三
龍樹達は家に辿り着き、玄関へは上がらず庭へと直行した。
荒れている。
破壊された窓の残骸はそのまま散乱し、日頃手入れしている芝草もなにやらへたれ込んでいる。
そこに茶髪の男もいなければ、母親もいない。
(……まさか)
龍樹は嫌な予感がした。彼の後方にいる雫も、その惨状を目の当たりにしてただならぬ何かを感じている。
そんな中、ほんのわずかだが、
ごと、と家の中から音が聞こえた。
咄嗟に龍樹は反応した。音源がなんなのかは見当もつかないが、気が付けば家へと土足で上がり込んでいた。
割られた窓口から家へと入室する。上がり込むとき、靴の裏で硝子の砕ける音がしたが龍樹は一切気にしなかった。
それよりも、何よりも、母親の事が心配だった。
厳しい面もある母だけど、常日頃から自分の子供の事を誰よりも考えてくれているであろう大切な存在。
父親がいなくても弱音を一切吐かず、気丈に振舞ってきたであろう母。
万が一危険な目に遭って、それこそ命を落すような事になれば、そんなのは考えるのもおぞましい。
しかし、あの茶髪の男と対峙して、ただでいられるわけがない。
昔はその筋ではかなりの達者みたいだったけど、それも聞けば十何年も前の話らしいし、何よりも、多分それは霊能力的に長けているといった具合だろう。
という訳で、心配だ。
茶髪の男が居るかもしれないとか、そんな考えに至れないほどに狼狽する龍樹は、家の中で母を探す。
居間へと辿りついた。襖が閉まっているので中の様子は窺えない。なので、龍樹は遮断する襖を乱暴に開けた。
だが、そこに母はいなかった。
本当にいないかどうか、念のため部屋の端から端まで眼だけでくまなくチェックする。
……いない。
「どうだ、龍樹」
いつの間にか背後に居た雫が訊いた。
「……いや、いない」
龍樹が雫に答えを返した時だった。
龍樹の後方、更には雫も越えて、
ごと、とまた音がした。
どうやら発生源はリビングの方からだ。
龍樹は即座にそちらに向かう。
「あ、おい!」
その勢いに押され横合いへと道を開けた雫は、忙しく動き回る男にどうにかついていく。
そして。
音の発生源はリビングの部屋で間違いなかった。
ごそごそと音がする。
対面式キッチンなので下のほうは見えない。姿は窺えず、なにかを漁る音だけがする。
龍樹も流石に此処は息を呑む。
慎重に、恐る恐る近づいていく。心拍が上昇する。額に汗が出始めた。
ゴキブリやネズミという事はないだろう。もしかしたら茶髪の男かもしれない。そんな不安を抱き始める。
龍樹は満を持して、流し台の下を覗き込む。
そこに居たのは、
まるで他に見付からないようこそこそとお菓子を頬張る、自分の母親と子供二人だった。
「なにやってんだあんたは!!」
ある意味思いがけない光景に、龍樹は高らかに怒鳴った。それに対し十與は首だけを捻り、
「あら?」
と龍樹を見る。
「良かった、龍ちゃん、無事だったのね」
「……」
いやまずその口元に付いているの煎餅かしらのカスを取れよ、と龍樹は思った。
次に謎の子供の背を見る。子供達も母同様、お菓子を頬張っている様だ。
よほど集中しているのか、こちらを見向きもしない。
しかし、龍樹はその子達を知っていた。
「もしかして、みーちゃんとひーくんか?」
どうやらその見解は当たりらしく、かたわれの子供が首だけで振り返り反応した。その悪い目付きは間違いなくひーくんだった。
ひーくんは反応を示したものの、前を向きなおし、またお菓子を頬張り始めた。
相変わらず捻くれた子だなと龍樹は思った。
対照的に、
「あぁ、龍樹はん」
おっとりとした垂れ目で、これまた首だけで振り返ったもう一方の女の子は、それこそ親戚のおばちゃんばりの交流を求めてくる。
「久方ぶりやなぁ、元気でやってはるか? ちょっと見ん間にこない大きなって、うちも嬉しい限りやで。彼女とかは出来……いや、止めとこか。今の時期は多感やさかい、お色の話はご法度ご法度」
「……はは」
みーちゃんはどうも言葉遣いが大人っぽい。変な京言葉という精もあるのかもしれないが、なんかこう、艶っぽいというか――まあ早い話舞妓さんみたいな口調だ。
服装はなぜか二人とも巫女装束である。見た目七歳くらいの小さな体躯にぴったりマッチした巫女装束。それがこんなに似合う子供達もそうはいまい。
聞けば母である十與の方の血縁らしいので、もしかしたら、彼女の家系代々は巫女装束を羽織るというのが仕来りなのかもしれない。
そのうち崇子が着せられたら、そういう事で間違いない。
そんな事より、
「何してんだよ、こんな所で」
話を元に戻し、龍樹はもう一度そう訊いた。
それには十與が答えた。
「なにって、……久々に動いておなか減っちゃったから、栄養補給しているのよ。龍ちゃんも食べる?」
「食べねーよ」
えー美味しいのにー、と少し不満そうな十與は言った。
今の話を聞く限り、この親の基本的なタンパク源の摂取方法はどうやらお菓子らしい。
それはさて置き、母はなんとか無事である。
ふぅ、と龍樹は安堵と呆れから嘆息した。
一気に緊張が解けた。
心配して損したわ。
「良かった、なんとか無事みたいだな」
雫は自分の事の様に喜んだ。そんな彼女を見た十與は代名詞の人の良い笑みを浮かべ、
「あら、雫ちゃんいらっしゃい」
そう言った。
「おじゃましてます、おばさん」
「ちょっと待ってね、今お茶を」
「今そんなのんびりしている暇ないだろ」
立ち上がらんとする母に向かって、龍樹はもっともな事を言う。
この状況下でいつも通り振舞おうとする十與。
相変わらずのマイペースである。
「ところで、茶髪の男はどうなったんだよ」
「茶髪の男……あの男なら逃げたわよ」
