小春日和の遭難者
アテナ達が家を出て二日が経った。
当たり前の事なのだが、自分の中では大きな変化だろうと、世の中とやらにはそんな影響は微々とも無い。
強いていうなら、
「ねぇ聞いた? 例の侵入者の件。噂では中東のテロ組織の人間だったんだって」
「うわぁーこわ、なにそれ」
「でさでさ、ここに進入した理由って――」
「うちの学校の風紀委員の合堂、見ないと思ったら侵入者に怪我を負わされて入院中らしいぜ。それも結構な重症」
「まじかよ。それってどうなるの? 学校の管轄問題?」
「親が色々と物騒だから早く帰って来いだってさ。全く、思わぬところで侵入者の余燼が響いちゃってるよ」
「あー私の所もだよ。ほんと迷惑だよね。来年の今頃はもう遊べないってのに」
まだ新築の匂い残る教室で飛び交う、様々な会話達。
本質的な変化はないのだろうが、流石に二日も経てば様々な憶測も飛び回る。
いつも思うことだが、噂というのは怖い。
発生源が分からない事も多いし、それが真実とも限らない。
ましてやそこに紫髪の女や茶髪の男の関連など知る者は皆無なはずだ。
所詮あれは、広大な地球の一部で起こった事に過ぎないと、そういう事なのだろう。
教室でいつも通り気だるそうに座っている龍樹はふと、斜め前方四席前を見た。
そこは千石雫の席だった。
彼女は今頃目的地に到着しているだろう。
アテナはイギリスとか言っていた。
そこでなにをするのか正確には分からないけど、なにかを取り出すとか、言っていたようないないような……
しかし、
(ま、気にしてもしょうがない)
持ち前の事勿れ主義で、龍樹はその件を忘れようとする。
「おい龍樹」
突然、前に座っている男子生徒が龍樹へと振り返りそう言った。
ん? と反応する。
「何?」
「お前、千石が休みの理由知ってるのかよ」
「休みの理由?」
つかみぐらいは知っているが、しかし、ここは下手に喋らない方がいいと龍樹は判断する。
「さあ、分からん。あながち、旅行かなんかでも行ってんじゃねーの」
「旅行? ……何処に?」
「いや、だから知らないって」
目前の生徒は自棄に難しい顔になっている。
何でだろう?
「というか、先生に聞けよ。なんで俺なんだよ」
「いや……お前の方がよく知ってるかなと思って。ほら、いっつも一緒にいるだろ、お前等」
「……一緒に居るっていうか、なんというか」
ただ出来が悪いから、つっかえて次に進めないだけだ。
それを男子生徒に伝えたら、
「あ、そうなの」
まるで、ただの興味本位で聞いたんだけどね、とニュアンスだけならそんな感じだったが、その顔はなぜかほっとしている様に、龍樹は見えた。
何でだろう?
「じゃ、別に交際している訳じゃないんだ?」
「こうさい?」
一瞬、目の中にある薄い膜の虹彩を思い浮かべたが、この場合はそんなものを求めていないだろうと判断し、そこでやっとそれは男女交際を指すものだと龍樹は気付く。
ふむ、交際。
あいつと俺が?
