずだ。
ではなぜそうしないのか。
それは彼女も、周囲から受けた影響が生み出した既成観念に捉われている被害者の一人だからなのかもしれない。
本当はもっとやってほしいけど、それは一般的に『貞操の緩い女』になってしまうと、強がってしまっているのかもしれない。
かわいそうに、と龍樹は思う。
周りの影響に縛られ、言いたいことも言えないこのご時世。
今目前でよがっているこの少女は、その犠牲者。
いいだろう。ここは一肌脱いでやる。
目前で苦しむ哀れな小鳥いや雀。彼女を救うために、あえて世界の流れに抗い、立ち向かってしんぜよう。
とか、まあ、そんな既成事実――いや間違いなく糞みたいな言い訳を自分の中で芽吹かせた龍樹だったが、
「……めです」
「ん?」
されるがまま状態になってしまっている雀の口から、なにやら声が聞こえた。それはとても小さく、龍樹の耳には到底入ってこなかった。
なので、顔を近づけ、
「何か言ったか、雀?」
もう一度放たれた言葉を訊こうとした、その矢先。
「も、もう駄目ですぅ!」
ふり絞るように声を張り上げ、話を訊こうと近づけた龍樹の顔面に思いっきり、
「ぐほおっ!!」
雀の振り返り様の渾身の拳が、突き刺さったのだった。