机の上の丸型容器から煎餅を取り出し、それをまたぼりぼりと食べ始めた十與。
最早注意しても無駄なので、龍樹は気にしない事にした。
「逃げたって……どこへ?」
「う~ん、それは分からないわね。ただ、結果が出たとかなんとか言っていたような気もする」
「結果? 何だそれ?」
意味不明だ。
「他になんか言ってなかったのか?」
「う~ん言ってたような言ってなかったような……」
一応思い出そうとしているのか、口に煎餅を加え、人差し指をこめかみに立てる十與。
ただこの親、よほどやる気と集中力が無いのか、また煎餅を食べ始めた。
あまり期待はしない方が良さそうだ。そう結論付けた龍樹は、どうにか母の数少ない言葉で推察を試みようとする。
と。
「恐らく、あの女よ」
今までずっと黙り込んでいたアテナが、ここで口を開いた。
場に居た全員がアテナへと振り向く。(みーちゃんとひーくんはお菓子に夢中で振り向かなかった)
壁に背を預け腕を組んでいる姿は、出来る女にのみ許されたポーズだなと、龍樹はそんな事を思いつつ訊く。
「あの女?」
そう、あの女、とアテナは言った。
「多分、なにかしらの手段を使って仲間であるあの男を呼んだんでしょうね。ちゃんと組織化された連中だったら、失敗したときの事も念頭に置くもの……目的に逃げられた以上、足止めも必要ないでしょうから」
「……ふーん、そんなもんなのか」
まあ、裏の事情なんて丸っきり知らない龍樹に取っては、聞いたところで感想に詰まるのが現状である。
「いや、待て、失敗したからあの男を呼んだって事は……どうなるんだ?」
何か嫌な予感がするが、その嫌な何かが鮮明にならない。
しかし、このまま引き下がるとは到底思えなかった。
その見解はどうやら当たりのようで、
「恐らく、体勢を立て直してまた来るわ。それも相手は日本を離れようとしている事に気付いているでしょうから、なるべく早く、齷齪にね」
アテナは壁から背を離し、雫へと歩み寄ると、
「だから早く出発しなければいけない」
それだけ言えば理解してもらえると思ったのか、短く、そう言った。
「……ああ、そうだな」
雫は同意した。
「私も追われるのはもうこりごりだ。それに、これ以上ここにいて、皆に迷惑を掛ける訳にはいかないからな」
「……そうか」
考えてみれば、それが妥当だろう。これ以上ここにいる理由もないし、早く安全な場所に向かった方が、彼女も安全だろう。
それに、アテナという凄腕のボディーガードもいるし。
「で、お前はいつ帰って来るんだよ?」
「いつ……さぁ、いつだろうか」
答えを求めるように、雫はアテナへと振り返った。
アテナは眼球だけで彼女を見据える。
「……正直、私が任されたのはあなたを団内まで連れて行くところまで。だから、勝手で申し訳ないけれど、その後の事はなんとも言えないの。ただ、そんなに長くは掛からないと思う。少なくとも、一週間もあれば戻れるんじゃないかしら」
「……だってさ」
龍樹に向き直った雫。その言葉を聞いた上でどんな心境なのかは、これといって表情にでていなかったので分からなかった。
それにしても、正直なところもっと掛かるものだと龍樹は踏んでいた。
それこそ一ヶ月。下手すれば一年とか。
「でもまぁ、どっちにしても学校は休まないといけないな」
「そうだな。学校の皆と一週間も会えないのは一日千秋の思いで辛いけど、致し方ない。また会えるその日を待ちわびて、日々が以下に大切だったかを再認識するのもまた必要だろう。……あ、そうだ、そういえば幾つか約束を取り決めていたんだ。参ったな、断りの電話を入れなくては――だが今日は休みだからな、きっと計画があるだろうから、果たして電話して迷惑にならないかどうか……う~ん、しかし困った」
「なんだよ、学校の友達か? なんだったら俺から言っといてやるぞ」
ほんとか、と雫は顔に笑顔を咲かせた。
面倒臭い感は否めないけど、いつも世話になってる事を考えれば、別にそれくらい構わない。
ああごめん、雫なんだけどさ、なんか用事が出来たみたい――そんな短い言葉で構わないだろう。
「じゃ是非ともよろしく頼む」
「おう、任せとけ。で、誰に言えば良いんだ?」
「ああちょっと待ってくれ。お前の事だ、紙に書かないととても覚えられないぞ」
「おいおい、幾らなんでもそれは馬鹿にし過ぎだろ。言っても俺だって知ってる奴なんだろ? 口で言えば記憶と照り合わせて覚えられるよ」
「百人だぞ」
「ああ!?」
百人。雫は一週間の間にそんな数の人間と触れ合うつもりだったらしい。
どんなハードスケジュールだ。セールスマンでもそこまで人と会うか分からない。
「百人って……お前はどっかのパーティーにでも出席するつもりだったのかよ」
「まさか。ただ単に談話や学に勤しむだけだ。勉強だって大勢でやった方が賑やかで楽しいだろ? 人間の脳は楽しい事を自然と覚えようとする兆候があるらしいからな。つまり、常識的に考え、合理性を求めると、辿り着くのはそこだという訳だ」
「……まあ理屈は簡単だけど」
そもそも勉強という単語が交わる時点で楽しくないと思う。
だけどあの学校は特殊だからなと漠然と考えても見る。
「ん? というか、あの男が居る間、みーちゃんとひーくんはどうしてたんだよ?」
前提として、遠い親戚であるはずの二人がどうして此処に居るのだろう? そんな龍樹の疑問に本人達が答えた。
「なんやぁ、そんなん一緒に戦ったに決まってはるさかい。相手もかなりの腕前で、流石の十與はんでも一人では無理やったで」
「……俺ならいけたがな」
いまだお菓子を食べながら、そんな事をいったみーちゃんとひーくん。
戦った?