「有り得ん有り得ん。確かに尊敬する部分はあるけど、それは人間性であって女性としての部分じゃないよ」
「そうか、それを聞いて安心したよ」
「?」
なんだ、今の変な感じ、と、龍樹はクラスメイトの発言に違和を感じた。
それこそまるで――
(あ、そっか)
多分、このクラスメイトは雫の事を慕っているのだろう。
前にも述べたと思うが、人に骨身を尽くすという超献身的の持ち主である雫に感化され、その明るくも健気な性格や、中々の外見の良さに惚れる男も結構いる。
常に隣に置いておくとうるさいけど、そこも彼女の味の一つとして作用しているらしい。
だからきっとこの生徒は――いつも陽気でうるさい千石雫がいないのを寂しく思い。
そして――心配なのだろう。
「……」
端的に言おう。
千石雫は結構人気が高い。
この男子生徒からも分かるように、結局友達以上の関係を築こうにも築けない彼女の性格だからか、表面的にはそう見えずとも、彼女に片思いしたままの生徒は傍から見ただけで数人はいる。
今まで人を好きになった事がない龍樹にその気持ちは分からないけど、いらぬ心配はさせない方がいいだろうと判断した。
この男子生徒に取っても、雫にとっても。
「大丈夫だよ」
龍樹は平常心で言う。
「そのうちひょっこり現われるって。だからそんなに心配にならなくても大丈夫だと思う」
「ん? そうか。いやまぁ、別に心配ってほど心配じゃないんだけどな。ほら、物寂しいというかなんというか、やっぱり、居た方が、な」
「……ああ」
その通りだ。
例えるなら、行灯のような存在。
暗い路で人の足元を照らす彼女の存在は、まだまだ必要とする人間が居る。
龍樹も含めて。
強いて言うなら、明るすぎるのが玉に瑕。
(……でも、ま)
いつまでも頼っている訳にはいかない。
それは以前から薄々と感じてはいた事。
まだ注意される辺りは助かる。本当に危険なのは誰からも諦められた時なのだ、と。
「ところでこれは噂なんだが」
ふと、男子生徒は話の脈略を変えた。
反応を示した龍樹はこんな言葉を耳にする。
「お前、先のテストの点数。半端ないくらいに低かったんだってな」
「ん? ああテストの事か?」
一般的な学校はどうか分からないけど、学力の底上げを必然的に求められるこの学校では、春休みの登校日とは別に設けられた出席日がある。
理由はテストをするため。
そこで休み中に怠けてなかったかどうかを調べるという腹だ。
もちろん、龍樹は怠けていた。
やろうかとも考えたが、せいぜい一ページほどが限度だ。
雫も幾度となくしにきてくれたが、その内容は二日も立てばびた一文残っていなかった。
故に、全教科ぶっちぎりの最下位を取るのは最早当然の事。
それなりの行いにはそれなりの結果が付いてくるのだ。
「そりゃまずいよ。藍原知恵に目を付けられたんだって」
「……まぁ、確かにちくちく言われたよ」
チクチクというより、グサグサ。
「でも、なんかもう一回チャンスくれるみたいな事いってたけどな。となると、今度のテストは一ヵ月後のか」
一ヶ月。
短いような長いような気もするが、まあ、雫が帰ってくるのが一週間後だとしてそれを差し引いても、後二十日ぐらいはある。
計算高いあの女はテストの問題文の要点をほぼ完璧に当てるから、そこだけを教えてもらえばまだ望みはある。
今度こそ本気でやればいい。
そうすれば藍原知恵に指導されるというこの難は逃れられるはず。
「ああ、一ヶ月の猶予ってのは、きっとそれ、千石に向けて言ってたんだと思うぞ」
「……どういう意味だ?」
男子生徒の言っている意味が分からず、眉を曲げる龍樹。
「だから、藍原知恵がお前に手を出せなかったのは、千石雫という女が裏で色々と細工してたからなんだよ」
「え? そうなの」
知らなかった。でも、よくよく考えてみれば矛盾は感じていた。
藍原知恵の的矛先が、もっとも成績の悪い男に向けられなかった事が。
「大方、成績優秀で将来有望な自分の立場を逆手にとって、千石が『自分には実績がある』とか『もう少しでなにか掴めそうなんだ』とか言って、どうにか堰きとめてたんだと思う」
「……ふーん」
なんだか、これ以上やっても成果が出ず、研究費が無駄になるから取り止めるというのをどうにか説得して引き伸ばす様な話に似ているが……
「というか、なんでお前そんな事知ってんだよ」
「え? ま、まぁこれも噂話さ。たまたまで聞いたんだ。たまたまな」
「……そうか」
そんな事が風聞になっているのか。
嫌だなぁ、と龍樹は軽く思った。
(う~んそれにしても困った)
龍樹は頭を悩ませる。
藍原知恵直々の指導。
一部では『窮余の手段は藍のムチ』等という諺が辞書に載っているとかいないとか。
(意味はよく分かんないけど)
校内だけで流布している言葉だ。
「で、どうするんだ?」
「どうするって……どうしよう」
そもそも藍原の指導がどこまでのものなのか分からない。
龍樹が聞いた話によると、まず家に誘い、それこそスパルタよろしくな教鞭を執るらしい。
覚えの悪い子はそのまま一週間勉強漬けにされたとか。
戻ってきた生徒はなにかに怯えるように、ひたすら机と向き合うとか。
どこまでが本当でどこまでが嘘なのか分からない、ある種の都市伝説。
そんなヤバイものが、わが身に降りかからんとしているらしい。
「……」
なんだか恐くなってきた。
今自分に言い聞かせたばっかりだってのに。
ドラえもんののび太くんだってもっと頑張ったってのに。
駄目なのは承知だが思わざるを得ない。
助けて雫。
「でも、ま、何とかなるだろう」
「何とかなるって……具体的根拠は?」
無い、と龍樹は笑顔すら浮かべて言った。
「別にいいんじゃねーの。頭良くしてくれるならそれはそれで。俺だってなれるもんならなってみたいし」
「……なるほど。これは千石も言ってた事だが、お前って本当に楽天的だな」
龍樹は自棄に雫の名前が出てくるなと思いつつ、
「羨ましいか?」
「そうだな。色んな意味で」
「色んな意味?」
「深く掘り下げるな。恥ずかしいから」
「?」
男子生徒の言っている事がよく分からないが……
まぁ、何とかなるだろう。
侵入者の件もそうだし、紫髪の女と茶髪の男の件もそうだし。
自分ががんばったところで世界の流れとやらには抗えない。
(雫が聞いたら怒りそうだな)
というか怒るだろう。
だがそればっかりはしょうがない。
がんばったって駄目な時は駄目なんだし。
みんな死ぬ時はどう足掻いたって死ぬのと同じ。
あいつの両親が突然――いなくなったように。
夕焼けが良い具合に染まる空。
学校も終わり、いつも通りの道をなぞる様に歩む龍樹。
(……それにしても)
龍樹は悩んでいた。
家に帰って勉強をするか、否か。
正直、誇れる事でないのは承知だが、自発的に勉強するなんてのは、最低でもここ一年はしていない。
(やっぱしないといけないのか? でもやるにしたってやり方が……ああもう、面倒臭いなあ)
珍しく思い詰めていた。
人通りが少ない道で腕を組み、深く項垂れ、葛藤を繰り広げながら歩を進める。
早い話勉強すれば済む事なのだが、したくもない学校に一応的なノリで入学して、頼んでもいないのにあろうことか天才学校と合併され、特にこれといって苦労もせず、学校で学ぶ事などどうせ役に立たないし忘れてしまうだろうと思っている人間にとっては、独習というのはとても勇気がいるイベントだ。
などとあれこれ考え事をし。
結局優柔不断のまま、龍樹は帰路の大尾に差し掛かった。
そこで、
「……」
彼の足が止まる。
別に何かを思い出したわけでもなく、勉強するか否かを取り決めるためでもない。
原因は簡単。
状況は難しい。
恐らく、様々な出来事が交錯する現代社会の中でも、それこそ褐色の男しかり、紫髪の女しかりに匹敵するほどの――衝撃的な光景が目の前に広がっていた。
不幸にも、周りには人がいない。
基本、街からは隔離された、精々この付近に用事がある人ぐらいしか通らないような場所なので別に珍しい事はないのだが、しかし、またしても、これでもかという程の危険フラグが、目前に立っている。
長く、熟考する龍樹。
目前には、何やら道のど真ん中で行き倒れになっている人間がいる。
とりあえず、なにかの間違いだと願い、目を擦ってみる龍樹。
……うん、残念ながら現実の様だ。
(うわぁ、マジかよ)
その人物はうつ伏せで倒れている。
生きているのかすら分からない。
正直言って、危険な香りしかしない。
そして、龍樹はしばらく考えた挙句。
放っておこうという見解に至った。