「どういう意味だよ?」
龍樹は二人にではなく十與に訊いた。
十與は煎餅を一口食べてから、
「どういう意味って言われても……今説明した通りだから、これ以上簡略化できないわよ」
龍樹は眉を曲げた。
「……なんだ、今言った通りってのは、みーちゃんとひーくんが母さんと一緒になって戦った、ってのか」
うん、そうだよ、と十與は言った。
馬鹿馬鹿しい。母があんなのとやりあったってのも信じがたいのに、そこにみーちゃんとひーくんが共闘したときた。
有り得ん有り得ん、と龍樹はどうしても信じられなかった。
そんな矢先、
「ただいま」
聞き覚えのある元気な声が、玄関からした。
崇子が帰ってきたのだ。
(……もうそんな時間か)
龍樹は壁に掛けられた時計を見た。針は午後四時五分前だった。
がちゃり、と部屋のドアが開けられる。そこからひょっこり現われた崇子は、キッチンでたむろしている一同を見て目を瞬かせた。
「あれ? みんな何やってるの?」
異様な光景に少し驚いているのか、崇子はすぐに近づいてこようとはしなかった。この辺は母が常日頃刷り込んでいる防衛意識の高さなのかもしれない。
「やぁ崇子ちゃん、おじゃましてるよ」
「あっ、雫お姉ちゃん」
なぜか雫を安全の定義としたのか、崇子は一気に距離を縮めてきた。
そしてそれぞれの顔を探るように見て、
「どうしたの? みんな真剣な顔して」
しかめっ面をして、そう言った。
「……察しがいいなお前は」
「?」
兄の謎の褒め言葉に崇子は首を傾げた。
しかし、
「あ、」
疑問で埋め尽くされていた表情は、一瞬にして笑顔へと塗り替えられた。
理由は、
「みーちゃんにひーくん」
である。
二人を見つけた崇子は、(といっても、二人はお菓子に夢中なので嵩子は背中で判断したのだろう)それこそベッドにダイブする時のようなはしゃぎっぷりで、二人へと飛びついた。
それを瞬時に察知したのか、みーちゃんはお菓子の箱を持ったまま横へとうまい具合に回避した。
しかし、場所が悪かった精もあるのだろうが、気付いてはいたものの、ひーくんは間に合わなかった。
押し倒されたひーくんは喉にお菓子が詰まったのか尋常じゃないくらい咳き込んだ。
「がぼっ! ごほごほ、ごほっ! うえー! ごほ、ごほ、ごほっ! おえぇぇーごぼ、ごぼ、ごぼっ! ――っ、――っ、――っ、なにさらすんじゃい!!」
「あ、ごめん」
馬乗りになりつつそう謝った崇子。
食事中だとはどうやら思わなかったらしい。
「まぁまぁ本人に悪気はないんやから。堪忍したりやひーくん」
「やかましいっちゅうねん! こちとら食事中にきなり後ろから飛びつかれてんのやで、怒らん奴なんておらへんっちゅうに! 後、お前もその名前で呼ぶな!」
「お、出ましたなー、怒ったら出る変な大阪弁。ほんまひさびさやわぁ、かれこれ十年ぐらい聞いてなかった気もするし」
「じゃかましい! 変なって言う――い、う、む……ぐぅ」
あまり好きではないのか、地が出てしまっている事に気付いたひーくんは、我に返り押し黙った。
「……ほんとにごめんねひーくん」
崇子は心の底から申し訳なさそうに謝った。
ひーくんは大の字のまま崇子を見ず、
「……構わね―よ」
横を向いてそう言った。
良かった、と崇子は微笑んだ。
ひー君は身なりが六歳くらいだから、崇子にとっては弟のような感覚なのかもしれない。
「でも二人が出てきたって事は、やっぱりなにかあったの?」
「……でてきた?」
いまだひーくんに馬乗り状態の崇子の言葉に、お兄ちゃんの龍樹はクエスチョンだ。
その言葉をなんとか理解しようとしているうちに、話は進んでいった。
十與は頬に手を添えながら、
「そうねぇ、嵩子ちゃんは察しがいいから隠しても無駄だろうし……ちょっと悪い人が家にあがり込んできてね。でももう大丈夫。お母さんが追い払ったから」
「追い払った?」
やっぱり、今の説明で状況を飲み込むのは無理だった様だ。いや、きっと意味は分かっているのだろうが、それでも少し、結果に至るまでに時間が必要なのだろう。
だが、なにも崇子に真実を告げて、過ぎた事を明け透けにして不安を煽る必要も無いんじゃないだろうか?