(家に帰って勉強せねば)
逃げの理由を作る。勉強するか、面倒ごとに巻き込まれるか、そんなのどちらの方がマシかを考えると、答えなど明らかだ。
それに勉強は藍原対策にもなる。
時間帯だって遅くわないし、きっと誰かが通りかかって助けてくれるさ。
そう結論付けた龍樹は歩みを再開した。
難儀な事に、帰宅するにはそのへんてこな奴の所を通らなければいけないのだが、どうせ誰も見ていないだろうから、非人道的だとか冷徹だとか近所で評判になるような事は、幸いにもないだろう。
面倒ごとは回避できる。
わざわざ自分から地雷を踏む事もあるまい。
(……いやいや)
とはいえ、ここまでどうにか現実逃避に走ったが、流石にそういう訳にはいくまい。
うつ伏せの人物を通り過ぎちょっと歩んだところで、龍樹は足を止める。
そして存分に面倒臭そうな顔をして、踵を返す。
歩み寄る。
関わりたくない面倒ごとへと。
近づいてみると、背丈からしてそれほど大人ではない事に気付く。
服……というより、全身が茶色でコーディネートされていて、それは被っているキャスケットにも当て嵌まる。
顔はうつ伏せなので窺えない。温暖な気候になってきたというのに、上はスウェット、下はボトムスという何とも暑苦しく洒落っ気一つ無いそのナリからしても、男なのか女のかすら窺えない。
「……あのー大丈夫ですか?」
恐る恐る声を掛けてみる。
すると。
ぴくっ、と指先が反応した。
そしてうつ伏せのまま一言。
「み、水を」
「……」
「水と食料と休む場所を」
「……」
やけに欲張りな奴である。しかし、衰弱しているのか声にも力がないけど、その声色からしてどうやら女のようだ。
というかとりあえず生きている。
それなら、
「えーとこういう場合は警察警察」
携帯を操作し、110のボタンをプッシュしようとした矢先、
「警察は駄目です」
と、遭難者はうつ伏せのまま言った。
「駄目って……」
操作する指を止めたまま、
ますます怪しい、と龍樹は警戒する。
「お願いです。警察には連絡しないでください」
「……なんで?」
なんでもです、と、遭難者は言う。
そしてもう一度、
「どうか、水と食料と休む場所と湯船を」
「増えてんじゃねーか」
一応のツッコミを入れ、龍樹は再度考え込む。
今言った要求は用意しようと思えば用意できるのだが、
(警察には電話しないでくれっていうのがなぁ……)
ネックとなるのはやはりそこだろう。
警察を呼ばれるとまずいのなんて、大概は悪者である。
(……まあ、見た目だけで言えば、そうは見えないんだけどな)
タイトルは忘れたが、昔の作品に、追ってから逃げてきて行き倒れになっている所を助けられ、そこから笑いあり涙ありの大冒険が始まるストーリー、なんてのがあったけど……
(こいつがそれだってのか?)
全身茶色のこいつが。
「……」
まあ、ここで考えを巡らせても仕方がない。
一にも二にも、まず話を聞いてみないことには如何様にも出来まい。
そう思った龍樹は、とりあえずこれも人助けの一環として助けてやるか、と、そう結論付けた。
話を聞いた上で警察に突き出すのも有りだろうし。
どっちにしても。
まずは家に連れて行かねば。
不幸中の幸いか、または不幸の連鎖か、自宅はすぐそこである。
「立てるか?」
「……」
うつ伏せのまま、その遭難者はぶんぶん、と首を横に振る。
それが意味するのは『無理』だ。
(……本当かよ)
そう思っては見るものの、今に至ってはそれを確かめる術はない。
しょうがないなぁ、と龍樹は内心でぼやいた。
「ほら、家すぐそこだから、がんばって」
肩を貸して起き上がらせようとする龍樹。
やはりまだ子供だった。といっても、龍樹よりもちょっと幼いくらいの――中学生くらいか、あるいは同い年かの、微妙なラインだ。
顔はやけに可愛らしい。弱っているという精もあるのか、小動物のように全体的におっとりとしており、よほど衰弱しているのか、今に至っては目もうつろ状態である。
こりゃ結構重症だ。
「よし、いくぞ」
遭難者のほうが身の丈低いので、若干歩きにくい。
おんぶした方が効率的なのかもしれなかったが、家は本当にすぐそこなのでいちいちそれに方針転換するのも面倒臭かった。
そして龍樹は、
謎の遭難者を家へと招きいれたのだった。