そう思った龍樹はその旨を十與に伝えようとする。
「……あのさ」
が、
「じゃ、ひーくんとみーちゃんも手伝ってくれたの?」
龍樹の発言に割り込むように(そんなつもりはなかっただろうが)、崇子が馬乗りしている男の子の横顔を見ながら訊く。
それに対しての十與の返答は
「えぇそうよ」
という、なんとも軽いものだった。
崇子は、そうなの? とでもいいたげにひーくんを見下ろした。ひーくんは頑なに横を向き、崇子と視線を合わせようとはしなかった。
流石に龍樹も黙って入られない。
「おい母さん。いくらなんでも信じられないよ。ひーくんとみーちゃんが戦うとか。俺だったらまだ冗談だって通じるけど、崇子は純粋無垢なんだから信じ込んじまうぜ」
「……なんでこんな時に冗談言わなきゃならないのよ」
確かにその通りだ。こんな緊迫した場面で冗談を言えるほど、十與はお調子者でもなければでもない。
その表情も真剣だ。とても嘘――冗談を言っているようには思えない。
(……でもなぁ)
やっぱり信じられない。
だって、みてくれ、完璧に子供だぜ。
そんな根強い疑心を抱く龍樹とは打って変わり、
「そうなんだ、二人ともありがとう」
崇子は信じたらしかった。
これには龍樹も苦い顔をする。
「なんだよ、お前今の話信じてるのか?」
「? どうして?」
「どうしてって……」
崇子にとっては疑問を抱くのが疑問らしい。内容は差し置いて考えてみると確かに矛盾しているのはこちらなのだろうが、しかし、常識的に考えてみれば明らかにこちらが正しい。
(つっても、この二日間でことごとく常識は打ち破られてきたからな)
う~ん、どうすればいいのか分からない、と頭を掻く龍樹。
なにか証拠があればいいんだが。
「……お兄ちゃんもしかして」
ふと、嵩子が龍樹へと問い掛ける。
母に似なかった屈強な目付きが、まるで審問官のような鋭さを纏う。
「ひーくんとみーちゃんの事、人間だと思ってる?」
「……なんだよ、違うのか?」
突飛の無い質問だった。
戦ったか戦わなかったうんぬんではない。
種族を引っ張り出してきた。
「違うよ、ひーくんとみーちゃんは狐だよ」
「きつね?」
きつね? きつねって、あのるーるーるーるーと呼んだら来るあの狐? ほんとに来るのかは知らないけど。
……我の妹だからこんな事は思いたくないが。
何言ってんだ、この子。
龍樹はもう訳が分からなくなっていた。只でさえ狭い思考回路。現在五十キロほどの大渋滞である。
「もぉ、まだ分からないの」
崇子はひーくんを起こすと、彼の顔に頬杖をする。まだ若いのにそんな大胆な事をする妹が心配にならないでもない龍樹。
いや、でも狐なら動物を可愛がる感覚だからまた別の感情か……
察しが悪すぎる兄に対し苛立ちすら覚えたのか、崇子は呆れすら交え言う。
「玄関の前の二体の狐の像が無くなってたでしょ」
「狐の像……」
空野家の玄関前には左右対称、向き合う形で二体の狐の像がある。それがいつからあるのかは、生まれたときには、物心ついたときにはもうそこにあったので分からないけど、とにかく大分昔からある石で出来た像である。
それが無くなっていると、崇子は言ったのだ。
「……そういや無かったような」
正直、母の事が心配だったし、そのまま玄関に上がらず庭に直行したので、全然見向きもしなかった。
それがみーちゃんとひーくんだというのか。
(……そうか、そういう事か)
なるほどね、と龍樹は合点がいく。
おかしいと思っていたんだよ。
どうりでひーくんとみーちゃんには耳や尻尾が生えている訳だ。
「……ちょっといいかしら」
謎が解けた龍樹の耳に、例の冷たい声が入ってきた。結構なショッキング状態なので本当はよくないのだが、それを言ったところで受諾されないだろうから、龍樹は何も言わずアテナを見た。
「談話を割る様で悪いんだけれど、もう時間がない。早く行かないとまたいつ奴等がやってくるか分からない」
「……そうだな」
結構な長話になってしまった。
かれこれ、家に滞在してから三十分は経ってしまっている。
そして。
荷物をまとめ、玄関口でいよいよ出発するぞという場面。
「このクソボケ!!」
酔いどれから昏睡に陥り目を覚ましたパードリッジは、一目散に龍樹に怒鳴り散らしていた。
「なにが隠し味だふざけやがって! 少しでもお前が良い奴だと敬った俺が馬鹿だったよ! くそ、この○○で××の童貞野朗が! 姐さんがピンチだったってのに、俺が側に居ればそんな事にわならなかったんだよ! お前なんか顔も見たくねーよ!」
「……悪かったっていってるだろ」
「悪かったで済んだら裏世界なんか要らねーんだよ! 考えろこのタコ! アホ! 間抜け! ケツの穴に羽突っ込んで、喉の奥がたがた言わせたろか!」
「お怒りはご尤もだが、しかしパードリッジ。お前放つ言葉一言一言が下品すぎるぜ。もうちょっとソフトにしろよ。崇子も居るってのに」
「ああ? ふざけんじゃねぇ! こっちはいまだ頭ががんがんしてんだよ! どお落とし前つけてくれんだ、ああ? この怒り、ちょっとやそっとじゃ収まらねーぞ!」
「パードリッジ。少し黙りなさい」
「分かったよ姐さん」
「……」
まあ、そんな感じで、アテナの腕の中で収まっているパードリッジの件に関しては、一応の収束がついた。
現在、アテナと旅行鞄を携えた雫が土間に立ち、龍樹達はそれを見送る形になっている。
みーちゃんとひーくんは『帰る』とかいってどこかへ行った。直接見ていないので断言できないが、きっと玄関前には左右対称で石造がたたずんでいる事だろう。
「それじゃあ、私達はこれで。色々と世話になったわね」
「ああ、お前も達者でな。また会う日が来れば、その時はよろしく頼むよ」
「そうね。まあ、もう会わない事を祈りましょう」
「だな」
結局、最後まで冷たかったアテナ。ただ裏を返せば、それは彼女の優しさでもあるのだろう。
「それと……その……」
龍樹は心配そうに雫を見た。それだけで、察しの良いアテナは龍樹が何を言いたいのか分かったらしい。
「大丈夫。雫の事は任せておいて。必ずだなんてあえて無責任な事はあえていわないけれど、どんな事があろうと、全力で守り通し、きっと無事日本に帰国させるから」
「……ああ、お前なら大丈夫だと思うよ」
本当に、龍樹はそう思った。
そしてアテナは、今度は十與達へと振り返った。
「十與もありがとう。それと、ごめんなさい、旦那さんの事、色々と」
あらいいのよ、と顔の前で手を振る十與。年齢は分からないが、そのしぐさは最早おばさんである。
「ちゃんと生きてるんでしょ、家の旦那。それだけ聞ければ十分よ。なにもアテナちゃんが気に病む事無いわよ」
「……そう」
寂しげな笑顔を浮かべる崇子を見てどこかやり切れなさそうに、アテナはそう言った。父のいない現状の彼女を可哀想に思ったのかもしれない。
珍しいといっては失礼だが、アテナは常の無表情ではなくやや穏やかな表情になって、崇子にもお別れの言葉を述べる。
「崇子ちゃんもありがとう。英語は教えられなかったけど、努力を怠らなければきっと夢は叶う。だから諦めないでがんばって」
「うん、ちょっと寂しい気もするけど、アテナお姉ちゃんもがんばってね」
少し微笑んだアテナ。
崇子の言った通り、三日間という短い滞在期間だったが、ちょっと寂しい気もする。
恐らく、今生の別れになる率の方が、高いのだから。
無かった事には決して出来ない出来事。そういえば昔こんな奴いたっけ、今はどうしてるのかなぁ? そんな風に、年老いて思い出すような、長い人生で経験する様々な出来事の一種に、過ぎないのだろうけど。
偶然に現われ必然に通り過ぎていく。
そういう――ものなのだろうけど。
「……う~んそれにしても」
ふと、和やかなお別れムードも大尾に差し掛かったその時、十與が礼儀正しい巫女の特性上、こんな事を口にする。
「よくよく考えてみたけど、やっぱり年上の人にちゃん付けはよろしくないわよね。今更だけど、ここはアテナさんと呼ぶべきだったわ」
「なんだよ別れる時になって急に。本当に今更だな。それにそれを言えば俺や雫なんて呼び捨てだぜ。俺が言えるような事じゃないけど、当の本人が気にしてないんだからそんなに――」
ん? なんだこの胸騒ぎ。いや、モヤモヤ感は。
年上?
龍樹は母の年齢を知らない。誕生日が三月三日なのは知っているが、その日を幾つ迎えているのかが分からない。
以前聞いた事があったのだが、それを言ってしまうと、その数値と現役巫女であった時代とを照り合わせ逆算すると色々と問題が起こるらしいので、基本、十與は子供達に年齢を伏せている。
しかし、どう見積もっても三十は超えていると、龍樹は推測している。
その十與が言ったのだ。アテナが年上だと。
というか母よ。
本当に今更過ぎねーか? と思いつつ龍樹はアテナを見る。
艶かしくも見え、面倒臭そうにも見える目付きには拍車が掛かっている。
とても眠たそうな感じだ。
「……アテナ、最後に一つ質問してもいいか?」
「ええ、いいわよ。答えられる事なら」
そうきたか、と龍樹は思った。というかこの場合、いまの話の内容を聞いていたであろうこの場合、きっとその質問はタブーという事なのだろう。
女性に年齢と体重を訊くのは失礼という世間一般の常識には、アテナも当て嵌まるのかもしれない。
それでも、だめもとで龍樹は訊いてみた。
「お前いくつだ」
傍から見ればとんでもなく間抜けな質問だったであろう。
現にアテナも、
「……妙な事を聞くのね」
とごもっともな見解を述べ、何言ってんだこいつと言わんばかりな冷たい眼を彼に当てている。
それでも答えられる分野ではあるらしく、間抜けな質問には彼女らしく順々に言い放った。
「年齢という一般的指標にはあまり頓着しないから正確には分からない。だけど、世相の出来事に照らし合わせて概算すると、恐らく百七十二よ」
意外にもあっさりと答えたアテナ。
内容は全然あっさりしてなかったけど。
「ひゃくななじゅうに……」
思わず口に出して反芻してしまう龍樹。
これは流石に知らなかったのか、雫も少し驚いた表情を取っていた。
質問は一つと言ったが、流石に事が事だけに、龍樹は次いで訊く。
「お前人間か?」
「それは答えかねるわね」
アテナは即答した。
「厳密に言えば、答えられない。なぜならそれはあなたが決める事。何を持って人間とし、何を持ってそうでないとするか」
「パードリッジと同じ事を言うんだな。……まぁでも、お前の言葉を信じるよ」
「そう、なら」
アテナは平然と、中々重い質問にも拘わらずまるで気に留めないような調子で、
「人間よ」
そう言った。
「……だよな」
我ながら間抜けな質問だったと、龍樹は思う。
愚問もいいところだ。その質問はチワワにあなたは犬ですか? と訊いているようなもの。
容姿や性格はみんな違う。所詮、龍樹も、雫も、十與も、崇子も、アテナも、概念という枠組みに収まった、似て非なる全くの別物。
それを上から目線で、
『お前人間だよな』だって。
(……あー恥ずかしい)
穴があったら入りたいよ、と龍樹は内心で思った。
「それじゃ今度こそ」
「ん? ああごめんごめん。変な質問に足止めちゃって」
謝礼と言ってはなんだが、笑顔でお見送りする龍樹。でもまぁ、アテナはそんなもの一ミリも望んでいないだろう。
というか、どうでもいい事だろう。
アテナは引き戸式の引手に手を掛け、ドアを開けた。
そして振り返り雫を見る。その視線が訴えかけるのは、『雫、行くわよ』という意思表示と思われる。
雫もそれに無言で答えた。
「じゃあな龍樹。いいか? 何度もくどい様だが、私がいないからって怠けるなよ。一日一回、三十分でも良いから勉強するように。千里の道も一歩からというだろ。終わりある時間に無駄はないからな。常日頃からそれを胸に刻んでおけば、お前もそのうち分かる事だろう。ほんの些細なことでもいい。お前はまずなにかを続ける事から始めてそれをする癖をつけるように」
「……やめてくれないか、あの家庭教師と言ってるのかぶってるから」
「? なにを言ってるのかは知らないが……」
そこで雫は今までの矜持じみたスタイルを崩し、例えるなら、家の風呂水を出しっぱなしにするかのような感じになる。
「ああ~それにしても心配だ。お前絶対何もしてないような気がする。私が帰ってきたら、家に引き篭もってろくに動かないものだから肥満になって、来る日も来る日もいかがわしいゲームやマンガに手を出してその内現実と妄想の区別が付かなくなって過ちを犯してしまい獄中に入っていたらどうしよう」
「お前は俺をどこまで駄目な奴だと思ってんだよ」
たかだが一週間ぐらいだぞ。
それに獄中って、どんな大罪を起こしたんだよ。
「大丈夫だよ。ちゃんとするから――つーかお前って本当に冗談にならないくらい他人の事に捉われすぎだぜ。こんな事いうのもなんだが、お前を心配してる奴だっているんだから、今に至っては自分の事だけに集中しろよ」
「ははっ、身に余る言葉だな」
笑いながら、雫は女性の腕力では結構きつそうなキャスター付きの旅行鞄の取っ手を、両手で掴んだ。
「だがな龍樹、前にも言っただろうが、これだけは覚えておいてくれ」
そして言う。
いつもの余裕の笑みを浮かべ、龍樹を真正面から見据えた雫はなんの淀みも戸惑いもなく、
「私に取っての幸せとは、皆が幸せで居てくれることなんだ」
そんなくさい事を平気で、本気で言ったのだった。
「はたからすればむずがゆく、耳障りなのかもしれないが、それが真情なのだからしょうがない。悪いが、その気持ちは何者にも変えられまい」
「分かってるよ」
溜め息を付いて、苦笑い。
この女にはなにを言っても無駄だろう。龍樹はそう思ったのだ。
「でもま、雫もアテナも、道中くれぐれも気を付けるように」
「ああ――というか龍樹、お前も気をつけろよ」
「……なんでだ?」
急に真剣な顔付きになった雫に、龍樹は顔を顰めた。
その理由を雫は言う。
「なんでだ、って、分からないのか? お前、住所を知られてるんだぞ」
(……あ、そっか)
それすなわち、今回の件に関わりがあり、かつ何かしらの情報を持っていると考えるのが妥当だろう。
つまりは、
「家にあいつらが押し寄せる可能性があるって事か」
そういう事だ、と雫は言った。
「ただ、その件に関してはなにか手を打ってるらしい」
雫はアテナを見た。そっちから説明してくれと言いたげに。
それを感じたのか、門付近を警戒するように見ているアテナは、重そうに口を開く。
「……気にしなくても大丈夫よ」
そんな冒頭に、龍樹は嫌な気がした。
「あなたは今まで通りただ日常を過ごしていれば良い。後はこちらが何とかするから」
「どういう意味だ?」
「前にも言ったでしょ」
アテナは首を捻り、龍樹を見た。眠たそうな目付きが、龍樹へと向けられる。
「それは――知らなくて良いことだから」
「……なんだよそれ」
その物言いに、龍樹はイラッとした。せっかく綺麗にお別れ出来そうだったのに、此処に来て嫌な空気になってしまう。
沈黙が訪れる。といっても、十與や崇子は特にこれといって干渉していないだけで、パードリッジに至ってはまた昏睡に陥ったらしいので、この場で焦っているのはせいぜい雫ぐらいのものである。
「……ま、まあまあ」
自分から端を発したと思っているのか、雫は作り笑いで間を取り繕う。
「お互いにお互いの主張があるだろうが、喧嘩はよくない。悪いな龍樹。自分から言っておいてなんだが、具体的な事は聞かないでやってくれ。それはアテナなりの優しさなんだ」
「……さぁ、どうだか」
不適な笑みを浮かべた龍樹は、再び門に顔を戻したアテナの背を見た。
「案外、面倒臭いだけなんじゃないの。ほら、俺って馬鹿だから説明にも余計な時間食っちまうし。何よりも、知ったところで、それはきっと俺ごときちっぽけな人間じゃ、どうしようもない事なんだろうしさ」
「こら、そんな考えはよくないぞ」
「……ああ分かってるさ」
遣り切れなさからか、龍樹はアテナから視線を外し、顔を背け、
「アテナは――正しいんだろうよ」
間接的に本人に聞こえるようわざと、声を張った。
聞こえていたであろうに、しかしアテナは何の反応も見せなかった。いまだ門の方をじっと見据えている。
「……あのな龍樹」
その内容は出来れば伏せておきたかったのか、
アテナの背をチラチラと様子を窺うように見た雫は、渋るようにこう言った。
「アテナは本当にお前の事を思って言っているんだよ。余計なお世話かもしれないが、最初、実はお前の父親に付いても聞いてみたんだ」
は? と驚きの声を漏らす龍樹。
構わず、雫は続ける。
「正直、私がアテナの立場だったなら、多分、一緒の事をしていたと思う」
「……」
何を言っているのか分かったのはほんの二秒後。
要約するに、雫は龍樹の父親について、アテナからなんらかの情報を知っているという事だ。
衝撃を受けた龍樹はまさかと思い十與を見た。母はどこか難しい顔をしていた。(それでも笑顔を絶やさない辺りは流石なのだろうが)
それはきっと、妻である彼女には、旦那の、龍樹たちの父親の――靖近の近状や動向は伝えられているのだろう。
恐らくは最初の晩。龍樹が寝ている隙の犯行。
何が起こっているのか分かっていない顔の崇子は、どうやら共犯ではないらしい。
「……」
龍樹は下唇を噛んだ。
機会があれば聞いてやる、だなんて妙に期待させといて、実はその時にはもう知っていただなんて酷い話だ。
それに母も母で、知っているなら教えてくれても良いいものなのに。
なんだか裏切られた気分になった。
母達のために等という名目のもと一人力んでいた自分が馬鹿みたいだと、龍樹は感じた。
それにアテナ。
他人に教えといて息子である自分に教えないなんてどういう料簡だ、腹すら立った。
そんな不貞腐れにすら構わず、雫は続ける。
「言ってたぞ、龍樹には悪い事をした。恐い思いをさせたと。だからこれ以上あの子を危険な事には巻き込みたくないと……言った矢先さっきの一連だ。そりゃ悲観的になってよりセンシィティブになるのも仕方あるまい。だから」
「雫」
冷徹なその声に。
びくっと反応した雫。
言わずとも分かると思うが、その声はアテナのものだった。また首を少し捻り、面倒臭そうな――いや、きっとこの場合は、余計な事を言うな、と伝えたいのだろう。
そして、一言。
「早く行きましょ」
うまい具合にこの場から離れられる短い言葉を、放ったのだった。
「……ほら、ああ言ってるぞ、早く行けよ」
「ん? あ、ああ」
揺らいだ応諾。
理由は分かっている。
千石雫という女は、こういうぎくしゃくした空気が嫌いなのだ。
自分ならいざ知れず、それが……それが交友関係同士の軋轢ともなれば、尚更だ。
「……」
その顔にこれでもかというくらい不満が溢れ出ている雫。途中までキャスター付の旅行鞄を引っ張って出口へと向かっていたのだが、
「……」
途中で立ち止まった。
「……?」
龍樹は眉を寄せた。
どうしたんだろうと思っている内に、雫が振り返り、ずかずかとこちらへと接近してきた。表情は険しい。歩き方といい、なんだか怒っている感じだ。
もしかしたら殴られるんじゃないだろうかと本気で思う龍樹。
「な、なんだよ」
雫は拳を握り龍樹をなぐ――なんて事は流石になかったが、ぐい、とその顔を近づけ、
「握手しろ」
そんな意味不明な言葉を、口にした。
「最後に握手しろ」
「はぁ? 何言ってんだお前」
「アテナと握手しろと言ってるんだ」
「ちょ、ちょっと待てよ」
雫が顔を近づけているので、仰け反る龍樹。別に気圧しされている訳ではない。もしそうしなかったら、間違いなくキスしているからだ。
そういえばアテナも話の芯に至ればこうしてたような……
もしかしたらそういう系の本にバイブルとして載っているのかもしれない。
「何で俺がアテナと握手なんかしなくちゃならねーんだよ」
「決まってるだろ。友好を深めるためだ」
「……やだよ握手なんて、小っ恥ずかしい」
握手なんて、最後にしたのはいつかも分からない。
それなのに雫は、
「なにが恥ずかしいだ。抱き合えというならいざ知れず、手を握るだけだろうが」
「そりゃそうだが……いやそもそもの前提として、お前に一体どんな権限があってそんな事言ってんだ?」
「権限ではなく責任だ。平和の使者としてのな」
「何言ってんだお前」
いつもながら人の懐に土足で上がりこんでくる雫に、やはりいつも通りたじたじになり始めた龍樹。
一応ながら様子を見るため、目前にある雫の顔の向こう側にいる女に、オートフォーカスのように龍樹の視線がピントを合わせた。
アテナはまた軽く首を捻りこちらを見ている。その心理は無表情なので汲み取れないが、
「見ろよ、アテナも呆れてるぞ」
龍樹にはそう映った。
言葉を受け、雫はその厚かましい優しさの照準をアテナへと変えた。
アテナの方に振り返って、
「ほら、アテナもこっち来て。最後になるかもしれないんだぞ。ちゃんと別れはしておいたほうが良い」
「……必要ないわ」
手招きする雫にそう返したアテナ。
すると雫は、
「じゃないと私は行かないぞ」
奥の手を出し始めた。これには流石のアテナもわずかに顔を歪めた。
雫へと完全に向き合って、
「馬鹿いわないで、そんな子供みたいな事」
「それはこちらのセリフだぞアテナ」
寸分の間も空ける事無く、雫は言葉を返す。
「子供なのはどっちだ。別に龍樹が嫌いなわけじゃないんだろ? それは朝方聞いた話からも推測できる。ただ単に恥ずかしい、馴れ合いは御免などという心が邪魔をして後一歩を踏み込めない」
違うか? と雫は返答を要求する。
アテナは何も答えない。それが答えだと受け取った雫は、
「握手すればそれで済む」
穏やかな笑みを浮かべ、そう悟らせる。
「……」
アテナは上を見上げる。そして、かなり小さくだが、ふぅ、と溜め息を吐いた。
話さなきゃ良かった、とでも思っているのかもしれない。
そしてこう思ったはずだ。
握手すれば、それで済む。
視線を空から落としたアテナは、二秒ほど目を瞑った後、龍樹へと視線を当てた。当の龍樹もアテナを見ている。
二人の視線は交錯している。
一歩二歩、アテナは龍樹達の元へと歩み戻った。
それが何を意味するのかは、龍樹にも分かる。
案の定、アテナは左手を前へと差し出した。
瞬間、
「右手だ」
なにが不満なのか、雫は即座にそう言った。
「……」
しばらくの間を経て、アテナは言われたとおり服のポッケに入れていた右手を抜いて前に差し出し、代わり際に左腕をポッケへと仕舞いこんだ。それはアテナなりの些細な抵抗なのかもしれない。
それにしても驚いた。
あのアテナが丸め込まれている。
なぜ左では駄目なのか龍樹には分からなかったが、とりあえずそこまでされては拒否できまい。
龍樹は無言でアテナの手を握った。彼は上がり框に立っているので、必然的にアテナの身長はいつも以上に低い。
彼女のその手は柔らかかった。小さかった。こんな手でよくあんな奴等とり合えたなと思った。
「……ふ、」
堪らず、龍樹は軽く笑ってしまった。
だって考えてみると、少し険悪になった女との仲を友人に心配されたあげく、それが巡り巡って握手などという尻こそばゆい行為を展開しているという今のこの画は、笑うなという方が難しい。
「さぁ、それぞれ一言ずつ」
握手している龍樹とアテナの間で、まるで仲人のような位置取りの雫。
一言だなんて、恥ずかしさに拍車を掛けるのは間違いないのだが。
しかしここは彼女の機嫌を損ねてはいけないような気がしたので、とりあえず従う。
「えーと……まぁ、短い間だったけど」
一度弱くなってしまうと、後は簡単なもので、
「ありがとよ、色々と」
不思議と、そんな言葉を口にしていた。
アテナは喜びもせず、
「こちらこそごめんなさい。その、……色々と」
そう返したのだった。
その色々はどこまでを含んでどこまでを含まなかったのかは分からないが、まあなにわともあれ、最低限の条件は突破できたようだ。
龍樹とアテナの間にいる雫は、とても満足そうな笑みだった。
「……これでいいのかよ?」
龍樹は雫に確認した。
ああ、と雫は頷いた。
というか、元を辿ればこうなったのって、お前の精なんだぜ、と龍樹は内心で愚痴った。
「私達は巡り合えた」
握手するその手に、雫の手が覆い被さった。
「世界中にいる七十億という膨大な数の中で選ばれたたった一人の人間を知ることが出来た。そこに偶然なんてない。例えそうだとしても、偶然はやがて必然に変わる。今後会おうが会えまいが、アテナと龍樹という人間が触れ合ったという事実は決して薄まらない。それだけは二人とも分かっていて欲しい」
「……分かってるよ」
最早、今更なので何も言わないが、千石雫というこの女は、どこまで平和を好むのだろう。
龍樹は以前、彼女の言った言葉を思い返す。
私は皆に幸せになって欲しいんだ。儚く、愚かな理想論なのは分かっている。それでも――抗うくらいの努力はしてみたい。
そんな感じだったと思う。
一見して謙虚な物言いだったが、今この時を思うと、こいつは理想論だなんてちっとも思っていないのかもしれない。
こんな些細ないざこざすら許さない、超平和的主義者。
握手している手に固定リングのように添えている雫の手を見て、もしかしたら雫は本当に平和の使者なのかもしれない、と龍樹は思った。
(……あれ? つーかこいつ)
そこでふと、龍樹は引っ掛かった。
いや、話の流れ的には全然関係ないことなのだが……
その不審は雫にではない。無表情のアテナにだ。
(傷がない?)
あれだけの戦闘を行なったにも拘わらず、握手しているアテナのその手にはまるで傷が無い。手だけではない。腕も、足も、顔も、何処を見ても傷一つ見付かりやしない。
(いやでも腕切ってたような……)
そんな気がしたのだが、気の精だったのだろうか?
「よし、じゃ本当にもう行くよ」
「ん? あ、ああ」
旅行鞄に手を伸ばし直した雫。その動作は結構焦っている感じだった。
そりゃそうだ。
もう行くよ、といっておいて仕切り直しばっかりだったのだから。
「おばさん、お邪魔しました」
「えぇ、またいらっしゃい、今度はちゃんと御もてなしするから」
「それは楽しみだ。――崇子ちゃんもまたね」
「うん、雫お姉ちゃんも気をつけて」
雫は手を振りながら外に出た。それを確認したアテナも外に出る。それからドアを閉める過程で、
「さようなら」
左眼だけを覗かせ、そう言った。
(……ホラーかっての)
でも、そんな最後も、ありなのかもしれない。
ピシャン、という音が、空野家の玄関に心地よく響いた。
玄関のドアは遮蔽され、二人の姿は見えなくなった。
こうなると切り替えのいいもので、
「さ、晩御飯のしたくしなくちゃ、崇子ちゃんも手伝って」
名残惜しむ気配を全く見せず放たれたそれに、はいはい、と何の迷いもなさそうに返事を返す崇子。
(……親父の事とか庭の荒れようとか気にならねーのか?)
まあ、その辺は性格の問題なのだろう。
気にしてもしょうがないというのは、間違いないだろうし。
なにわともあれ。
玄関に独り取り残された龍樹は、
ふぅ、と息を吐く。
これで本当に終わった気がした。
この春経験したその世界は紛れも無く真実である事は間違いない。
なので、未来はどうなるかなど当然の様に分からないけど、きっとこれから先の生活においてなにかの拍子に思い出してしまうような、重大な事柄であるには間違いない。
(だけど、だからといって――なんら問題はない)
扉に手を伸ばし、戸締りをする龍樹。
(今まで関わらずここまで来れたんだから、それは多分、そういう体制が整っているからに他ならないんだろうよ)
ここに立ち尽くしてもしょうがないので、居間へと向かう。
(だからきっと、これから先、決してそんな事は思わないけど、関わりたくても関われない、そんな世界の闇とやらなんだろう)
関わりたくても関われない。
裏世界。
当然、そこの住人であるところの――アテナとも。
(……自棄に寂しげな奴だったな、あいつ)
寂しげというより――儚げ。
触れれば壊れてしまうというより、元より壊れて、常に薄まっている感じ。
暗い性格という精も多大にあるのだろうが、それを抜きにしても、独りよがりというかなんというか、
(恐がっている?)
他人との――接触を。
(……馬鹿馬鹿しい)
というより、無駄な事。
いくら自分が考えたって、答えなんて出るはずもないし例え出たとしても、それが勘違いの可能性だってある。
人の内側なんて、本人にしか分からないのだから。
なによりも、
それを伝える術が分からないだろう。
もう会う事はないのだから。
「あ、龍ちゃん」
居間にたどり着いてさぁテレビでも見ようかと思った矢先、母が何やら深刻な感じで息子を呼んだ。
「何だよ?」
「今日晩御飯グラタンにしようかと思ってたんだけど、お母さんドジだからグラタンの元買ってくるの忘れちゃって」
「……なんで忘れるんだよ」
一番忘れちゃ駄目だろ。
なにしに買い物行ったんだよ。
まあ今回が初めてじゃないけど。
そしてその時はいつも決まって、
「買ってきてくれない」
そういうのだった。
「えー、面倒臭いよ」
「すぐそこじゃない。パッと行ってパッと帰ってきたら済む話よ」
「……分かったよ」
グラタンは嫌いじゃないし。
龍樹は降ろしかけた腰を浮かせた。
お金を受け取り、母の買い忘れた材料を近所のスーパーに買いに行く息子。
模範的日常。
いつも通り。
ちょっとしたイレギュラーもあったけど、まあ、あの夏の思い出(今は春だけど)的に捉えておけば良いと思う。
どこかの作家が、傷を癒すのは時だなんていっていただろうし、その内様々な出来事に片隅に追いやられ、思い出にしかならないのだろう。
これが日常。
それが世の流れ。
「いってきます」
だがそれは大きな誤りだった。
思えば滑稽だった。学校で常軌を逸した馬鹿のレッテルを張られた人間が世界を語るなど愚の骨頂もいい所だ。
ちょっとした夏の思い出? いつかは思い出になる?
世界の流れとやらは、そんな生易しいものではない。
結局無かった事になんて出来ないし、過去とは過ぎ去ったから過去な訳であって、常に平等な世の中は誰にでも無関心だ。
それ相応の出来事にはそれ相応のものが付随する。
数日後――それに気づく。
修正点
・妹の崇子がひーくんに頬釣りした後の龍樹の心境追加。
『ひー君は身なりが六歳くらいだから、崇子にとっては弟のような感覚なのかもしれない』
『いや、でも狐なら動物を可愛がる感覚だからまた別の感情か……』
これつけとかないとひーくんと崇子の関係性がいまいち分からなかったので。
恋愛感情じゃないですよ!!




